第6章 再生のホウオウ

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第6章 再生のホウオウ

 小屋の入り口から飛び込んで、急いで閉めると、私はその場に崩れ落ちた。…こ、怖かった…! 遊園地でも恐怖系のアトラクションは苦手な私だ。あの2人がいなかったら、きっとすぐに倒れていただろう。心臓が、早鐘のように鳴っている。  落ち着こう。息を整えながら、私は小屋の中を見渡した。  いまいる部屋は、玄関のあるホールのようだ。誰もいない。物音ひとつしない。入ってきた扉の他に、3つのドアがあることを私は気づいた。私はそちらに歩いていった。  3つ並んだドアには、それぞれ絵が掛けられていた。  左の絵には、大きな門が描かれている。京都への修学旅行で見るような、日本の城か寺社かと思われる、立派な門だ。真ん中の絵も、…これも門だ。こちらはロシアの民話に出てくるような、豪華な門。となると右も…。やっぱり門だ。でもこちらは木と草と花で作られている。まるでジャングルの中でサバイバルをしている人が作ったような、小さな門だ。  もし『展覧会の絵』の見立てでこの転卵館が作られているとしたら、10の絵のうち、残るは「キエフの大門」だけになる。つまり、真ん中の絵、だろう。  …いつ、追手が来ないとも限らない。  私は、真ん中のドアのノブに手をかけた。ゆっくりと回す。鍵はかかっていない。私は、部屋の中へとゆっくりと入った。  そこには、見たこともない調度品や、どこの国のものかわからない美術品が、所狭しと並んでいた。しかし、乱雑ではない。部屋の主の、それぞれの品を尊重している意思が感じられる。壁際には本棚があり、ずらりと古めかしい書物が並ぶ。背表紙を見ても、何の言葉かわからない。部屋の奥には、マホガニー製の大きな机があり、座り心地の良さそうなオットマン付のチェアーがある。…誰もいない。  その時、私は、机の横に鳥籠があることに気が付いた。その中には、奇麗な虹色の鳥が一羽いて、静かにこちらを見ている。何の鳥だろう? 「あなたが、この部屋の主さん?」  私は、その鳥に語りかけた。…上がった息は戻っていたが、心臓は再び早鐘のようになっていた。 「私は、時鳥みれるです。この転卵館の館長の、七三上ほうさくさんのきょうだい、七三上おうかの孫です」  鳥は、こちらの言葉をじっと聞いている。 「館長さんにお会いして、おうかがいしたいことがあります。…私の祖母は、生まれ変わって、どこかにいるのでしょうか?」  言いながら、心で張り詰めていた弦が、切れた。頬に、いつしか冷たい涙が伝っている。私は声を振り絞った。 「私は、この転卵館で、祖母の生きてきた姿を見ることができました。凛とした背中。私の知らない、それでいて、私が知っている祖母に通じる姿でした。なんで、急に別れなくちゃならなくなったのか…。もっと、もっと色々と教えてもらいたかった…」  足の力が抜ける。こらえきれない。フルートが手から落ちる。私は床に崩れ落ち、手で顔を覆った。 「おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん…」  私は、小さな子どものように、泣いていた。  その時、肩に、暖かい、大きな手が置かれた。私は見上げた。そこには、赤い髪と髭をたくわえた、恰幅の良い老紳士が立っていた。豪奢なスーツを着ている。 「よく、がんばったね」  威厳のある、それでいてどこか懐かしい声だった。 「ようこそ、館長室へ。まさかここまでたどり着けるとは、私も思っていなかった。おうかも、よくぞ立派に育て上げたものだ…」  私は立ち上がった。老紳士は、深々と一礼をして、こちらに向き直った。 「転卵館の館長、七三上ほうさくと申します。ここに来るまでに、怖い思いをさせて申し訳ない。おうかの奴が、甘やかさなくても良い、あの子がたどり着けなければそれまで、と言っていたので、ついあなたを試すようなことをしてしまいました」  机の横の鳥籠は、扉が開いて、いつの間にか空になっていた。あの鳥が館長さんだったの? いや、それよりも…。 「改めまして、時鳥みれる、と申します。早速ですが、館長さんにお聞きしたいことがあります。