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4.気持ち
市瀬に買い物に付き合って欲しい、と言われて放課後二人で出かけた。何でも寮の近所の本屋で取り扱いしていない本を買いに行きたいらしい。
一人で行けば、と凛は言ったがまあまあ、と市瀬がしつこく誘ってきた。恐らく気分転換させようとしているのだろう。市瀬はこういうところがあるので、凛も長く付き合ってられるのだ。
「何の本買うの?」
電車で吊り革を持ち、体を揺られながら市瀬に聞いた。
「画集だよ。最近ハマってる画家がいてさ」
そんな話をしながら駅に到着して改札をくぐる。先には広場がありそこには千広と一緒に弾いたピアノがある。小さな子供が母親と一緒に弾いていた。
凛は知らず知らずのうちにピアノを見つめていたようで、市瀬が行くぞ、と声をかけてきた。
慌てて踵を返し先を行く市瀬の後を追いかけていく。
***
「船澤さん、わざわざお越しにならなくてもリモートでよかったのに」
津田が会議室でにこやかに笑いながら千広にそう言った。見て欲しいものがあると津田から連絡をもらった千広。見るだけならリモートで構わないのだが質感や細かいところは分からず、たまたま忙しくないこともあり急遽、津田のいる事務所に来たのだ。
「こういうのはやっぱり実物みないと分からなくて」
「ありがたい。こちらも安心します。顔をつけ合わすって大切なんですね」
懸念していた事項もクリアしたとこだし、そろそろ帰りますねと津田につたえた。
「遠いところ、ありがとうございました。気をつけて」
次はコレ行きましょうと、おちょこを口にするような仕草をする津田に、千広は頷きながら事務所をあとにした。
駅にたどり着いた千広は広場のピアノを見ていた。女子高生二人が楽しそうにピアノを弾いている。このピアノで凛と知り合ったんだよな、と思いながら見ていた。
今日、津田のところに急用が出来た時、千広は出来上がったばかりの楽譜を鞄の中に入れた。いまもそれはカバンにあって、このまま凛に連絡すれば手渡しすることができる。今日は泊まりの予定にしていないから早く渡さなければと思いつつも、スマホの凛のメールアドレスを押せない。
(どんな顔して会えばいいんだよ)
凛にあったとき、モヤモヤしているこの感情が間違いないと確信するかもしれない。
恋愛というテーマの曲を、凛を思いながら作ったこと。それはもう凛のことが好きだということ。
(それを確定してしまうのが、怖い)
はあ、とため息をつき広場を行き来する人達に目をやる。
そしてふいに見つけたのは、ラフな格好をした凛。隣には同じくらい綺麗な顔の男がいる。
「あ…」
まさか偶然、出会うなんて。千広は自分の動悸が早まっているのを嫌というほど感じた。
隣の男は友人だろうか。同じくらいの歳のようだ。なにかふざけ合いながら楽しそうに二人、笑っている。その顔はまさに今、キラキラした青春を送っているようで…
(そうだよな)
千広は手を握って二人から目を逸らした。
いま青春を送っている凛に自分は不釣り合いだ。こんなくたびれたサラリーマンに好かれて、凛は嫌がるに違いない。
そっと二人に背を向けて改札に行こうとしたとき…
「千広さん!」
背中から凛に呼び止められた。
遅かったか、とおずおずと振り向く。嬉しそうに笑う凛が視線の向こうに立っていた。
「仕事?」
「あ、ああ。急ぎの案件があってね…凛は買い物?」
「うん。コイツの付き合いで。市瀬って言うんだ」
隣に立っていた市瀬を千広に紹介する。市瀬はお辞儀をしながら千広をじっと見ている。
「市瀬は配信をずっと見てくれてるんだよ」
「そうなんだ。それは嬉しいね」
千広がそう言うと、市瀬はニコッと笑う。最近の高校生は肌が綺麗だなあと思いながら、千広はカバンから楽譜を取り出した。
「凛。これ、遅くなったけど」
楽譜の入った茶封筒を凛に手渡すと、少し驚いた表情をしてそれを受け取った。
「次の曲?」
「そう。中々出来なくて、遅くなった。ごめんな」
凛が何も喋らずその楽譜を取り出して見ていた。その間、千広はいたたまれず凛の顔を見れない。
そんな二人を見ながら市瀬が提案する。
「なあ、長峰。それ次に配信すんの?俺、聞いてみたいんだけど。ちょうどピアノ空いたから、弾いてみてよ。この人も聞きたいだろうし」
ねえ?と市瀬にふられて千広は慌てながらも頷いた。確かに目の前で聞いてみたい。このピアノで、凛にこの曲を弾いているのを聴いて、生で見たい。
凛は市瀬のその言葉に少し顔を赤らめて驚いていたが、分かった、とピアノに向かい、椅子に座った。
ピアノと向かいあった凛を見て、千広は胸がえぐれそうな感覚になった。凛の姿を凝視している千広を市瀬は隣で見ながら、気づかれないように笑う。
(長峰、悩む必要なさそうだぞ)
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