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序章 回想のホトトギス
【2035年】
「ときとりさん、もう3年目じゃなかったっけ?」
私は、椅子に腰かけて目をつぶり、当時の上司の、憂いを含んだ言葉を思い出していた。
そう、人生の転機となった、あの頃。
あれから15年たった。40歳の私は、その時とは違う境遇にいる。しかし、この言葉は今でも私の心の中に、氷のような冷たさとともに存在している。
仕事で失敗をした。誰のせいにもできない、私自身の確認不足だった。3年目。1年目の失敗は、周りがフォローしてくれた。2年目の失敗は、自分で何とかできた。しかし3年目のこの失敗は、自分だけで何とかできるレベルのものではなかった。上司も含めて周りの人に迷惑をかけて、やっと一段落した、その時にかけられた言葉だった。
上司としては、特に私を傷つけようとか、そんな意思は無かったに違いない。2020年の当時でも、パワハラにはやかましかったから。しかし何の一言もなく、ただ終わりにするには、少しことが大きかった。上司の静かな叱責に、私は平謝りするしかなかった。
1年目の最初にはミスを連発していた私も、3年目のこの頃には仕事にも慣れ、大過なく過ごしていた。思えば、その認識こそが慢心だったのだろう。忙しさの中で、伝達不足に確認不足が掛け算された。まさかの失敗。後から考えてみれば、防げたタイミングはいくらでもあったのだが、気が付いた時にはすでに傷口は広がっていたのである。
時鳥みれる。…それが私の名前だ。
ときとり、という珍しい名字を、私は気に入っていた。みれる、という下の名前は、祖母がつけてくれた。1995年生まれの私に、次の千年紀、つまりミレニアルを力強く生きていってほしい、という願いを込めたそうだ。
しかし、25歳の当時の私は、力強くは生きていなかったのである。
いつしか私は、時を越えて、回想に沈んでいった…。
【2020年】
25歳の私。社会人3年目にはありがちなことだが、私は将来に対して、何とも言えない漠然とした不安を抱えていた。
好きで入った会社である。旅行代理店。大学時代に吹奏楽部に所属していた私は、ヨーロッパへのクラシック音楽ツアーを主に企画する会社に就職できて、満足だった。吹奏楽部の先輩も1人、同じ会社に入社していて、同じ部署に所属されたのも心強かった。
ところが、その先輩は結婚のために、ほどなく退職した。会社も方針変換を進めて、クラシック音楽ツアーから史跡めぐりツアーに主力を移していた。
自慢ではないが、私は音楽には昔から自信があった。高校生の頃は、本気で音楽大学への進学を考えていたほどである。ところが、歴史は苦手であった。過去の史跡をめぐって楽しむ人の心理が、もちろん表面上には毛ほども見せなかったが、内心では理解できなかった。仕事へのモチベーションは、3年目を迎えて、下落しつつあった。そこに来て、このミスである。
「…転職しようかなあ…」
ミスが起きて1週間後。アフターフォローもすべて終わって、仕事は通常業務に戻っていたが、私の心は通常に戻っていたとは、まだ言えなかった。
「お疲れ様です」
そう声をかけて職場を出て、暖房から寒風に身を晒して歩き始めた私の口から、「転職」という言葉が、つい転げ落ちてしまったのだ。
給料にも人間関係にも、特に不満はない。ミス直後にはもちろん叱られたが、上司もねちっこい人ではなく、むしろ気を遣ってくれている。だが、その温かさこそが、逆に寒風のように心を刻んでいた。根本的な問いが、頭に浮かんでは消える。…このまま史跡めぐりツアーのお世話で、社会人経験を重ねていって良いのだろうか? 本当は、もっとクラシック関係のお仕事がしたかったんじゃないの?
