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1.出会い
全国を飛び回る、と言ったら仕事が出来るようなサラリーマンに聞こえるかもしれない。だが、船澤千広は単なる駒のようだと自分自身の仕事に嫌気がさしていた。
二週間の出張が毎月のようにあり、全国あちこちに出張時に使うお気に入りのビジネスホテルがある。新幹線の移動中の暇つぶしも、もう年季が入っている。
永遠に続くかに思えた真夏の暑さもようやくなくなって、朝晩過ごしやすくなった秋の初め。
何度か訪れたことのあるこの地方都市の街に、千広は降り立った。以前訪れた時は街の大きさの割に古めかしい駅だったのに、リニューアルしたようでモダンなデザインの駅になっている。これなら人も集まるだろうなと思いながら、自動改札に向かった。
改札を抜けた先の地下広場に、ピアノが置いてあった。広場にピアノが何故置いてあるのだろうと千広は不思議に思いつつ、近寄ってみる。今日は移動日でこの後の予定はなくホテルにチェックインするだけだ。ゆっくりしても大丈夫だろうとピアノの目の前に立った。
『ご自由にお弾きください』
ピアノの前にはそう書かれた小さな看板がチョコンと置いてある。さっき、ホームでピアノの音が聞こえていたのは、誰がが弾いていたからだろうか。千広はピアノの蓋を開け、人差し指でポーンと音を出す。
椅子を引いて座り、目の前の鍵盤に触れてその感触に少し口元が緩んだ。
(出張先でピアノと触れ合えるなんて思わなかったな)
千広は小さな頃から楽器と触れ合うのが好きで、特にピアノが好きだった。大学の時には作曲をするほどになっていたが、社会人となりピアノに接する機会もなくなりいつの間にか曲も作らなくなっていた。もっとも家にピアノがあったとしても、こんな出張ばかりの生活では忙しくてそんな気になれない。
千広はよく弾いていた大好きなクラシックの曲を弾き始めた。身体に染み込んだ音符。まるで指が生き物のように滑らかに鍵盤の上を滑っていく。久しぶりの感触にうっとりする。
サラリーマンが奏でるピアノの音。広場を行く人が顔を千広のほうに向ける。心地よいその音楽が止まった時、顔を向け足を止めていた人は我に返り、そのまま歩き始めた。千広がピアノから目を離すと周りでこちらを見ていたのは数名の年配の女性と、男子学生だった。
(やっぱりピアノはいいなぁ)
大きな背伸びをして千広はピアノの蓋をそっと閉じた。ここに常設されているなら、出張中にまた弾きに来ようかなと思いながらキャリーバッグを引っ張りながらピアノから離れる。残されたピアノが『行ってらっしゃい』と言ってくれたような、そんな気持ちになった。
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