一目惚れ

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「実際、ここに来て『エンジェルショット』なんて頼む女、いるの?」  席に戻ると、まだババアが喋っていた。オーナーは困った風に笑って、人差し指を唇に当てた。 「会員制にしてからは減りましたね。それまではどうしても、ラブホテルと混同されるお客様が多くて。ああ、おかえり」 「うん。ただいま」  なんか、良い。こういうちょっとしたやり取り。いちいちこの人は、俺が喜ぶことをしてくれる。 「なに、そのエンジェルショットって?」 「暗号よ。トイレに張ってあったの、見なかった? ここのバーテンダーに、実在しないそのカクテルを頼むと、それが助けを求めるサインになるの」 「と云っても、我々がエスコートするか、タクシーを呼ぶくらいですけれど」 「ふうん。まあそりゃ、男子トイレにはないよね。あー、じゃあおじさんに一目惚れしちゃった子が、相手振るためにわざと頼む、なんてのもあったんじゃないの?」 「さあ、どうでしょう。次、何飲まれます?」 「否定しないんだ。じゃあ、うん、そうだなぁ」  なんて。台詞はもう決まってる。  多分わざとなんだ。全部、この人のわざとだ。この会話も。トイレに行かせたのも。  俺は頬杖をついて、オーナーを見上げる。 「ね、おじさん。『煙草を一本、あと火を貸してくれる?』」  そう云って、テーブルの上にあったガラスの灰皿を寄せ、縁を爪の先で二回叩く。  すると彼は完璧な角度に口角を上げて、頷いた。 「『なら、煙草に合うカクテルを』」 「倫ちゃん、煙草吸うんだっけ?」 「ううん、初めて。でもほら、なんかこういうとこで吸うの、恰好良いじゃん?」 「奥様は何か飲まれますか?」 「アタシは、そうね。オススメで」 「かしこまりました」  今度は、オーナーはシェーカーを振らなかった。残念。でもアイスピックで、つやつやの丸い氷を作るのが見れた。四角い氷の角を、トランプを切るみたいにして削り落とす。  カッケー、なにそれ。ただの氷なのに、オーナーが持つだけで、舐めたら死ぬ毒みたいだった。  ウイスキーみたいな琥珀色のカクテルに、その丸い氷が浮かんだグラスを置いて、彼は「ラスティネイルです」と云った。  それから一本、ほんのりと官能的な甘い香りのする煙草をくれた。オーナーはジッポを取り出し、手を添えて、火を近づける。 「軽く吸って。そう。上手」  なんか、エロいな。ババアの裸よりも絶対上品。そう思っている間に、重たい煙が口に入ってきた。  少しだけ咳き込む。でも、なんとか吸える。なんて銘柄だろう。マルボーロ。切れ込みの入った赤のパッケージ。  オーナーは、澄ました顔で三角のグラスを拭いている。俺はそれを見ながら、喉に残る煙を、少しずつラスティネイルで流し込む。
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