祖母は、おばあちゃんは、やはり生きているのですか? 一度死んで、新たに生まれ変わったのでしょうか?」  自分の言っていることが信じがたいことというのは、自分でもよくわかっている。しかし、この転卵館の存在自体が、すでに信じがたいものではないか。  …館長は、私の問いに答えず、ゆっくりと館長室の出口に向かった。私はフルートを持ち直し、慌ててその後を追う。  館長は振り向いて言った。 「落ち着いて、お話をしましょう。どうぞこちらへ」  私たちは、いったん小屋の玄関ホールに出ると、先ほどの3つのドアの中から、右のジャングル門の絵が掛けてあるドアに入った。    そこは、会議室のようだった。大きめの円卓が真ん中に置かれ、椅子が置かれている。その椅子の一つに座るように促すと、館長は部屋の奥に向かった。そこは、まるでバーのカウンターのようになっており、奥の棚には、数えきれないほどのお酒やジュースの瓶が並んでいる。 「ここは、会議室として使っているんです。私はもっぱらこちらのバーカウンターを使っていますけどね」  私は、早く真相を知りたいもどかしさを抱えつつ、自分を落ち着かせるように、部屋を見渡した。…部屋の壁には、1枚の大きな絵が飾ってあった。絵の中には、私が展示室で会った4人、つまり青羽さん、赤羽さん、白羽さん、黒羽さん、それに受付で会った零前さんと、ここにいる七三上館長が書かれていた。  絵のタイトルは「Seasons′ Doctors」。…シーズンズドクターズ。季節の医者、いや、研究者かな?  絵の中の館長は、バーテンダーのようにカクテルを作っている。現実の館長のほうを見ると、絵の中の姿と同じように、バーカウンターの向こうでカクテルを作っていた。 「この絵は、転卵館をオープンしたときに、記念に描いてもらったものです」  カクテルシェーカーを振る音が聞こえてくる。鮮やかな手際。 「春、夏、秋、冬、それぞれの展示室で、気づきがあったでしょう。受付の副館長には、あえて、あなたをここにはやすやすと通さないよう、そのまま帰すように伝えておきました。…それなのに、あなたは突破してきた」 「私の力ではありません。…皆さんの手助けがないと、ここには来られませんでした」  そうだ、副館長と鳶色の2人、カササギの2人はどうなったんだろう? 私は、うっかりそのことに思い至らなかった。館長は、ゆっくりと言った。 「もちろん、手助けもあったでしょう。しかし、人に手助けしてもらえるのも、立派な力です。恥じることはない。大丈夫、あの人たちはそれぞれ、武器を持っている。今頃は月でも見ながら、ゆっくりしていますよ」 「武器? そうですね、あの人たちは、強い。…私と大違い。このフルートだけじゃあ、何も倒せないわ」 「いえ」  館長はできたばかりのカクテルを、私の前にそっと差し出した。館長自身は、円卓の向こう側に、ゆったりと腰かけ、私に向き直った。 「剣や杖や魔法だけが、武器ではありません。心を動かすこと。人に助けてもらうこと。自分では気づいていないかもしれませんが、それは、立派な武器です。あなたは、それをお持ちだ」  館長は、すっと手をこちらに向けた。 「さあ、お飲みください。まずは一服しましょう」  私はカクテルを見た。マグカップのようなガラス製のコップ。鮮やかな白っぽい黄色の液体。ホットカクテル…? 甘い蠱惑的な香りがする。 「エッグノッグです」  促されるまま、私は一口飲んだ。  …お、美味しい! 私は目を丸くして、館長を見る。彼は、ゆっくりと嬉しそうにうなずいた。牛乳、クリーム、砂糖、それに卵…? 濃厚なカスタードクリームのような味わいに、シナモンの香りがちょっぴり混ざり、隠し味にはブランデー。こんなに体に染みわたるカクテルは、生まれて初めて飲んだ! 疲れ果てた体と心が、みるみる回復していく。 「このカクテルは、欧米ではクリスマスなどでよく飲まれています。和風にすれば『卵酒』になるんですがね…」  私は、あっという間に飲み干してしまった。 「ありがとうございます! とても美味しかったです」 「お褒め頂き、光栄です。さて…」  館長は表情を改めた。 