93人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
4
《理文》
気まずさは、お互いの歩みよりで帰路に着くころにはほとんどなくなっていた。
言葉を交わし、いつのまにかちょっとした冗談を言って、笑いあうようになっている。大人になったな、と理文は思った。心を隠し、言葉を封じて、相手を思いやる大人の駆け引きをしている。……だが、実際は一度胸に落ちた思いが消えてなくなることはない。
どうして哲はいきなり、あんなことを言い出したのだろう。
──中野には言ってもいいんじゃないのか、俺たちのことを。
俺たちのこと!
その言葉に含まれる意味に、理文はぞくりとしてとっさに動揺を押し隠した。ごく自然にそういうことを口にできる哲の無邪気さに翻弄されている自分を自覚する。
付き合って、まだひと月も経たない。自分自身浮かれているのも否定できない。好きだという気持ちに変わりはなく、むしろ日に日に強くなるようで、自分でも怖いくらいだ。だけど、それでも、理文はだれかに自分たちのことを〝俺たち〟と言える気がしなかった。
中野にゲイであることを告白する自体は問題じゃない。そもそも中野にカムアウトしていなかったのは、〝哲だけが知っている〟状況にいたかっただけで、他に理由はなかった。中野はこれまで黙ってきたことを責めることはあっても、理文がゲイだからといって態度を変えたりはしないだろう。それでも、こうして哲と付き合うようになって、それを告げるとなると理文は躊躇せずにはいられなかった。
だって、それはものすごく──恥ずかしい気がする。
それこそあまりに浮かれていて、身の程知らずで、自分にはふさわしくないように思える。
……どうして、哲はあんなにも普通でいられるのだろう。
「たまには飲んで帰るか?」
電車に乗っているときに、ふと哲がそう言い出した。
昼食を済ませてから、普段行かないような観光地や街をめぐり、陽も傾き始めたところで理文の部屋に向かって帰ろうとしているところだった。土曜の夕方に走る主要な路線は、老若男女さまざまな人々で溢れていて、通勤ラッシュとは違う混雑があった。車内にはいろんな会話が飛び交っていて、片隅で言葉を交わす男二人の声もそのざわめきに溶け込む。
「じゃあ駅前の中華に行く? この間、行ってみたいって言ってただろ」
「それもいいけど、新宿で、とか」
「新宿? どこも混んでるよ、きっと」
「……あの店はどうなんだ?」
驚きのあまり、理文はぽかんと哲を見返していた。混雑した電車の中で、揺れれば身体が触れるほどすぐそばに立つ哲はしごく真面目な顔をしている。哲がどの店を指しているのかは問い返さなくてもわかった。
「なに言ってるの? 行かないでしょ」
目を丸く見開いた間抜け面はすぐに引っこめることはできたが、さりげない声を出せたのかは自信がなかった。
「おまえはいつも行ってるんだろ」
「……行きつけだからね。事務所からも近いし。でも、心配しなくても本当に変な店じゃないんだよ。常連同士で──いうなれば友だち、仲間うちで、楽しく会話をするだけの店」
「わかってる。行くな、とは言ってない」
哲がそう言ったところで、ガクンと揺れて電車が駅に到着していた。ちょうど乗り換えの、まさに新宿駅だ。もし新宿で飲みたいなら、乗り返せずにここで駅を出ることになる。
アナウンスともに扉が開き、ドッとひとが車内からホームへ溢れだす。そのぎゅうぎゅうと人波に乗って、理文はなにも言わずに乗り換え口のほうへ向かって歩き出した。
まさか、本当に哲と一緒に行くわけにいかない。
ホームから下りていく階段のところで哲が追いついてきて、横に並んだ。
「まっすぐ帰るのか」
「帰るよ。本当になに言っているの」
「俺と一緒に行く気はないのか」
危うく理文は階段の最後の一段を踏み外しそうになった。
──今日の哲は本当にどうかしてる!
他人に迷惑をかけないよう混雑をすり抜けるふりで、理文は返事もせずに早足で歩いた。コンパスの長さが違うので、ついてくる哲の足取りはどこか悠然としてさえ見える。
「理文、……理文、おい」
乗り換えのホームに着くまで、理文は恋人の呼びかけを無視した。
部屋の最寄り駅まではひと駅だ。駅からは徒歩十分強で、都心の繁華街から歩こうと思えば歩けない距離でもなく、よく理文は終電が終わったあとの時間まで飲んで、行きつけのバーから歩いて帰ることがあった。デートを終えたあとに泊まらずに家に帰ることもあった。そういう立地を考えて選んだ部屋なのだ。そんなことまで、哲は気づいていないかもしれないが。
ともかく、哲と一緒に行きつけのゲイバーに行くなんてことは考えられなかった。
《理文》
「……怒ったのか?」
まだ宵の口の時間帯、各駅停車の電車は空いていた。乗り込んで発車を待つ間、あまり具体的な話をしたくないのに、哲がそんなふうに聞いてきて、理文は一瞬言葉を詰まらせた。
「お、こってないよ。哲が一緒にバーに行こうなんて変なこと言うから驚いただけ」
「嫌なのか」
「……嫌なのは哲のほうだろ。っていうか、嫌な思いをするのは哲だよ」
「なんで俺が嫌な思いをするって思うんだよ」
それまでどちらかというと淡々としていた声に急に苛立ちがにじんだように感じて、ハッと理文は顔をあげた。それほどまでには混んでいないのに、肩がふれるほど近くに恋人が立っていて、どきりと心臓が跳ねる。しかも哲が厳しい顔をしている──いつもの不機嫌で、不満で、説教をしたがっているような顔だ。
