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2.配信
千広が出張から戻って数日後。帰宅中にバス停でスマホをチェックするとメール受信の通知が入っていた。それを開くと、送信者は凛だった。別れて数日後にメールが届くなんて、きっと凛は遠慮しながらようやく送信してきたのだろう。千広は口元を緩めながらメールを読む。
『お久しぶりです。体調、崩されてませんか』
若干、固い内容の文章がさらに微笑ましい。
『そんなにメールで緊張しなくてもいいよ』
そう返すと、返信はすぐ戻ってきた。
『離れてたら、何だか緊張する!』
とうとう千広は声を上げて笑った。隣にいたサラリーマンがチラッと千広を見る。
(本当、面白いっていうか、可愛いな凛は)
男子高校生ってこんなに可愛かったか?まるで付き合いたての恋人からのメールのようだ。
『この動画見てほしい』
メールにはリンクが貼られていて、千広がバスに乗ってる間、イヤホンをつけてそれを開くと映し出されたのはピアノを弾く青年。恐らく自宅で撮っているのだろうか。その音色からしてなかなかの腕だ。しかし何故これを見ろと凛は言ってきたのか、
不思議で千広は頭を傾げた。
『千広さん、一緒にピアノセッションはできないけど動画でセッションしようよ!千広さんが曲を書いて、それを俺が弾いて動画をアップするの』
千広は凛からのメール文章を見て驚く。自分の曲を動画サイトに載せるなんて、思いもしなかったし、需要があるとは思えない。
『俺の曲なんて誰も喜ばないでしょ』
そう千広が送信すると、返事がすぐ返ってきた。
『前、聴かせてもらった千広さんのオリジナルの曲、俺好きだよ。良かったら楽譜ちょうだい。弾いてみるよ』
その言葉に、千広は驚く。凛は本気なのだ。少しだけ考え千広は家に着いてから、結局楽譜を凛に送った。数分後、凛から来たメールに動画が添付されていて、それを開くと凛がピアノの前にいた。
(家にピアノがあるのかな)
それならあんなにピアノが上手い理由が分かった。
凛は息を吸うと鍵盤に指を落とす。彼はこの楽譜を今日初めて見たはずだ。聴いたのもあの日だけのはず。それなのに、凛は千広のオリジナルの曲をほぼ完璧に弾いている。
いつも隣で一緒に弾いていたから、千広がピアノを弾く凛の姿をしっかりと見るのは初めてだ。
長い指に伏せた視線。黒い髪がさらりと揺れる。ピアニストに容姿など関係ないが、凛が弾いているとまるで空気が変わっていくほど…
(綺麗だ)
スマホの画面を見ながら、千広はそう感じた。
動画を見終えた後、電話するか迷っていた千広。すると凛のほうから着信が入った。
『どうでしたか?』
凛はもう千広の回答が分かっているかのようだ。悔しいけれど認めるしかない。
『俺の負けだ。配信、やってみようか』
その言葉に、電話先で凛がやったー、と喜んでいる。さっきまでは息を呑むほど綺麗だと思った凛はいま、まるで子供のようだ。ホントに面白い奴だと千広は思う。
(まあこういうのもいいか)
恋人もいない。友人たちは家庭が忙しい。自分にあるのは仕事だけだ。そんな日々に作曲という刺激がプラスされるのは、嫌なことではない。ましてや凛が弾いてくれるなら…、と電話を切った後も、千広は口元が緩んだままだった。
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