「どこからお話ししましょうか」  私と館長、2人の間には、エッグノッグの甘い香り、柔和だが芯のある雰囲気、真摯で真剣な情熱の空気が、シェイクされて渦巻いているかのようだった。 「お言葉に甘えて、お聞きいたします。祖母は、おうかは、この転卵館のどこかにいるのでしょうか」 「います」  館長は簡潔に、だがきっぱりと答えた。…おばあちゃん。 「それは…一度死んで、また蘇った、ということでしょうか?」 「もし、あなたが彼女のことを化け物のように思っているのであれば、それは否定しなければならない」 「と、言いますと…」 「私たち2人は、鳳凰、ホウオウのようなものです」 「ホウオウ?」 「想像上の鳥、とされています。東アジア一帯では、物語や神話などに出てくる。実はあなたも、日常的に目にしています」  と言われても…。私は鳳凰など、見たことがないんですが。 「あなたは一万円札はお持ちですか? その裏にいますよ」  言われて私は、そっとお札を出してみた。…ほんとだ、いる! 恥ずかしながら、表面の人物の顔だけ知っていて、裏面に鳳凰がいるとは気付かなかった。 「平等院鳳凰堂の、鳳凰像です。他にも、京都の鹿苑寺金閣の屋根の上にもいます。…このように、実は私たちのような者は、この世の中には少数ながらいるのです。声高にそのことは言いませんけどね」 「…死んでも、再生する。でも不老不死、ではないんですね」 「欧米で言う『フェニックス』、不死鳥とは、また別系統です。ふつうに死ぬ。でも私たちは、肉体が滅びようとも、精神はそのままで、次の体に生まれ変わるのです」  私は、祖母の葬儀の場面で見た、虹色の煙を思い出していた。 「私たちが、他の人と異なるのは、前の人生の記憶と知識が、そのまま次の体に残っている、ということです。もちろん、肉体の成長を待つ必要があります。生まれてすぐは、言葉は理解していても、声帯が発達していないので、喋れません。もし喋り出しても、あまりにも年齢にそぐわないことを言い出せば、育ての親にも怖がられて、見世物小屋か実験場行きにされる。子どもの間は、とにかく忍従の一手です。幼児教育の発達した最近の時代では、そういうことも少しは許容されつつあるのですが、以前は化け物扱いされてしまったこともありました…」  館長は遠い目をした。顔に刻まれたしわは、人の何倍も生きてきた刻印なのだろうか。 「おうかと私は、双子です。1945年。私たちは、同時に死んでしまいました。全くの予想外でした。時期がずれていれば、どちらかがどちらかを助けて、大きくなるまで育てることができます。しかし、同時だと、どちらも非力のまま生まれ落ちることになる。全くの運次第となります」 「…別々の場所で育った、ということですか?」 「彼女は、青森のほうで育ちました。幸い、ある程度裕福な一家に拾われて、大きくなって上京してきたそうです。あなたが、この転卵館で垣間見た通り」  私は「金の卵」として上京してきたばかりの、祖母の姿を思い出した。 「そのあと、彼女は一流の料理人として世界を飛び回り、事業も成功し、莫大な富を築いていきました。そのお金の一部を使って、この転卵館を建てたのです。私と一緒にね」  館長は、自分のことについては、多くは語らなかった。私は、彼の生涯も垣間見てみたい欲にとらわれた。しかし今は…。 「…それで、祖母は、どこにいるのでしょうか?」  館長は、その問いにどう答えるか、考えているかのようだった。ついと視線を外す。立ち上がり、壁にかかっている絵の前に歩くと、ゆっくりとこちらを見た。 「あなたは、自分自身の過去に向き合う覚悟がおありですか?」 「わたし? ですか?」 「おうかは、迷っています。あなたと会うべきかどうか」 「そんな!」  私も立ち上がった。 「私に会いたくない、ということですか? 次の人生が始まったから、前の人生で出会った人のことは、もう忘れたい、ということでしょうか…」 「違います」  館長は、柔らかな口調で、否定した。私は興奮した自分に赤くなり、腰を下ろした。 「その逆です。会ってしまえば、情が蘇ってしまう。終わったと思ったらまた始まる人生の繰り返しの中で、私たちは多くの出会いと別れを繰り返してきました。まさに『諸行無常』を痛感してきました。ですが、おうかにとってあなたは、特別な存在なのです」  そこで言葉を切る。