【第22話】

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 程好い甘さが味蕾に染み渡り、思わず笑みを零す。 「あ、笑ってくれた」  向かいに座っている奏が嬉しそうに呟いた。先程までの違和感は消え去っている。やはり精神的なストレスが引き起こした錯覚だったようだ。 「澄晴、また今度映画見ようよ」 「……うん」 「ねぇ、これから毎日来てもいい? 少しの時間だけでも」  無垢な笑顔に、当然断る事が出来ないまま頷く。そこで会話に終止符が打たれ、沈黙が落ちた。  奏も、軽率に会話を切り出す事を躊躇っているのだろう。母親の話も、巡流の話も、誠の話も、仕事の話も出来ないのだから。  一方澄晴も静寂には滅法弱く、早くも意識が数日前の出来事に侵されていた。  記憶の中で眠っている巡流の姿が最期の瞬間と重なり、脳裏には誠の面影を失った彼の死体が浮上する。  呼吸が速くなり、心臓も徐々にリズムを早めていく。視界が歪み、全身が震えだす。 「……澄晴!」  不図肩を揺さぶられ、澄晴は一気に現実に引き戻された。救われた、と胸を撫で下ろす。  やっと気付いた、と奏が呟いた事から、彼が何度も名前を呼んでくれていた事を察した。 「……ごめんね……僕……」 「……いいよ、無理もないって。……何があったかは分からないけど、すごく大変だったんだよね」  目を泳がせる。やはり彼には言えない。言ってはいけない、そんな気がする。  澄晴は何とか呼吸を整えながら、必死に奏に返す言葉を探した。 「……まだ大丈夫、……じゃなさそうだね」  奏が悲しそうに目を伏せる。  彼の心は繊細だ。人の気持ちをよく慮る分、自身も辛さを感じてしまうのだろう。 「……奏、心配いらないよ……。……僕は大丈夫だから……」  無意識に、澄晴は笑顔を作り出していた。  実際のところ、大丈夫と言うのは嘘か本当かで言えば嘘だったのだが、初めから真実を言う気は全く無かった。  奏は澄晴の笑顔に唖然とする。その心境がどのようなものなのかを、今の澄晴は推し量る事が出来なかった。
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