【最終話】

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 朝陽は包丁を振り被った。  急降下した刃先が衣知の肩を掠め、布を切り裂く。小さな切り傷から血が流れ出した。 「朝陽……! やめてくれ!」 「なんで逃げるんだよ衣知! 全部お前のためなんだ! お前のこと助けてやりたいんだよ……!」 「意味がわからな……っ!」  逃げ惑う衣知を目掛け、我武者羅に包丁を振り翳す。目の前にいる最愛の彼は所々に血を滲ませ、それでもなお生きようとしている。  人は死を恐れる。  だがその死と言うものは、時には救いとなる。  ――――汚されてしまった衣知は本当の愛を知らない。ゆえに殺される事を恐れている。  救済という意図を知れば、すんなりと現実を受け入れるはずなのだ。  彼が初めから本物の恋人として生きていたなら、こうなる事もなかったのだが。  壁に追い詰められた衣知が視界で揺れた。壁面には線状の跡がある。  息を切らし、衣知がこちらを注視する。  そして、振り下ろした朝陽の手首を彼が掴んだ。 「もうやめろよこんな事……!」  そう訴えかける悲壮な声が、耳障りな雑音のように聞こえた。  愛している。  彼を、愛している。  だから殺さなければ。  頭の中で、何度も何度も繰り返す。  太陽が薄暗かった部屋を照らし始めた。衣知の顔はより鮮明になり、頭の中の声は一層反響する。  今ここで、最初で最後の、最大の愛を表明しよう。  思いを込めた一振りは、肉を貫いた。  倒したコップから水が溢れ出すように、血液が床を真っ赤に染めていく。 「え……?」  気が付けば床で横倒しになっていた。  肋骨の隙間に深々と刺さる包丁。触れた指先が、鮮血に濡れる。  次の瞬間激痛が朝陽を襲った。しかし、金縛りにでもあっているように体が動かない。  無意識に探した衣知が、目の前で膝をつき黙り込んでいる。唖然とし、ただ全身を震わせている。  何が、何が起こっている。  混乱と想像を絶する息苦しさに声すら出なかった。呼吸の仕方を思い出そうとしても、どうにも頭が働かない。  吸い方も吐き方も、何一つわからない。  苦しい、痛い。苦しい、痛い。  助けてくれ。お願いだ、衣知!  鮮やかな恐怖とは裏腹に、視界は霞んでゆく。  激しく咳き込むたび、血溜まりが大きくなった。  痛みと苦しみで朦朧とする意識の中、ぼんやりと考えていた。  ――――衣知を殺さなければ。  彼はこの先もずっと苦しむ事になる。  もう少し、もう少しなのに。  永遠の幸福をもう少しで手に入れられたのに。  その時、衣知の存在だけが確かにそこにあった。すぐに届きそうな距離で、彼は泣いていた。  あぁ、衣知。俺はお前を救ってやれなかった。  朝陽の伸ばした指先が衣知に触れる事はなかった。
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