私は、次の言葉を待つ。 「特別だからこそ、もし再び会うにしても、すべてを知って、決断してもらった上で会いたい、と言っています。少し悩んでいるようですね。私も困惑しています。悩むのは時間の無駄、まずは行動、それが彼女のモットーですから」 「すべてを知る…、まさか、それって」 「そうです」  館長は、私のことを見据えて、言った。 「あなたの、出生の秘密のことです」  …私は、祖母に直接、そのことを尋ねるつもりだった。私の母親は? 私の父親は? 私は、いったいどこから来たのか。そのことを告げぬままに、祖母は死んだ。この転卵館で、祖母の生涯を垣間見る中で、どこかでそのことがわかると思っていた。しかし、何もわからなかった。  それを知って、決断しろ、会うのはそれからだ、そういうこと…? 「おうかは、こう言います。『今まであの子に、出生の秘密を伝えなかったのは、正解なのかどうか今でもわからない。ならば、あの子自身で決めてほしい。知りたいか、そうではないか。知らないことが良いこともある。知らなければ、このまま、自分の思うように生きていける。知った上で、別の人生を歩むこともできる。それは、私が決めることではない』と…」 「…だから、私自身の過去ではなくて、祖母自身の過去を旅させた、のでしょうか」 「そうです。まずはおうか自身がどう生きてきたのかを見てもらって、それで終わり、何かを感じ取ってもらえればそれでいい、という気持ちも強かったようです。しかし、あなたはここまでやってきた。館長である私に会うことができて、しかも自分自身の出生の秘密を知りたいのなら、それもまたあの子自身の選択だ、その時にこそ会いたい。そう考えているようなのです」  館長は、にこっと笑った。刻まれたしわが魅力的に見えた。 「さて、どうしますか? 過去に戻り、自分自身のルーツに向かいますか? それとも、この転卵館の鑑賞はここまでにして、これまでの延長の自分自身へと戻りますか?」  …私は、即答できなかった。この問いが、大きな岐路になることを、悟っていた。 「あなたに誤解していただきたくないのは、どちらを選んでも、あなた自身の未来であることに違いはない、ということです。人生の別れ道というのは、逆方向に分かれているように見せかけて、実は同じ方向に向かっていることもあります。むしろ、別れ道とも思えないような微々たることで、大きく方向が変わっていくこともあり得るんですよ。ふと美術館で目にした一枚の絵が、大きな存在となっていくこともありますからね…」  そう言うと、館長は、私に尋ねた。 「あなたは、ポロロッカ、という言葉をご存知ですか?」 「ポロロッカ?」  …知らない。私は首をひねった。 「南米に流れるアマゾン川の逆流のことを表す言葉です。転じて『派生したものからその由来にたどり着くこと』『本来とは逆の流れになること』という意味でも使われます。現在から過去にさかのぼることは、ポロロッカのようなものだと、私は思っています。現在の自分の位置をはっきりと知るためには、過去へと逆流する必要がある、とね。と同時に、どんな未来に進むべきか、流れを見定めて、自分で舟を漕ぐのも大事だ。ただし、流れに逆らって逆流することで、逆に、漕ぎにくくなるかもしれない。逆流せずにただ前を見て漕ぐのも、1つの選択です。どちらを選んでも、私はそれを尊重します」  私は、考え込んだ。館長は、私の選択を急かせることなく、静かに目をつぶった。 …心が決まった。 「知りたい、です。何もかも」  私の一言に、館長は大きくうなずいた。 「では、この絵の前に来てください」  私は、6人が描かれている絵の前に立った。 「あなたはいま、25歳。つまり、25年前に行くことになります。となると…、私がいま75歳だから、同じ歳だったおうかが50歳の頃か。すわんさんのところだな」 「白羽さんのところに、ですね。となると、ハクチョウの曲を吹けば良いと…」  館長は、目を見張って私を見た。 「驚いた。あなたは、この転卵館のことを、よく理解されているようですね」 「…こう見えて私は、旅行が好きなので」  私たちはふっと笑いあった。私は絵の前に立ち、息を整えた。