9 最愛の師

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9 最愛の師

実際のところ噂の半分はミレイに対する明らかなやっかみと、嫉妬からくるものだった。 絶世の美女で黄金の輝きを持つ色変幻師が、美丈夫でならした将軍と懇意にしている。 このことが、王宮美術館に出入りする他の芸術家たちを差し置いてミレイが彫像づくりに選ばれたことで良くない方の噂に発展したのだ。 そもそも王城の、あの巨大な絵も、色変幻魔法を使わず複数の画家であっても描くには何年もかかるところであったが、できないことではないのだ。 ミレイが選ばれた根拠を確実に述べることを王がわざわざするわけもなく。 王弟の愛人であったからとまことしやかに囁やかれた。 決定的だったのは壁画完成後に行われたいくつかの夜会で、将軍が妻を伴ってして参加した折、他の貴族から嫌がらせを受けていたミレイを、妻そっちのけで庇っていたと目撃者が多くある出来事があったからだ。 後にミレイが彫像の製作者となりさもありなんとはじまった噂であった。 そんなこと知る由もないのはロキナだけだったのだ。 「そんな、信じられません」 それは沢山の人間が思う様に焚べていった薪が、ロファという火を伴い爆ぜたような。 そんな事件であった。 ロファが公衆の面前でミレイに暴言を吐き、暴力を奮ったというのだ。 そんなにわかに信じられない知らせがもたらされたとき、ロキナは演習担当の教授について他の学生とともに学会に出席するためとなりの州近くまで出向いていた。 学長であるアルバや、国内外の先生方の演説を聞くためだった。 仕事の都合で遅れて学会に駆けつけた学長のアルバがいうには、ミレイとサナはその後王の采配でどこかに匿われ、ロファとは引き離されているのだそうだ。 学長が遅れてきた理由は、まさに昨日行なわれたマティアスの彫像のお披露目式典とその後に王宮美術館の庭で行われた立食形式の食事会への参加であった。 昼間の庭園で行われる会とあり、たしか息子のサナも参加していたはずだ。 「ロファははじめから様子がおかしかった。儂もやたら酒の進みが早いとは思っていたし、ミレイが止めてもきかなくてな。そしたらロファが立ち上がって出て行こうとはじまって、まだこれからマティアス殿の挨拶があるとミレイが止めたらあんな…… 」 ……誰にでも色を染める、この売女が。 「そういったんですか……」 「ロキナ ! 」 その言葉にロキナは衝撃を覚えその場に崩れ落ちる。ロキナのまわりの学生が支えて、控室の椅子に座らせてくれた。 およそ師の言葉とは信じがたいが、事実なのだろう。 (ミレイさんの瞳が、マティアス殿を見て変じたということ?) ロキナは色変幻に関する書物を取り寄せては確認してきた学者でもある。 最近では地域性はあるものの主に女性で色変幻の持つものは、魔力が強ければ強いほど気持ちの揺れで色の変わる度合いが大きいとあった。 瞳の動きによって人の心を判じる学問もあるぐらいだから、魔力が瞳から感情とともに漏れ出すこともおかしくない。魔力はその人間のもつの気の力とも関係しているから、気血水を巡らせる中で精神のバランスを崩し気が逆巻く状態になることにより、起こる現象なのではと考える。このあたりはミサキ国の医術文献の考察である。 とにかく、マティアス殿のことを、やはり憎からず思っていたのだろうか。 しかし、ユノを連れて一度ロファの家を訪れていたときなど至って普通に接していたように見えたのだが。 頭のどこかでは冷静に考えようとする自分がいるのに、ロキナは動悸が止まらずに目の前が真っ白になってきた。 「いかん、ロキナ、過呼吸になっておる、ハルマ、なにか袋をもってこい」 そこに通りがかったのは同じく学会に参加するため来ていた黒髪の若い男だった。  腰袋から生成りの麻紙の袋を取り出すとテキパキと処置を行い、苦しむロキナの呼気を落ち着かせる。 若者は名前も名乗らず、別の会場に行かねばならぬと立ち去った。 「若いのに手際が良かったですね。