きっと信じてはくれないだろうが

1/2
前へ
/23ページ
次へ

きっと信じてはくれないだろうが

 その夜、オーナーは俺に半分ほど残った煙草をくれた。でも、結局セックスはしてくれなかった。  チョウチョの死体を運ぶついでに、彼は俺をマンションまで送ってくれた。おやすみ、って笑った顔がやっぱり綺麗で、せめてキスだけでもって思ったけど、顔を近付けたら笑って鼻先だけ擦りつけられた。 「あとで電話する」 「分かった。じゃ、俺起きてるね」  そう云ってオーナーの車を見送って、部屋に戻った。電話を待つのに、先にシャワーだけ済ませた。  それから電話が来るまで、携帯に充電器を差し込んだまま動画を見て時間を潰した。一時間ちょっと経った頃にふと思い立って、音楽を聴きながらベランダで煙草に火を点けた。  重たい白い煙が、曇った夜空に解ける。細く長く、吸った煙を吹き出している時、音楽が途切れて着信音が鳴った。  画面をスライドして、もしもし、と応じる。 『起きてた?』  夜中に電話する恋人みたいなオーナーの言葉に、頬が緩む。 「うん。オーナーは」 『蝶の処理を済ませたところだ』  ざぶん、と、彼の言葉の最後を邪魔する音が聞こえた。俺は咥えていた煙草を口から離して訊ねる。 「ね、波の音が聞こえる」 『だろうね。今、海にいる』 「そっか。俺は、煙草吸ってるよ」  カサ、と、蜘蛛が耳元まで上ってくる。本当にこいつは、分かり易く尻尾を振る。 「チョウチョ、海に投げたの?」 『いや。そっちは、業者に任せた』 「じゃあなんで?」  ふ、と吐息のようにオーナーが笑う。ぴり、と耳元の毒蜘蛛が痛む。ぞわりとした。その甘さが、急に不安に変わって、俺の中で膨らむ。 「オーナー、」 『大丈夫だよ。俺が、君の中から欠如するだけだ』 「やだ。ねえ、ちょっと、止めてよ」 『そもそも『俺』と君は知り合いですらなかった。君は、『俺』の名前さえ知らないだろう? 私の代わりは、ちゃんと用意しておいたから。明日からも、『小鳥居尊』は君の傍にいる』 「俺のオーナーはアンタだけなんだよ! 俺が好きになったのは、アンタの、その偽者で……」  恰好いい大人で。狡い大人で。綺麗な大人で。女にだらしない大人で。  でも、それは全部本物じゃなくって。実体のある虚像で、空洞で。  その上で好きになった。そうやって騙されるのを、自分で選んだ。  でも、いざ言葉にすると、凄く虚しい。ニセモノ。全部、俺の恋全部、ニセモノ。 『君は、誰に恋をしていたんだ?』  笑いを含んだ声。何がおかしいの。なんで笑ってるの。俺のこと。  騙された方が悪いって? 滑稽な奴って? なんだよ。なんだよ。だって。 「……だって、そんなに恰好いい、オーナーが悪いんじゃん」  声が震えた。また、涙が出てきた。 『最期に、君の声が聞きたかったんだ。倫』
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加