ハクチョウの曲と言うと…、やはりあれしかないだろう。私は、フルートを吹き始める。学生の頃に、バレエを習っていた同級生に頼まれて、何度か練習して吹いた曲だ。  チャイコフスキー、『白鳥の湖』より、第2幕「情景」。  私は、吹きながら、ハクチョウの泳ぐ静かな湖のほとりを思い浮かべていた。その同級生が言っていたことを、不意に思い出した。 「夜の湖に、さあっと月の美しい光がかかるの。そうすると、ハクチョウたちは娘たちの姿に変わるのよ。その中でも特に美しいオデット姫。彼女に心を奪われるのが、ジークフリートという王子様。ねえ、みれる、ロマンチックな出会いだと思わない? でも、お姫様が人間の姿に戻れるのは、夜の間だけ。どうやってこの呪いを解くのかって? まだ誰も愛したことのない男の人に、愛を誓ってもらえばいい…」  おばあちゃんは、誰かから本気で愛されたことがあるのだろうか。この私は、どうなのか…。 「でもね、みれる。このお話は、悲劇的に終わることもあれば、ハッピーエンドで終わることもあるのよ。呪いが解けずに湖に飛び込んで心中するのか、呪いが解けてめでたしめでたしで終わるのか。…私たちはこれから、どんな人生を歩んで、どんな人に出会うんでしょうね」  そんなこと、今だってまだわからない。しかし、私は、私自身に会うために、吹く。  …いつの間にか、私の姿は、その部屋から消えていた。   【1995年】 「みれるさん、みれるさん。着きましたよ。いやしかし、これは聞きしにまさる惨状だ…」  男性の声に、私は目を覚ました。寒い。外だ。見上げると、館長が立っている。私は立ち上がった。あたりを見渡して、…しばらく声が出なかった。 「1995年1月17日の朝。神戸です」  館長は、私に教えてくれた。私の知っている神戸は、どこか異国情緒があって、どこか近代的で、どこかミュージカルの舞台のような、素敵な街だった。私の目の前に広がる、この崩れ果てた情景とは、どうしても結びつかなかった。ビルが、あり得ない角度に傾いている。道行く人たちの表情はどこか虚ろで、衝撃の大きさを物語っているかのようだ。 「未明に起きた大地震で、多くの人が命を失いました」  館長は沈痛そうな声でつぶやいた。 「さあ、行きましょう。おうかはこの時、出張で神戸にいたのです」 「どこへですか? 私が生まれたところ…、病院ですか?」  …館長はそれには答えず、先に立って歩きだした。私は急いでその後を追う。 「いた。この時代のおうかです。私たちの姿は、見えない」  祖母は、南アフリカで見かけた姿と、あまり変わらなかった。紫色のケープを羽織っている。あれは1999年、今回は1995年。54歳と50歳だから、そんなに変わらないのは当然か。  背筋を伸ばし、足早に歩く祖母の後ろから、私たちはついていく。 「…私たち2人が今回の人生で生まれたのも、このような瓦礫の中だった、と私は育ての親から聞かされました。1945年3月。東京大空襲の時でした…」  館長は、独り言のように話している。  私は、動悸が激しくなるのを感じていた。 大地震の日。瓦礫の中から。父と母は知らない。そのような言葉が、ぐるぐると頭を駆け巡る。  祖母は、ある建物の前で、歩みを止めた。閑静な住宅地。周りの人は、より大きな崩れた建物の周りで、必死に救助活動をしている。祖母が見ているのは、小さな、崩れた日本家屋。  鋭い目つきでじっと眺めていた祖母が、ふと顔を上げた。そこには、虹色の煙が空に舞い上がっていた。…祖母の葬儀場の煙突から、出たものに似ていた。  祖母は、奇麗な羽を伸ばすと、その煙を追って、空に飛び立った。館長と私も、空へ。  館長は、私の心情を思いやってか、一言も発さず、温かい沈黙を続けている。ただ、そばにいてくれている。そのことだけを頼りに、私はかろうじて自分を保っていた。もし1人で追跡していたら、きっとその場にうずくまっていたことだろう。  ほどなく空の旅は終わり、私たちは鮮やかな赤レンガの建物の前に降り立った。尖った屋根の先端に、風見鶏がついている。祖母は、虹色の煙が、その建物の前にゆっくりと降りていくのを見つめていた。周囲には誰もいない。その煙は、一瞬、ぐっと濃くなったかと思うと、文字通り雲散霧消した。