……ああ、と理文は心の中で深く息を吐いた。
自分は本当に哲の苛立ちスイッチがどこにあるか全然わかっていない。恋人になったはずなのに、全然理解できていない。
どうして、哲が苛立っているのか。なぜ、そんなふうに外でデートをしたがったり、友人にカムアウトしたがったり、一緒にゲイバーに行きたがったりするのか。
わからない自分が苦しい。
「……だって、嫌じゃない? 普通に、そういうところ」
アナウンスが流れて、乗車ドアが閉まる音にまぎらわせるように、理文は返した。動き出す電車の騒音に紛れればいいと思う。自分の気弱な動揺が。
けれど、哲は堂々としているのだ、どこまでも。
「ただの行きつけのバーなんだろ? どんなところだって、おまえが行くところなら、俺は行きたいよ」
「────哲」
「ダメなのか?」
「…………」
あたりまえのことのように、普通に、そんなことを哲は言う。
それは、理文の持っていない強さだ。
そこまで直球に言われたら、理文も本当に素直になって答えるしかなかった。電車の揺れを気にしたように顔をうつむけて、赤くなった頬を隠しながら、なんとか口を開く。
「ダメじゃないけど、恥ずかしい。……できれば、一緒に行きたくない」
「……わかった」
それから、駅に着くまでのわずかな時間、お互いに黙り込んだ。
……どうして、好きなだけじゃダメなのだろう。
どうして、好きなだけではうまくいかないのだろう。
最寄り駅について、二人黙したまま電車を降りた。理文が住み始めたころはまだ雑然とした昔ながらの駅前という感じだったが、近年の再開発で整備され、新しい商業施設もでき、夕暮れ時の駅前はよく賑わっている。さきほど話をしていた駅前の中華屋はその賑わいの向こう側にあったが、うっかり理文はそんな話題も忘れて、自然と逆方向になる自室マンションのほうに足を向けていた。
駅前の騒々しい商店街を抜けようとしたところで、あっと理文自身、我に返る。
「あ、忘れてた。夕飯、どうする?」
駅前に戻るか、この近くにある店で食べるか、近くのスーパーに寄ってなにか総菜を買っていくか。理文も哲もまったく料理をしないわけではないが、普段からこまめに自炊をしているわけでもないので、作るにしても食材をスーパーで買っていかなければならない。
たぶん外で食べていく気分じゃない。
「……なんか買って帰ろう」
案の定、哲がそう言って、帰り道の途中にあるスーパーで総菜を買っていくことになった。
そういう気持ちは本当によくわかりあっているのに。なにが好きか、今なにが食べたいか、ビールの気分か、ワインの気分か、それとも焼酎か。そんなことなら、言葉を交わすことなく通じ合えるのに。
お互い口数が少ないまま、夕食になる総菜をいくつか買いこんで、部屋に向かって歩き出す。
もう陽は沈み、すっかりと夜だった。
駅前の商店街を抜けて入り組んだ道を曲がれば、いっきに人気がなくなり、その先はもう静かな住宅街だ。公園のあるところやコンビニのある通りなら、もう少し行き交うひともいるのだろうが、理文の住まうマンションはちょうど住宅街のど真ん中だ。
少し気まずい帰り道だった。もともと理文は早足で歩くほうではなく、いつもはつい先を歩いてしまう哲についていくか、哲が理文に合わせて歩みを遅らせて横に並んでくれることが多いのに、今日は哲の歩みが遅く、理文より半歩後ろを歩いている。そのいつもと違う立ち位置が気になって仕方がない。
まだ怒ってるのかな。……怒ってなくても、不機嫌だ。
でも、どの件についてだろう。中野のことか、バーのことか。いや、全部ひっくるめて、俺のことあきれているのかな。
いつもみたいに隣に並んでくれたらいいのに。もっとそばにいてほしいのに。
──ただ、好きなだけなのに。
「理文」
そのとき、不意に哲が名前を呼んできて、理文は驚いて、一瞬足をとめかけた。呼び止めるような強さではなく、普通に会話を始めるようなさりげなさだったから、動揺したことを隠してなんとか歩き続けることに成功する。
「んー? なーにー?」
振り返らずに、いつもの軽い口調。
けれど、答えた哲の声は真面目だった。
「俺は、ときどき、おまえのことを無茶苦茶にしたくなるよ」
「──っ」
心臓が飛び出て、胃がひっくり返るかと理文は思った。思わず足が止まっている。だけど、わずかに後ろにいるはずの恋人を振り返れない。
同じく足を止めたらしい哲が後ろから声をかけてくる──静かで、ひたむきな声で、
「どこにも行けなくなるように、俺の手でおまえの羽をむしり取って、つなぎとめたくなる。おまえの余裕めいた態度をぶち壊して、ぐちゃぐちゃして、泣かせてやりたくなる」
なに言ってんの。なに言ってんの。なに言ってんの。
一気に身体が熱くなった。背中から首筋にかけてぞっとするような熱が駆けあがり、指先まで身体のすべてを強張らせる。
「……なあ、どうしたら、おまえは俺のものになる? どうしたら、俺はおまえを手に入れた気になれるんだろうな」
「────」
やばい、と理文は思った。
これ以上、そんなこと言われたら、爆発する。熱で膨張した気持ちが弾けてしまう。
「理文、俺は、おまえを──」
「っ」
さらに哲が言い募ろうとした言葉を最後まで聞かずに、理文は走り出していた。
最初のコメントを投稿しよう!