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《理文》
やばいなあ。なんかすごくやばい。
駅の改札を出たところで足を止めて、理文はぎゅっと奥歯を噛みしめた。空を仰ぎ、太陽の光が眩しくて目を眇める。
時間は十時四十五分。緊張のあまり、約束の十分以上も前に来てしまった。格好はいつもどおりで、服装には気合いは入れてない。いや、気合いを入れた服装にしないように気を配っている時点で、いつもどおりとはいえないかもしれない。まったく柄にもない。いまさら何をやっているのだろう、と自分でも思う。
手持無沙汰で理文はケータイを手の中で弄ぶ。SNSだの飲食店ガイドサイトなど適当にページをめくっていたが、中身はほとんど頭には入っていなかった。
と、そこに突然、ぽんっと大きな手が降ってきた。
「めずらしく早いな」
ハッと顔をあげた先に、三木哲の顔がある。頭の上に乗せられた大きな手がくしゃりと軽く髪をかき回してきて、うわっと身体の奥でなにかが飛び跳ねた。
付き合いの長い友人、長年の片思いの相手──現恋人が、理文を見て「よお」と笑う。
とっさに返す言葉につまりかけて、だが、理文はすぐに冷静さを引き戻した。なにを緊張しているんだ。今までだって何度も二人で出かけたことぐらいあるじゃないか。大体、今さら外デートに動揺しているなんて、哲には知られるわけにはいかない。
なにげないふうを装って、理文は哲に「ああ」と返した。
「なんか土曜なのに意外に電車の接続よくて。ていうか、哲も早いじゃん」
「俺はおまえと違って待ち合わせに遅れたりしねえの」
行こうぜ、と顎を上げるような仕草で促して、先に哲が歩き出す。連れだって歩きだしながら、なにそれ、と理文は思った。なにその慣れた感じ、なにそのいつもどおりみたいな感じ。
「ああ、俺、前売り買っておいたから」
なにその完璧なエスコート!
一挙手一投足にうろたえながら、理文はなるべく素知らぬ顔をしてみせた。
「サンキュー、あとで払うよ」
「別にそのくらいいいけど。まあ、じゃあ、ランチのときにでも」
笑いながら言う哲は本当に自然体だった。
明るい空の下、美術館に向かって歩きながら、理文は少しあきれた。今までの彼女にもこうだったのだろうか、と思う。普通にこういうことをナチュラルにされたら、女はイチコロだと思うんだけど。しかも、哲はそういうの全然分かっていないに違いない。
有名な美術館が広い公園に点在するエリアだけに、美術館に向かうまでの道はたくさんのひとが行き交っていた。家族連れ、カップル、老夫婦にツアー客らしい集団、学生らしきグループ……。これだけ人がいれば、男の二人連れも珍しくはない。
「おまえってさ、よくこういう美術展とか行くの」
「まあ、見たいものがあれば。でもこっちのほう来るのは久しぶりかも」
「いつもはどこらへん行くの」
「六本木とかかな。あそこも多いから、美術館関係」
「ふうん。ひとりで?」
「……まあ、たいがいは」
そんなありきたりの会話を交わしながら、理文はいまだに緊張から抜け出せないでいた。
友だち同士だったときは気にならなかったのに、今はこうして並んで歩いているだけで、人目がいやに気になった。そして、かつて付き合っていたころの城崎圭の気持ちがわかって、少しだけ反省する。
──本当に圭ってば自意識過剰だなあ。意外にひとってさ、他人のこと見てないよ?
よくまあ、そんなことが言えたものだ。
美術館に辿りつくと、入り口では少し行列ができていた。
「へえ、混んでるんだな」と美術鑑賞には慣れていないのか、哲がそんなことを洩らす。
「この程度は普通ぐらいだよ。フェルメールとかだとディズニーばりの行列になったりする」
「フェルメールって聞いたことあるな」
「人気だからね。っていうか美術に興味ないのに、なんで今日来たの」
「おまえが行きたいって言ったからだろ」
確かに一緒にテレビを見ていて、CMが流れてきたときについ「あ、これ、行きたいな」とは呟いたが、まさかそれで二人で出かけることになるとは思ってもいなかった。
「行きたいとは言ったけどさ、だからって無理して俺の趣味に合わせる必要はないんだよ?」
人の流れにのって館内に入り、しばらくして返事がないことに気がついて、理文は顔を上げた。そこにあったのは、なぜか哲の呆れたような、不満そうなしかめっ面だ。
「無理に合わせるとかじゃないだろ。おまえの行きたいところに行きたいって俺が思ったらいけないのか」
「────」
理文は一瞬どころか数秒、返す言葉を失っていた。
よく、そういうことを真顔で言える──。
つい顔が赤くなりそうになって、理文は慌てて肩をすくめるようにしてなにげなく哲から視線をそらした。それからすぐに意地の悪い笑みを浮かべて、いつもの自分を演出する。
「そのうち俺がものすごく変なところ行きたいって言い出しても知らないよ?」
「どういうとこだよ、それは」
「それは、まあ、ここでは言えないようなところ?」
「マジでやめろ」