…煙のあった場所には、白い布の袋が現れ、そこには、1人の赤ちゃんがいた。  祖母は自分の紫色のケープを外すと、優しくその子を包み、抱きかかえた。それを待っていたかのように、赤ちゃんは泣き出した。 「あれが…私…?」  そう言うのがやっとだった。 「そう。大地震の中から、君は生まれました。…生まれ変わった、と言えばいいのかな」 「…でも、館長や祖母のように、私には前の人生の記憶が残っているわけではありません」 「ふむ…。それはなぜか、私にもわかりません。私たちももしかしたら、最初はこのような感じだったのかもしれない。何回か繰り返して、徐々に記憶が残るようになったのかも…。いずれにしても、この世はわからないことだらけ。しかし、これだけは言えます」 「えっ?」 「この世に生まれてくることは、すべて奇跡」  …私は、その言葉に、こらえていたものが吹き飛び、知らずに涙があふれた。 「おばあちゃん…」 「おうかは、ここで出会った君を育ててきました。私はびっくりしました。いきなり赤ちゃんを抱いてやってきて、これからこの子は私の孫だよ、と言い出すんだから。名前も決めた、ときとりみれる、いい名前だろ、と。娘、と言うには、ちょっと年が離れていたのでしょうね。孫、と言ったのは、おうかの、せめてもの照れ隠しかもしれない」 「…おばあちゃん…」 「托卵を知っていますか?」 「…たくらん?」 「鳥で言うと、自分の卵を、他の鳥に託して育ててもらうことです。私たちは、世の中に出てくるとき、あまりにも非力だ。誰かに守ってもらい、育ててもらって、大きくなります。そこに愛情があるのなら、生まれはどうであれ、幸せだと思う…」  最後は自分に言い聞かせるように、館長は言った。  そうだ、その通りだ。私は、祖母に、慈しんで育てられた。そりゃあ、厳しく叱られたことも多かったけれど、それが愛情に基づいたものであることは、よくわかっていた。私は、尊敬できる人に育ててもらった。それだけでいい。それで、十分じゃないか…。 その時、フルートが鋭く鳴った。 「…さあ、戻りましょうか。転卵館へ」  私は、うなずいた。もう、涙は無かった。徐々に、私の体は薄くなり、生誕の地からかき消えた。   【2020年】 「ほれ、いつまで寝てるんだい。起きな! みれる」 「もうちょっとだけ…。もう5分だけ寝かせてよ、おばあちゃん…」 「まったく、何だろね、この子は。もう25歳だろ」  …そう、私は25歳。なのに小学生みたいな受け答えをしてしまった。懐かしい祖母の声に、ついそう答えてしまった…。にしても、あれ、声がちょっと違う。張りがある声、というかむしろ、可愛らしい声というか…、え、おばあちゃん!?  私はがばっと起きた。私の顔を覗き込んでいたのは…。 「ええと、…あなたはどこのおうちから来たの?」 「なに言ってんだい、みれる。寝ぼけてんのかい? 私だよ。おうか。あんたのばあちゃんだ」 「…!?」  そこにいたのは、どう見ても幼児。3歳くらいの女の子だった。背筋がぴんと伸びているが、身長は1メートルくらいか。しかし彼女は、その外見とは裏腹に、よどみなく歯切れよく話す。そのギャップが、強烈な違和感を生んでいた。 「まったく、早く齢を取りたいもんだね。不便ったらありゃしない」 「…本当におばあちゃん?」 「あたぼうよ。まだ生まれて3年くらいだから、あんたよりちっちゃくなっちまった」 「おばあちゃん…。こんなに小さくなって、まあ」 「あんたは、そんなに大きくなってないね。…男は、1ダースくらいできたのかい?」  その喋り口は、どう聞いても七三上おうか、その人だった。私たちは顔を見合わせ、同時に噴き出した。笑いがこみあげてくる。涙の再会、と言うには、あまりにも姿が変わっていて、あまりにも会話が変わっていなかったからだ。 「…みれる、あんたがここまで来るとは思ってなかったよ」  祖母は、笑いを収めると、あふれる想いを吐き出すかのように、言った。 「4つの展示室を回ってそれで終わり、元に戻ると思っていた。それでいい、と思っていた。今回、私の人生を垣間見せたのはね、あんたがちゃんと『巣立ち』をできてないように思ったからさ」 「巣立ち?」 「そう、3年前、私の前の体は、もういけないところまで来ていたんだ。