そもそも、クラシックに少しでも関りがあるから、と選んだ職場だった。楽団の事務局、コンサートのイベント会社、楽器メーカー、就職活動で立て続けに「お祈りメール」をもらってしまった私に、唯一、内定をくれたのが今の会社だ。決まった時は、天にも昇る心地だった。1年目の仕事は、新しいことの連続で、すべてが目新しく、刺激的だった。しかし今、3年目。その新鮮さは、徐々に無くなってきていた。
これまでも転職を考えないことはなかったが、いざ口に出してみると、それは意外なほど現実味を帯びて、私の心に巣くった。…転職、か。
私には、家族がいない。結婚はまだ。父親も母親も、私が赤ん坊の頃に亡くなった、らしい。らしいというのは、祖母から口伝えに聞いているだけだからだ。
祖母は、一種の「女傑」だった。商売をやっていて、その部下の夫婦やその子ども、また周辺にも同世代の子どもが何人もいて、兄弟姉妹のように接してくれたから、寂しい、と思ったことはほとんどなかった。みんな優しかった。祖母は人づきあいが良くて、父親や母親代わりに、私の面倒を見てくれる大人は他にも何人もいた。今思えば、祖母がそのように周りの環境を整えてくれたのだろう。祖父は、いなかった。あまり聞かなかったが、祖母はけっこう自己主張のはっきりした人だったから、たぶんうまくいかなくなったのだろう、と思っていた。そのしっかり者の祖母のおかげで、私は大学にも進学することができた。
その祖母が、私が就職を決めた直後に、突然、亡くなった。心臓発作だった。
これから祖母孝行をしよう、と密かに思っていた矢先だったから、私はかなり落ち込んだ。その人づきあいの良さに反して、葬儀はとてもひそやかだった。すべて部下の夫婦が取り仕切ってくれたから、私はただその段取りに乗っかるだけで良かった。就職先が決まったばかりだから、事業を相続するつもりは無かった。すべてをその夫婦に任せた。
聞けば、祖母も私と同じような境遇で、親戚づきあいも薄いようだった。
個人の遺志もあり、私は引っ越し代と当座の生活資金だけを受け取って、あとは祖母の事業のために遺産を使ってほしい、と申し出た。部下の夫婦も、そのことを常々祖母自身から聞いていたようだったから、特にトラブルも無かった。私は私で、これからの新生活を構築することに心を奪われており、そのうち社会人1年目の多忙にもまぎれて、いつしか祖母のことを思い出すことも少なくなった。
要するに私は、絵に描いたような「天涯孤独」なのである。
役所で戸籍を調べてみようかな、とも思ったが、仕事の忙しさもあってか、また過去をほじくり返す面倒くささもあってか、手をつけていない。…いずれ、結婚でも真剣に考える時にでもすればいいや。そんな気でいた。
このような境遇を私は、寂しい、という気持ちよりも、自由だ、という気持ちで捉えていた。物心ついてから両親を失ったのであれば、もちろん悲しかっただろうが、気が付いたら祖母がいて、周りはいつも賑やかだった。大学の友達などには「寂しかったでしょう?」と言われたが、最初からいないのであれば、実感のある寂しさはあまり感じないものらしい。
そんな私だから、転職するにも特に家族に気を遣う心配もない。ただ、自分の判断だけで生きていくことができる。
とはいえ、では明日から転職活動に邁進する、そんな気持ちにもなれないでいた。何だかんだ言って、私は今の職場を気に入っていたからだ。仕事にも慣れてきた。…もちろんその慣れが、今回の失敗の大きな原因だったのだが。
同期はどうなのか? 職場の同期は10人。そのうち、女性1人は早々と退職してしまったが、他の9人は、まだ残っている。彼氏や彼女と結婚、という話題も無くはなかったが、まだ現実化はしていないようだった。私はと言えば、そちらの方面の戦果に乏しく、大学時代につきあった彼氏はいたものの、卒業間際になって自然消滅してしまった。それ以来、祖母の葬儀や仕事の忙しさもあって、プライベートが充実しているとはとても言えなかった。でも逆に言えば、急に結婚を迫ってくるような彼氏もいないから、自分の胸先三寸で、人生をどうとでもできる。
…とりあえず、転職サイトにでも登録してみようかなあ…。
「もう3年目じゃなかったっけ?」
上司のあの一言を思い出すと、まだちくりと心が痛む。はい、もう3年目です。私は心の中で、上司に頭をまた下げる。そんなに気にするタイプではない、と自分では思っているが、やはり3年目にしては有り得ない失敗をしてしまうと、反省はする。
同世代の人も、こんな風に色々と悩んでいるのだろうか?
先日、大学の吹奏楽部の後輩が、結婚のため仕事を辞めると聞いて、素直に羨ましいと思う反面、そんなに早く結婚していいのかな、せっかく就職したのにもったいないんじゃないかな、という気持ちを持った。1回の失敗ごときですぐ転職を考えるのも、何となく自分に対する裏切りのような気持ちもあった。とはいえ、クラシック音楽ツアーの仕事は、年々少なくなっているし…。私の頭はいつしか、ぐるぐると答えが出なさそうな気持ちで、いっぱいになってきた。
考え事をしながら歩いていると、つい道を間違えてしまうらしい。
私は、いつの間にか駅前の雑踏の中にいた。退勤時間にはすごく混みあうので、普段は通らないように避けている場所だ。何かのセールをやっているのか、やたらとティッシュやチラシを配っている。私はそういうものをもらわない主義。すっと受け取らずに通り過ぎるのが常だ。しかし、今日は人また人の混雑。次々と渡してくる手を避けるスペースすらなくて、気が付くと、何枚かのチラシをもらってしまっていた。
歩きながら、もらったものを何となく眺めていた私は、そのうちの1枚に目を留めた。
TENRANKAN
そのチラシには、大きな字で、そう書かれていた。
展覧会、の間違いじゃない? てんらんかん?
私は何度か見直したが、やはりそう書かれている。
そのチラシは、シンプルだった。他のチラシが色とりどりに、購買意欲をかきたてようと必死に訴えかけてくるのと対照的に、ストイック。まるで修行僧のようなチラシだった。
黒一色で塗りつぶされて、白抜きのアルファベットが9文字。地図が下についている。自分の部屋から5分くらいの距離だ。しかし紙面には、他に何の説明もない。
校正ミスかしら。展覧会、とすべきところを間違ったとか?
