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翅? 思わず、視線を上げる。すると思ったよりもオーナーが近くにいて、単純に吃驚して、心臓と肩が跳ねた。顔を見る前に、顔が彼の肩口に押し付けられる。大きな手が俺の髪を触って、腰を引き寄せる。
あ、チョウチョ。倒れて顔がよく見えないけど、いつもより首が長い。動かない。あれ、死んでる。でも血は見えない。ぽこん、という音が耳に蘇る。あ、あれもしかして、首の骨が外れる音だったのかな。
オーナーの深い息遣いが耳元で聞こえた。俺よりも分厚い肩。太い腕。オーナーの匂い。香水と、煙草と、これ、オーナーの汗かな。夜の大人の匂い。体温はそんなに高くない。泣いてる俺の方がちょっと高い。
いつもの、普段のオーナー。チョウチョを殺したのに、なんてことなかったみたいに、俺を抱き締める。悪い大人だ。狡い大人。
「間に合って良かった。本当に」
なにそれ。ホント狡い。それ、俺に向けた言葉だったの。マジさ、なにそれ。
「なんだよ……なにそれ……」
「ごめんね。私が悪かった。君の気持ちに気付いていたのに、はぐらかして。……そうやって、君にただ甘えられて、愛されるのが、心地好かったんだ」
「オーナー、」
「頼むから、私のために人を殺すのは止めてくれ。私と同じにならないでくれ。君の手を汚すのは止めて欲しい……お願いだ、倫。君は私の、可愛い蜘蛛なんだ」
演技なのかな。この掠れた声も、甘い言葉も。この人嘘吐くの上手いからな。
でも、嘘でも、俺のために必死になってくれるこの人が愛しかった。ごめんねって優しく云うのも、懇願するみたいな態度も、どうしようもなく甘くて、心地良くて、好き。この声を聞いていると、錆びた釘みたいに醜かった俺の感情の汚い部分が、否定されていく気がする。錆を溶かしていく。
俺もオーナーの肩に腕を回す。すると、ぎゅうっと、強い力で返される。
甘い。甘ったるい。このやりとり好き。オーナーの甘いところが、愛しい。
「……いいにおい」
「……しまったな。まだ、シャワーも浴びていない」
「ううん。好き。俺、これ好き」
ぐりぐり額を肩に押し付けると、ようやく、オーナーが笑った。
そう。そうだよ。俺が云ったんだ。俺が、望んだんだ。
「……ごめんなさい。オーナー。やっぱ俺嫌いになりたくない。オーナーのこと、好きだよ」
俺は騙されるよ。オーナーの嘘に。
だって、そうした方が、上手くいく。この人は、そういう人だ。
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