あんたには言わなかったけどね。その頃、あんたはやっとこさ新しい空を見つけて、飛んでいった。やれやれ、これでようやくお役御免、あとは回想録でも残していってやろうかと思った矢先に、急にお迎えが来ちまった。…これでも気にはしていたんだよ。久しぶりにあんたを見たら、3年目がどうとかと、つまらないミスで凹んでいるじゃないか。あんたが子どもの頃ならね、『七三上おうかスペシャルデザート』でも作ってあげれば一発で元気になったろうけど、今の私は、調理台にも踏み台がないと届かないちんちくりんだ。それなら、私の人生でもつまみ食いさせたほうが、いくらか気分転換になるかと思ってね」  祖母の手作りスイーツの味が、にわかに舌に蘇った。確かにあれは、美味しかった…。 「…それで、私をこの転卵館へ?」 「渦の中にいる者はね、自分が渦の中でもがいているとは、意外にわからないものさ。でも、一度でも外から眺めてみれば、岡目八目、なんでそんなことで悩んでいたんだろうと、冷静になる。それならば私自身の『巣立ち』でも見せたほうがいいかな、と思ってね」 「…ありがとう、おばあちゃん」 「なあに、礼を言うのはこっちさ。あんたと過ごせた歳月は、面白かった」  そう言うと、祖母は、じっとこちらを見た。年齢不詳の3歳児に見つめられ、私は既視感にとらわれた。あ、これは、真剣なことを言う時の祖母だ。私は、心の準備をした。 「回りくどいことは言わないよ。みれる。私と一緒に、ここで過ごしてくれないか?」  ここ…と言うと、この転卵館で?  私は辺りを改めて見回す。祖母に気を取られていたが、ここは館長と話していた会議室ではない。零前さんのいた、受付のある部屋、入り口ホールである。館長も零前さんも、姿は見えない。 「いま、新しい別館を建てようと考えているんだ。ほれ、世の中もがらがらと変わっていって、レールに乗ればそれでOK、という人生が少なくなってきたろう? 春には学ぶ、夏には働く、秋には支えて、冬には引き継ぐ。たとえその大枠は変わらなくても、もう少し柔軟に人生を回想できるような、そんな方法はないかと思ってね。来館者の年齢も、若くたっていい。いや、むしろ、あんたのような若者が、それまでの自分を振り返ったり、他の人生を追体験したりして、残りの人生について、つまり明日について考えて、行動に活かしてもらったほうが、よりいいんじゃないかと思ってね。そのためには、このプロムナードを通ってぐるりの転卵館では、いささかクラシックな感じがしてきたんだよ」 「…全館リフォームするってこと?」 「いや、転卵館は転卵館で、残す。もちろん補修はするがね。四季になぞらえて回想するのは、これはこれで大事なこと。だけど、それだけじゃ見えないものもある。春に支えて、夏に引継ぎ、秋に働き、冬に学ぶ。それだっていいわけだ。いや、実際には、季節で分けることすらも必要ないのかもしれない。学んで、働いて、支えて、引き継ぐ。ダイナミックに組み合わせて、見つめ直して、壊して、また現状に合うように組み直す。そういう生き方でないと、これからの世の中、困る部分も多いだろ?」  私は、りゅうこさんに言われた「パズル」と「ピース」の話を思い出した。 「いつだって組み替えても構わない。死ぬまで完成しない。刻々と変化させる。どこへでも自由に飛んでいける」…上野駅で、彼女は、そのようなことを言っていた。 「もう十分だと思ったパズルが、いつの間にか物足りない。完成したはずのパズルなのに、実はピースが足りない」。…パリで、彼女は、私もそうなんじゃないのか、と指摘した。  そう言えば、ふえきさんもプロテイン…じゃなくて「プロティアン」の話をしていたな。 「変わるためには『軸』が必要。たこのないたこ焼きはたこ焼きではない。変わるものと変わらないものは表裏一体、変わらないものがあるからこそ、変わることができる」。…南アフリカでふえきさんは、関西弁で喝破していた。 「…鳶色りゅうこさんとふえきさん。彼らは、いったい何者なの?」 「あの双子かい? あの人たちは、私とほうさく館長の、古いなじみさ。この転卵館を設計してもらって、実際に建ててもらったんだ。その流れで、3年前には私の助産師役まで頼んじまったけどね。