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衣知は泣き腫らした目を円くした。
あんぐりと口を開けて、今だ座りこんだままだ。
首輪から解放されてもなお、彼はその場を一歩も動いていない。
やはり、俺に依存している。
しかし一時の感情がそうさせたとはいえ、先程のようなことがこの先何度も起きて、やっと手に入れた幸福が脅かされるのは耐えられなかった。
「……許してくれるんじゃないの……?」
少し後退りした衣知が、眉間に皺を寄せた。漸く状況を把握したようだ。
暫く目を合わせていたが、やがて彼の視線は朝陽の右手に据えられた。
黒光りする出刃包丁。
普段は何気なく使っていた調理器具だが、今は二人の世界を幸福へと導いてくれる、希望そのものといっても過言ではなかった。
「俺は怒ってないよ」
「……でも、それ……」
「それって?」
戦慄に身を震わせながら、衣知が包丁を指差す。
キッチン以外で包丁を手にしていることが、どうやら恐怖に繋がっているらしい。
真っ青になる衣知をみていると、おかしくなる。
もう、何も怖い事はないのに。
「衣知、聞いて。俺はもう衣知が汚れるのは見たくないんだ」
「……何すんの……? それ何……!?」
焦りを含んだ語気は、真冬の風の音のように耳をすり抜けた。
衣知の声が聞こえない。言葉が理解できない。
ただ、彼が涙を流しながらパクパクと口を動かしている事だけは分かる。
気付いてしまった。
この世界があらゆる手段で衣知を汚そうとするならば、二人だけの“愛”を邪魔するのならば、いっそ彼の全てを奪う事が、本物の愛なのだと。
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