ミサキ国の人ですかね。」 麻袋をロキナの手ごと支えていたハルマが感心したようにいった。 椅子にぐったりともたれているが、呼吸はもとに戻ったようだ。 「儂の出番も近付いてきているが、ロキナはハルマ、お前が宿に連れて行って上げなさい」 その言葉に頼まれたハルマは少し頬を上気させ嬉しそうに頷く。 「いえ……  大丈夫です。ですが、アルバ先生。申し訳ないのですが、家族が心配なので私を一日早く帰らせてはいけませんでしょうか」 いまだ顔色の戻らぬロキナを心配し、ハルマは立ち上がると椅子に座るロキナの肩を抱く。甘やかな美貌に落ちる翳りは、胸が痛くとも美しくて憎からず思う身としてはどきどきと心臓がなる。 「ロキナ、いけないよ。宿で一晩休んだら明日の朝早く俺が馬車を手配して上げるから一緒に帰ろう」 この州にはハルマの父の商会が持っている店の支店がある。頼めば馬車を借りられるし、憧れのロキナに恩を売りつつ、馬車の中で二人っきりになれるチャンスだとハルマは俄然張り切った。 しかし、それは一瞬の喜びだった。 ざわっと会場の空気感が急に変わった。 光沢のある黒地に赤い縁取りのある隊服。 翻る内側から血のように赤いマント。 拍車のついたブーツの踵を鳴らして歩み寄る人物。 隣でアルバが、やや憎々しげにつぶやく。 「来たか、ロキナの守護騎士が」 周囲の視線を一身に浴びる白皙の美貌。しかし浮かぶ表情は酷薄としか形容しづらい。 「ロキナ、迎えに来たぞ」 その場を圧倒する存在感を纏い、ユノが表れたことにロキナは驚きつつも安堵の吐息を漏らした。 ユノがハルマが支えるように掴んでいたロキナの肩を一瞥する。 正直、心臓が縮みあがってハルマはすぐに手を離した。 「演習先から夜がけとは恐れ入るな」 アルバの言葉も無視し、ロキナの元に跪く。 「帰るぞ」 瞳に涙の被膜がみるみる覆い、ロキナは顔を覆って頷くと、ユノは華奢な身体を軽々抱き上げて、騒然とする会場をあとにした。 馬車に向かい合うロキナは不安そうな顔をして、窓の外を見るとはなしに眺めている。 時折小さなた溜息を吐くが、終始迷子の子どものように戸惑っていた。 昨日の出来事は、ショックを受けるであろうロキナに、自分の口から伝えたかったのだが、あのおしゃべりな学長から、すでに伝わっていたのだ。 忌々しいジジイだと内心毒づく。 昨晩演習先から夜がけで来たのは間違いないが一度郊外にある別邸を経由して馬車で迎えに来ていた。 演習場に置かれた魔伝石に本宅から飛ばされた伝令通り、そこにはサナとミレイが匿われるという名の軟禁状態に置かれていた。 渦中の人物をわざわざ自分の手の内に置くとは、伯父である王も絡んでいるとはいえ、 昔から父の考えていることはさっぱりわかなかったがこれは最たるものだと思った。 母は自分によく似た母方の家系特有の栗色の髪を持つ穏やかな次男を溺愛し、父似の自分のことは昔から恐れるように顔色を伺って腫れ物に触るように接してきた。 残された長男を少しは構おうと思ったのか、それともすでにミレイがロファの妻だと知っていたのか。 あの家に連れてこられたときは父と二人ででかけた事の意味がさっぱりわからず、ただただ父と向き合って乗った馬車の中で困惑していたのを覚えている。 あのときのミレイは若いとはいえ普通の母親に見えた。正直ロキナと出会ってからは他の誰であっても興味をなくしたのでよく覚えていない。 二人の接点はあのときだったのか、それともまた別にあったのか。 ロキナを迎えに来たのにはユノなりの理由があった。 一見家族思いのロキナは、実際は師であるロファを第一に考えていることはこれまでの行動から明白で、ロファが一人になった以上、 ロキナはこれまで以上に家に帰ることは考えるまでもなかった。 もしかしたら寮も飛び出し、ロファの家に戻るかもしれない。 そうなる前に先にロキナを攫いに来たのだ。 何を考えているのかわからない父親だが、 その実似たもの親子なのかもしれない…… 自分でそう思い当たり、ユノは苦笑した。 