今回、別館を考えるにあたって、打ち合わせに来てもらったのさ。ついでに私の過去が見たいなんて言うから、好きにしな、と言ったら本当についていっちまった。あんたも、ちょこちょこ出会ったろう? …まあ、おそらく、別館の館長候補がどんな女なのか、気になったんだろうね」 「…。館長候補の女って、まさか」 「みれる。あんただよ。私はまだ小さい。私の手助けをしてほしい」  …生まれて初めて、スカウトされた。しかも祖母に。3歳児に! 「とはいえ、あんたの人生だ。いまの仕事もあるだろうしね。好きにしな。返事は…そうだね、ちょうど2か月に聞こう。もちろん、これまでの生活に戻ってもいい、しっかり考えな」 そう言うと、祖母は人の悪い笑顔を私に向けた。 「あんた、その様子だと、いい男がいるって感じでもないね。惚れた男がいりゃ、そんな表情はしないよ。…なっさけないねえ。あんたの年の頃には、私には親衛隊が星の数ほどいたもんだがね」  ぐっと言葉に詰まったが、どうにか反撃する。 「…あのパリの金髪の男性も、その1人? おばあちゃん、カフェで平手打ちしてたでしょ!」  祖母は、きょとんとした顔をした。 「…顔も思い出せないねえ」  私たちは再び、顔を見合わせて笑った。笑いながら、涙がこぼれた。  私は、ツル世代の七二田みつるさんが言っていた「ペルソナ」という言葉を思い出した。 「新人の会社員という仮面。しかし刻一刻と内面は変わる。入社の時につけていた仮面が、徐々に合わなくなる。新しい仮面をつけてみてはどうか」。…上空で、みつるさんは私に言った。  館長候補という新しい仮面を提示しておいて…。しかもそれをつけるかどうかは、自分で決めろと言う。そう、祖母は決して強制はしない。祖母自身が、自分の決断で突き進んできたように、私にもそうしろと言う。…決めるのは、他でもない、私だ。  祖母は、受付のカウンターの中から、1つの小さな箱を取り出してきた。私の目の前で箱を開けると、中には奇麗な髪飾りが入っていた。 「ほれ。来館記念に持っていきな」 「これは…?」 「南アフリカの国の花、プロテアの髪飾りさ」  祖母は、私をしゃがませて、小さな手で、その髪飾りをつけてくれた。 「…お似合いじゃないか」 「プロテアって、鳶色ふえきさんが売っていた、あの花?」 「もちろんこれは、本物の花じゃあないがね」  祖母は、私を立たせると、言った。 「プロテアの花言葉は『自由自在』。そして『華やかな期待』」  祖母は、親衛隊たちを魅惑したであろう、笑顔を作る。…いまは可愛らしい3歳児の笑顔だが。 「中でも、キングプロテアの花言葉は、『王者の風格』だ。…みれる、自信を持ちな。どんな選択をしようと、あんたの人生の中では、あんたが王者だ」  私は、祖母を抱きしめた。 「さ、別れの時間だ。この転卵館の中の時間の流れは、特殊でね。来た時と同じ時間に戻れる」  祖母は、私の涙をふいてくれた。小さい頃に、そうしてくれたように。 「フルートも、あんたにあげるよ。いいかい、2か月後だよ。その前に一度、カラスのじっちゃん、黒羽くろうを使いにやろう。何かあったら、彼に頼むといい」  そう言うと祖母は、指でくるりと円を描いて、できた丸を持ち上げる仕草をした。まるで料理の皿を持っているかのようだ。それを頭上に掲げたかと思うと、私を目がけて、投げた。 「え!?」  その見えない皿が当たった、と思った瞬間。  私の姿は転卵館から消え去っていた。  …気が付くと、私は自分の部屋のベッドに横たわっていた。  そばの目覚まし時計を見ると、…転卵館に入った時間と、ほとんど変わっていない。  祖母が、ここまで送ってくれたのだ。一瞬で。  私はそう思った。そっと頭に手をやると、そこにはプロテアの髪飾りがある。横には、袋に入ったフルートがあった。…夢、ではなさそうね。  私は、髪飾りを外すと、ベッドに再び仰向けになり、その髪飾りを眺めた。 「花言葉は、自由自在、華やかな期待、そして王者の風格…」  転卵館で出会った人たち、絵画の数々、プロムナード…。それらの記憶を1つ1つたどりながら、私はもの思いに沈んでいった…。
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