と哲が本気で苦虫をかみつぶしたような顔をしたので、つい理文は笑っていた。
笑いながら、やばいなあ、と心の片隅で思う。すごく楽しい。どこかくすぐったくて、気恥ずかしくて、楽しいと思ってしまう。
展示室に入るときに、哲が言った。
「おまえ、ゆっくり見たいだろ。俺は好きに見てるから、気にするなよ」
「──分かった」
なんでもない顔で頷きながら、理文はずっと動揺を押し隠すに精いっぱいだった。
《理文》
一時間以上かけて、ゆっくりと展示を鑑賞し、ミュージアムショップでお気に入りの絵画の絵葉書を数枚買って、美術館を出た。
本当に哲は理文の鑑賞を好きなようにさせた。ひととおり絵画を鑑賞していたが、一点一点じっくり見るわけでもなく、先に先に行く。そこまで放置されると、理文も逆に哲のことを気遣わなくて済む。そのくせ、大きな展示室に理文が足を踏み入れ、気に入った絵画の前でしばらく足をとめていたら、いつのまにかそばに来て「それ、好きなのか」と声をかけてきて、頷いた理文に「そんな気がした」と笑いかけた。そして、またふらりと姿を消す。
これでときめくな、というほうが無理な話だ、と理文は思う。できることといえば、そういう感情を表に出さないことぐらいで。
「飯、どーするー?」
なるべく軽く、いつもどおりに声をかける。
「この間テレビでアメ横の安ウマめし紹介してたけど、覚えてないなあ」
「じゃあ、とりあえずそっちのほうに行ってみるか」
言葉を交わしながら、このあたりで一番賑わう商店街に向かって歩き始める。
さすがに都会随一の観光地で、しかも天気のいい秋の休日となると、賑わいもひときわだった。美術館のある公園から商店街に向かって下っていく坂の途中で、すでに尋常でない人の多さに気がついた理文はひそかに怯む。夜の遊びはいろいろしたし、そういう意味では世慣れてはいたが、一方で日中の観光地の混雑には慣れているとは言い難かった。
展示の話をしながら信号を渡って、一番賑わっている通りに突入する。前から歩いてくる人たちの身体をよけるたびに、哲の身体に軽く触れてしまい、理文はひそかにまごついた。
──前って、どんなふうに並んで歩いていたんだっけ?
今さらながら、彼と一緒にいる距離感が分からなくなって、少し距離を置こうとしたところに、すれ違う男の肩にぶつかって、理文は軽くよろめいた。
「おい、」
そこを、抜群の反射神経で哲が理文の肩を支えるように両手で受け止める。
「っ」
哲のその手の大きさと熱を感じた途端、とっさに理文は身体をひねって、手を振り払っていた。あっ、とその反応のまずさに理文もすぐに気がついて、ぱっと哲を振り返ると、いつもどおりのなんでもない顔を浮かべてみせた。
「ああ、ごめん。あまりの人ごみについ、ぼうっとしてて。次からは気をつけるから。本当にごめん。──あ、ねえ、そこの焼き肉定食とか、どう?」
けれど、そんなことに全然誤魔化されてくれないのが、哲だった。
「理文」
強い口調で名前を呼んで、急に腕を捕まえる。理文は驚いて、また一瞬、その腕を振りほどきかかった。
「おい、さっきからなんか変だぞ、おまえ。どうした」
「いや、別になにも。っていうか、腕──」
「ここから出よう。別に飯は離れたところでもいいだろう」
不機嫌そうに顔をしかめて、哲は理文の腕を掴んだまま、ぐいぐいと引っ張って通りから抜け出すように歩き出す。理文は慌てた。こんな人ごみの中で、男同士が手をつないで──正しくは手首を掴まれてだったが──歩くなんて、そんな目立つことは勘弁してほしい。
「いいけど、ちょっと腕、腕は離して」
「なんでだ。別にいいだろ」
「いや、でも、いい大人が手を引かれているのは、ちょっとどうかと──」
理文の提案を哲は採用しなかった。むしろさらに手首を掴む力を強めて、問答無用で哲は理文を連行するように、人ごみの中を歩いていく。自分が思っているほど周りが他人を気にしていないのはわかっていたが、それでも奇妙にいたたまれなくて、理文はそれ以上反論する唇を閉じ、顔をうつむけた。
無言で腕を引いてどんどんと足を進める哲は、全然コンパスの違いに気がついていないらしく、理文は半ば足をもつれさせながら、ふと目の前の大きな背中に目をやる。
──ああ、また怒らせちゃったかな。
それは今に始まったことじゃない。会うたびにいつだって、理文は哲を怒らせてばかりだ。もちろん以前はわざとそう仕向けていたわけだが、そういうつもりじゃなくても怒らせてしまうのだったら、本当は自分たちは相性が悪いんじゃないだろうか、と思ってしまう。
……いや、相性がいいなんて思うのがおこがましい。こんな付き合いは本当に天から降ってわいたような幸運でしかないのだから、自分はもっとそれを自覚すべきなのだ。
思いあがってはいけない。
理文は哲に気づかれないように静かに呼吸を整え、浮かれた気持ちを抑え込んだ。それから、哲が足を止めたら、どんなふうにいつものようにからかおうかと考えた。
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