馬車は一刻ほど走って王城郊外に近づいてきた。 「サナとミレイさんは元気なの?」 「サナは元気だが泣いて家に帰りたがっている。ミレイさんはショックで臥せっている」 その話を聞きロキナの瞳に涙が溜まってきた。サナ、と小さくつぶやく。 「私が直接マティアス様と話はできないの?」 片眉を上げ、ユノは訝しげに聞く。 「何を話すっていうんだ?」 「先生は、本当に家族を大切に思っている人です。何か誤解があったに違いないから…… だから二人を早く返してあげてほしい。」 「頭が冷えるまでの一事的な対処だろう。陛下も周りの目のあるところで起こったことだ。示しをつけるためにも一度距離を置かせたのだろう。」 そう言ってロキナの手を取り、力づけるようにぎゅっと握りしめた。 「噂で疑心暗鬼にかられて…… 酒も手伝って、魔がさしたんだろ」 「ひどい言葉をかけたと。……誰にでも色を染めると……」 萎れた花のようなロキナの姿。他人を思いやるのは良いことかもしれないが、ユノにはやや面白くなくも映る。 「花色の瞳か……」 「もしかしたら本当に、マティアス様のことを見て瞳の色が変じたのかも。師は浮気でなく、心も寄せていると思って、許せなかったのかもしれません……」 ユノはその言葉になぜか口元を歪めるような皮肉げな笑みを浮かべた。ゾクリと背筋が震え、ロキナはそら恐ろしさを感じ、星のように反返るまつ毛を伏せ目をそらした。 「お前が俺を見て目の色を変える時、口ではつれなくても、俺を慕っていると感じて。 ……俺はお前が可愛くて堪らなくなる」 掴んだ手に力を込めて引き寄せ、膝の上に抱き上げる。不安げに揺れる藍玉の瞳はユノを見上げて潤んだ。 「でももし他の男に、この目が染まったら、そうだな…… くり抜いてしまうかもな。 そしたらもう染まることはないだろう?」 そう言うと涙ごと瞼を覆うように唇を這わさした。ユノの執心を恐ろしく感じながらもそれに囚われたい自分もいて、相反する感覚にロキナは身を焦がしながら、ユノの胸にすがりつく。 他の誰にも、染まりたくない…… でも染まるかもしれない。 心はうつろいやすく、脆いものなのだから。 真の心を捧げるとあの日に決めたのは自分。 こうしてユノに心を揺さぶられるのもまた自分。 大国ロズクの城下町に馬車は入っていく。 そこではさらなる悲劇が起こっていたのだが、二人はまだ知る由もなかった。 王城のミレイの絵の下で、ロファは昏睡状態で発見された。 人気が少ない早朝、開門直後。 警備の近衛兵が階段を駆け上がる間もなかったらしい。 それは、それほどに一瞬の出来事だった。 巨大なミレイの壁画をひと目に触れさせないように。 まるで氷で覆われていくかのように。 一瞬で氷結させられた絵は、 アイスブルーの色彩で完全に覆われてしまった。 ミレイが魔力を継ぎ足し継ぎ足し、 何ヵ月もかけて描いたほどの大きさの絵を、 ロファの魔力は、一瞬にしてすべて覆い隠した。 しかしそれは人が扱える魔力の量の、 限界を超えた発動だった。 ロファは魔力の枯渇からその場に倒れ込み、死に等しい程の昏睡状態に陥った。 国宝を傷つけたロファは、収監されて然るべきだが、人道的な配慮から騎士団の病院に見張り付きで入院させられていた。 見張りの騎士に礼を行って中に入ると、傍に家族はおらずたった一人で無機質なベッドに寝かされていた。 容態の説明を得るため医師を連れに行ったユノとも離れ、病室にはロファと二人きりになった。 たまらなくなってロキナはロファの傍に駆け寄る。 「どうして…… どうしてこんなことをしてしまったのですか?」 溢れる涙ですっかりやつれ果てたロファの顔がよく見えない。 愛しい気持ちとやるせない気持ちが込み上げ、両手でロファの頬を包んだ。 いつも優しくロキナを見守ってくれた若草色の瞳は固く閉ざされ、頬は冷たいほどに強張った質感で、胸が張り裂けそうになる。 魔力の欠乏は生命力の欠乏に直結する。気を巡らす力が足りなくなり、そのままだと死に至るか、そうでなくとも回復が遅れて中々目覚めないかもしれない。 