17人が本棚に入れています
本棚に追加
「実際、ここに来て『エンジェルショット』なんて頼む女、いるの?」
席に戻ると、まだババアが喋っていた。オーナーは困った風に笑って、人差し指を唇に当てた。
「会員制にしてからは減りましたね。それまではどうしても、ラブホテルと混同されるお客様が多くて。ああ、おかえり」
「うん。ただいま」
なんか、良い。こういうちょっとしたやり取り。いちいちこの人は、俺が喜ぶことをしてくれる。
「なに、そのエンジェルショットって?」
「暗号よ。トイレに張ってあったの、見なかった? ここのバーテンダーに、実在しないそのカクテルを頼むと、それが助けを求めるサインになるの」
「と云っても、我々がエスコートするか、タクシーを呼ぶくらいですけれど」
「ふうん。まあそりゃ、男子トイレにはないよね。あー、じゃあおじさんに一目惚れしちゃった子が、相手振るためにわざと頼む、なんてのもあったんじゃないの?」
「さあ、どうでしょう。次、何飲まれます?」
「否定しないんだ。じゃあ、うん、そうだなぁ」
なんて。台詞はもう決まってる。
多分わざとなんだ。全部、この人のわざとだ。この会話も。トイレに行かせたのも。
俺は頬杖をついて、オーナーを見上げる。
「ね、おじさん。『煙草を一本、あと火を貸してくれる?』」
そう云って、テーブルの上にあったガラスの灰皿を寄せ、縁を爪の先で二回叩く。
すると彼は完璧な角度に口角を上げて、頷いた。
「『なら、煙草に合うカクテルを』」
「倫ちゃん、煙草吸うんだっけ?」
「ううん、初めて。でもほら、なんかこういうとこで吸うの、恰好良いじゃん?」
「奥様は何か飲まれますか?」
「アタシは、そうね。オススメで」
「かしこまりました」
今度は、オーナーはシェーカーを振らなかった。残念。でもアイスピックで、つやつやの丸い氷を作るのが見れた。四角い氷の角を、トランプを切るみたいにして削り落とす。
カッケー、なにそれ。ただの氷なのに、オーナーが持つだけで、舐めたら死ぬ毒みたいだった。
ウイスキーみたいな琥珀色のカクテルに、その丸い氷が浮かんだグラスを置いて、彼は「ラスティネイルです」と云った。
それから一本、ほんのりと官能的な甘い香りのする煙草をくれた。オーナーはジッポを取り出し、手を添えて、火を近づける。
「軽く吸って。そう。上手」
なんか、エロいな。ババアの裸よりも絶対上品。そう思っている間に、重たい煙が口に入ってきた。
少しだけ咳き込む。でも、なんとか吸える。なんて銘柄だろう。マルボーロ。切れ込みの入った赤のパッケージ。
オーナーは、澄ました顔で三角のグラスを拭いている。俺はそれを見ながら、喉に残る煙を、少しずつラスティネイルで流し込む。
最初のコメントを投稿しよう!