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1.出会い
それから数日間。千広の出張が終わるまでの間、数回、凛との共演は続いた。
仕事が遅くなりそうな時は予め、メールを入れておく。どうやら凛は一人ではあのピアノを弾きに行っていないらしい。
二人で演奏をするうちに、段々と聞いてくれる人達も増えてきた。先日などは、見に来ていた年配の男性から明日はこれを弾いてほしい、とリクエストを貰ったほどだ。翌日、弾いたその曲は『英雄ポロネーズ』。ドラマでも使われていた曲だったので、聴いている人たちも楽しめたようだ。
そんな楽しい日々も最後となってしまった今夜。明日の午前中にはここを離れることとなった千広。いつもより少し早めに仕事を切り上げて、ピアノのある広場へ到着した。凛の姿はまだ見えない。先に椅子に座って千広はピアノを見つめた。
(なんだかあっという間だったな)
ただ出張に来ただけなのに、こんな非日常を味わうことになるなんて。
鍵盤の蓋を開けて指をポンと押す。
「千広さん」
背中から声がして振り向くと、そこに凛がいた。凛には今日が最終日だと告げていた。心なしか少し寂しそうな凛のおでこに千広が軽くデコピンをした。
「いたいよ」
「そんな寂しそうな顔すんなって」
「だって……」
拗ねた顔はまるで子供のようだ。この子は面白い子だな、と千広の心が暖かくなっていく。
「また来るからさ。お前が大学生になったら、うちに遊びにきてもいいんだぜ」
「何で高校生だと、ダメなの」
「高校生は親御さんが心配するだろ」
さあ、弾こうぜと千広は鍵盤を撫でる。凛は少し笑って椅子に座った。
今日の一曲目はリクエストの多かった「月光」。千広は弾きながらもピアノの周りに集まった群衆にふと目をやる。一番前を陣取っているのは、あの女子高生二人だ。うっとりするように聴いていた。そのほかにも何度か見た顔もいて、明日からはここで聴いてもらえなくなるのが辛い。
今日はちょうど満月。こんな日に月光を弾けるなんて、神様はどれだけ優しいのだろうか。
二曲目にセレクトしたのは「別れの曲」ベタかもしれないが千広は感謝も込めてこの曲を弾きたかったのだ。こんな時間をありがとう、と。聴いてくれている人たちに。そして隣で弾いている凛に。
「千広さん、ありがとうございました」
ピアノを弾き終えて、帰り支度をしていると、凛がかしこまってそう言ってきたので千広は慌てる。
「そんな、礼を言うのはこっちだよ!単なる出張がこんな楽しくなったのも、凛のおかげだよ」
そういうと、下を向いていた凛は顔を上げてパァッと明るい笑顔を見せた。
「千広さん、あっちに帰ってもメールしていい?」
凛のその言葉に、千広は凛の頭に手を置き笑いながらこう言った。
「当たり前だろ」
「ありがとう!」
凛の笑顔を見ながら千広は離れがたいな、と思った。もっと近ければ良かったのに。
また会おうね、と言いながら凛は手を振って改札をくぐっていく。千広も手を振りながらその背中を見つめていた。
明日からはまた、仕事漬けの毎日だ。だけどこの数日間の出来事を糧に頑張っていける。そう思いながら、千広もホテルに向いて歩き始めた。
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