ロファが自分の前から消える。恐怖に足元からすべてが崩れ落ちる様な感覚になる。 (思い出せ、魔力の欠乏は他人の魔力でも補えるはず) 高度な癒やしの魔力を持つ上医者というものもいるが人数も少ない。魔力を伝達する行為は輸血に近く、たとえ患者であってもおいそれと行えるものではない。 それに魔力は一人ひとりそれこそ血液よりも複雑な種類があるため、他人よりはましであるが親子であっても近しいとは限らない。 色変幻師と言う点、同じ里の出身の可能性が高い点で、ロキナは多分他のものよりもロファに近いものがあるはず。 元々は赤と他に封じてきた青も訓練すればまだ使えるかもしれないのだから、やって見る価値はある。 色差し行為までは行かないが、ただ触れるよりも粘膜を接触させることのほうが魔力を移せる。 本当は医師の診断や許可なしで行うことは施術者の健康を害する為、人に魔力を移す行為は禁忌とされている。 しかし今やらなくて、いつやるというのだ。 ロキナは決意し、身動きもせず大きな身体を横たえた師の上に覆いかぶさっていった。 (あなたのいない世界など、ボクにはなんの意味もない) あの日、降り注ぐような星空の下、 手を繋いで一緒に駆けてくれたときから。 告げたことはないけれど…… あなたがボクの最愛なのです。 触れたことのない唇にそっと細い指先を這わす。 顔を見るだけであとからあとから、 悲しみがこみ上げてくる。 ポタポタと涙が零れて、ロファの頬を濡らしていった。 しかし今一度決意したロキナはゆっくりと顔を近づけていった。 カサつく冷たい厚みのある唇を割り入って、自身の熱い舌を差し入れる。 赤とも青とも意識せず、しかしピリピリしながらも引っ張られて抜かれていくような感覚が舌から伝わる。 動かない相手の舌を巻き取るように舐め、鼓動を確かめるように胸に手を這わす。 魔力を流すたびに貧血のように目の前が暗くなる。 しかしロファの鼓動が強くなっていくような気がしてやめることはできなかった。 これがどんな愛かはわからない。 ユノが言うように恋が落ちるもので理由がないのならば、理由があるこれは恋ですらないのかもしれない。 でもロファを世界で一番に慕い焦がれるこの気持ちには嘘偽りはない。 (その証拠にボクは、今このとき、この人とともに死んだっていいんだ。) 自分に言い聞かせるようにそう思った。 いよいよ足を支えていられず、膝から崩れ落ちる。ロファの胸もとに上半身を預けてうつ伏せた顔を上げ、ロファを見やると、僅かに瞼が震えた気がした。 それを見てふらつく身体をもう一度起こし、顔を近づけようとしたとき、背後で扉が開いた。 医者を伴ってユノが帰ってきたのだ。 ユノは顔色が紙のように白いロキナを見て、血相を変えて駆け寄る。 「ロキナ! お前何をやっているんだ」 「魔力を…… 流させて。」 医師がロファに近づき、脈を診る。 手を取ると少しだけ瞼が動く。 「君、顔色が良くないよ。素人が魔力を流すのは危険な行為だからおやめなさい。ロファは脈もだいぶふれてきているから、もうこのまま様子をみよう。まだまだ意識は戻らないかもしれないが、すぐ死ぬほどのところは脱してるぞ。 なあ、ロファよ。可愛い子を泣かせるもんじゃないぞ」 騎士団所属の医師だ。ロファとは元より顔見知りのようだ。 白髪混じりの恰幅のよい腹を寝台にぶつけるように座って、ロファの腕から魔力を通す。 ほのかに光る金箔のような流れが一瞬だけ見えた気がした。 「先生も魔力をもつ医師だ。騎士団所属だから基本的には民間人はみない。今回は特別にみていただいている」 「なあに、俺の息子も医者継がないで、先生の染めた鎧に憧れて騎士なったくちだからな。恩返しだよ。この人の腕をこんなことでなくすのは惜しいだろう。」 そう言って、笑ってくれる人がロファの周りにいた。 安堵のあまり背後からユノに抱き寄せられたまま、ロキナは子どものように泣きじゃくった。
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