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「いいから、澄晴は座ってて」
半ば強制的に椅子に押し戻され、澄晴は心苦しく思いながらも彼の要求に屈した。
ビニール袋に入っていたのは奏が持参したホットケーキミックスや、その他の材料だったらしく、今はそれを調理しているところだ。
「澄晴ちゃんとご飯食べてた?」
「……うん、医者に言われてたからそれなりには……」
我ながら曖昧な返事である。
栄養失調で入院していた澄晴は、退院後の食生活にも十分な注意を払うようにと指導を受けた。
しかし実際のところ、この上なく無気力だったので冷蔵庫にあったものを最低限の調理方法で口に放り込んでいただけなのだった。
そして現在は食材が底を尽き、棚の中に忘れ去られていた食料を漁る羽目になっている。買い物に行かなくてはいけない、と思いつつも体が動いてくれなかった。
「ねぇ、澄晴何乗せたい?」
「え?」
「ホットケーキの上」
突然の質問に澄晴は急いで思案したが、食事が義務的な行為となっていた所為で、懸命に考えても何一つ答えになりそうなものが出てこない。その様子を見ていたらしき奏が、困ったように笑った。
「……澄晴、甘いもの食べれそう?」
「……少しだけなら」
答えると、また一笑して奏はキッチンに戻った。ミキサーの音がする。何を泡立てているのかと思い、覗いてみる。大きなボールの中には、生クリームが入っていた。
「良い匂いでしょ」
「……うん」
何の気なしに台所を見回していると、フルーツを詰め合わせたパックが目に付いた。
――――奏はきっと、最初からこれを食べさせるつもりだったのだ。
「……奏には隠し事できないね」
「え? ……どうしたの?」
「ううん、奏は僕が答えられないって分かってたんでしょ? ……その上で、最初からこれを作るって決めてたんだよね」
「なんだ、お見通しか」
可笑しそうに笑う奏を見て、澄晴は安堵した。
まだ全てが終わったわけではなかったんだ、変わらないものがちゃんと存在していたんだ、と。
「ねぇ澄晴」
「ん……?」
「さっきのってさ、澄晴が俺に隠してる事はもうないってこと?」
香ばしい狐色に焼き上げられたホットケーキの荒熱を取り、奏がその上に生クリームを絞り出しながら、柔らかな笑顔で言う。
しかし語気には得体の知れない威圧感が漂っている。
「澄晴はさ、俺が澄晴のこと全部知ってるって思ったんでしょ?」
「う、うん」
「……それ本当?」
「……本当だよ」
立て続けに起こった不幸によって、気が張っているのか、ひとつひとつの言葉が直接神経に触れるような感覚がした。
「じゃあ教えて」
「……なにを……」
「澄晴の秘密」
「え?」
「……本当だって言うなら教えてよ澄晴。隠してる事全部、教えて」
話がずれている。
澄晴は決して、奏が思っているような意味合いを込めて言ったわけではない。如何やら途方も無い誤解を招いているようだ。
奏は澄晴が自分に対して隠している事は何一つない、と解釈しているらしい。
急に背筋に悪寒が走り、
「……な、何の話してるの?」
慌ててそう訊ねた。
何故これほどに怯えているのか、自分でも分からなかった。
恐らく精神的に弱っていて、若干人間不信に陥っているのだろうが、その理由は何となく腑に落ちない。
おずおずとしながら返答を待っていると、奏は幼げな笑みを浮かべて、
「ごめん、俺変な事言ったね」
と眉を下げた。
澄晴が違和感を覚えている間も奏はずっと作業していたらしく、手元にあるホットケーキは何時の間にか華やかに甘美を纏っていた。
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