1.出会い

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1.出会い

「駅前のピアノですか?ああ、今年の夏に突然登場したんですよ。何でも寄付した方がいたみたいで」 出張先の店舗の従業員である津田が、机を拭きながら千広に答えた。津田は勤務年数が長く千広が前任者と初めてここに来た時からすでにこの店舗にいた。年齢は五歳上だと千広は聞いたことがあるが、童顔のせいか同じくらいに見える。 「テレビでは見たことあったけど、自由に弾いていいピアノがあるって」 以前、たまたまつけていたテレビの番組で放送されていたのを千広は思い出した。この駅ではなく他県だったから最近そういう取り組みが増えてきたのかもしれない。 「たまに子供や女子高生とか、弾いてるのをみますよ。サラリーマンもいて、びっくりしますよ」 その言葉に、千広は苦笑いする。自分もそういう目で見られているのだろうか。 業務を終え、千広はあのピアノの場所まで足を運んだ。宿泊しているホテルの最寄駅がこの駅だったので気軽に寄ることが出来る。 十九時過ぎだと帰宅する人達はたくさんいるが、ピアノを触っている人はいない。二時間くらい早ければ学生達が弾いていたのだろうか。 昨日と同様に、椅子に座り鍵盤に手を落とす。ピアノを奏で始めると、千広は周りの様子は見えなくなる。今日の曲は『月の光』。有名なクラシック音楽をチョイスした。チラホラと千広の様子を見ながら、人々は足早に通り過ぎていく。 一曲、弾き終えて顔を上げると、ピアノの側には年配の女性と子供がいてパチパチと拍手をくれた。 照れながら千広が小さくおじきをしていると奥から男子学生が近寄ってきた。千広をじっとみると彼は声をかけてきた。 「お兄さん、上手いね」 高校生くらいだろうか。ブレザーの制服を着た、艶のある少し長い黒髪にスッとした目。 (綺麗な子だな) 千広はしばらく彼を見つめた。彼からしてみたら自分はスーツを着た疲れたサラリーマンにしか見えないだろう、と苦笑いした。 「ありがとう。君もピアノを弾くの?」 「うん。ピアノ大好きなんだ。ねぇ、二人で弾かない?」 初対面なのに臆せずそう言ってきた彼に一瞬驚いたが、千広は口元を緩めた。 「いいよ、何弾こうか」 「 『亡き王女のためのパヴァーヌ』を」 彼が千広の隣に座り、一呼吸して互いに鍵盤を叩く。 たまたま見かけたピアノで、全く知らない少年とピアノを弾くなんて、面白い。お互いに指を動かしながらシンクロしていく。初対面と思えないほど二人は息があっている。千広がサポートしているのではない。この少年が自分にあわせている、と千広は内心驚いていた。 気がつけばピアノの周りには数人、通行人が立ち止まり、二人の奏でる曲を聴いていた。サラリーマン、女子高生たち、子連れの母親… 演奏を終えると、その人達が一斉に拍手をおくってくれた。千広は驚きながら隣にいた彼の方を向くと、彼もまた千広の方を見ていた。 しばらくして、人の群れはなくなり、また足早に歩く人だけになった広場。二人はピアノから離れ、駅に向かおうとした。 「ありがとう、お兄さん。なかなかやるね」 彼が千広に話しかけてきた。 「お前もな」 お互いに笑いながら、どちらからともなく握手をする。じゃ、とそれぞれ別の方向に歩き始めた。 (面白いこともあるもんだな) 仕事の帰りにこんな出来事が待ってたなんて。千広は微笑みながら、ホテルを目指した。その日の夜、部屋で飲んだビールはいつもより美味しくて、幸せな気持ちで千広はベッドに入ることができた。
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