そう考えて、私は、またちくりと心が痛んだ。そう、私が会社でしでかした失敗は、まさにこの校正ミスが原因だったのだ。たった1文字の間違いが、お客様の誤解を生み、クレームを生んでしまった…。そんなこともあってか、私はこのチラシから目が離せなくなってしまった。明日は休日だ。ちょっと気分転換に、散歩がてら行ってみようかな。我ながら物好きだな、とも思ったが、私はいったん帰宅し、仕事の荷物を玄関に置くと、そのままの格好で地図に載っている場所に向かっていった。
…そんな私の後を、黒い影が音もなくついてきているとは知らずに…。
「ここ…、かな」
私は門の前で立ち止まった。幹線道路から一本入った、閑静な住宅街。周りにはコンビニも居酒屋も無く、車の音が遠くにかすかに聞こえる程度だった。塀は長く、高い。こんなところがあるなんて、今まで知らなかった。そもそも、夜に開いているのだろうかと不安だったが、門のところにはこう書かれた札が下げてあった。
「開館中 どうぞお入りください 転卵館」
転がる卵の館? それで「てんらんかん」か。…展覧会じゃないのね。
私は門の外から、敷地内を見た。
明かりのついた洋館が、門から少し離れた場所に建っている。暗いのでよく見えなかったが、意外と大きいようだ。
せっかくここまで来たのだ。ざっと見学してみよう。好奇心に駆られた私は、門から敷地内に入り、その洋館に向かって歩いていった。
…その後ろから、黒い影がさっと門に下げてあった札を裏返して、私に気付かれないように洋館に入っていったことを、むろん私は知らなかった。札の裏にはこう書かれていた。「立ち入り禁止」。
不思議な洋館だった。クラシックツアーの下見で、何度かヨーロッパに行ったことのある私も、どこの国の建築を見本にしたものなのか、想像がつかなかった。
「こんな建物が近くにあったなんて…」
見るからに重厚そうな玄関の扉を見て、私は不思議に思った。これだけの立派な建築物ならば、ガイドブックなどに載ってもおかしくない。しかし、転卵館という名前すら、私はそれまでに聞いたことが無かった。
玄関は開いている。まるで私を迎え入れるかのように。
建物の中に入ろうとしたその刹那、私は玄関の横の庭の、人影に気が付いた。
よく目を凝らしてみると、どうやら女性である。髪は長く腰まで垂れて、赤茶色の作業着を着ていた。測量に使われるような機械を前に置いて、熱心に建物を見ている。それにしても、この暗い中で測量?
その女性も、こちらに気が付いた。驚いたことに、作業を中断してこちらに声をかけてきた。私は、まさか自分が不法侵入でもしたのではないか、と心配になり、一歩後ずさった。しかし女性はお構いなしにまっすぐに歩いてきて、私の目の前で一礼した。
「鳶色りゅうこ、と申します」
とびいろ…。鳥のトビの色だったっけ。確か、赤茶色。まさに名は体を表すだわ。
「来館者がいらっしゃらない時間なら、測量しても構わないと館長さんに言われまして。こちらのスタッフの方ですよね?」
「いえ、違います」
「あら! ごめんなさい。私の勘違いね」
鳶色と名乗る女性は、少し慌てた表情になった。その表情を見て、私も少しざわめいた。もしかして、すでに閉館の時間だったとか。でも確かに、門のところには「開館中 どうぞお入りください」という札があったはず…。
「となると、あなたは来館の方ね。こんなにお若いのに…」
その物言いに、私はひっかかった。高齢者向けの美術館か何かなのだろうか。
「あまり若い人は来ないのですか?」
そう聞くと、鳶色さんは首を横に振った。
「そんなことはないですよ。でも、どちらかというとご年配の方が多いわね。やはり、人生を振り返るには、それなりの経験を経た人のほうが…」
?? どういうことだろう?
重ねて尋ねようとした私を制するように、鳶色さんは腕時計に目を走らせた。
「引き留めてごめんなさいね。私も出直すわ。入り口はあちら。玄関を入ってまっすぐ歩いて、突き当りのドアを開ければ受付があるはずよ。私が言うのもなんだけど、この建物はよくできているわね…。でも、ちょっと、今の時代には古いかな」
私は、鳶色さんが指さした館内を見た。確かに、玄関を入ると廊下が続いており、ドアが小さく見えている。外の闇に対して、その廊下はやけに明るく見えた。
「この転卵館って…」
そう言いかけて振り向いた時、鳶色さんの姿は、すでにそこには無かった。かすかな羽の音が聞こえたような気がした。よっぽど急いでいたのだろうか?
一人取り残された私の足元で、風が鳴った。急に寒くなった気がする。
私は、明かりに引き寄せられるように、館内に入った。
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