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《哲》  理文は本当にくるくると印象が変わる。  しかも、一瞬、目を離した隙に。  駅から少し歩いたところにあった親子丼専門という店でテーブルを挟んでいる今、哲の目から見ても、理文はいつもの落ち着きを取り戻していた。ほんの少し前まで、妙にそわそわしていたくせに、だ。  今日の理文は待ち合わせの駅前でその姿を見つけたときから、少し様子がおかしかった。なにがどう、というのは哲自身もうまく説明できない。そもそも長い友人期間を経て、ついこの間から恋人同士として付き合うことになったが、今もなお理文のことをつかみきれている気がしなかった。……いや、つかみきれると思うのが間違いなのか。  目の前で箸を動かす恋人を、哲はふと見やった。  理文の食べるスピードは遅い。箸の持ち方はきれいだ。姿勢もいい。肘をついたりもしない。きっと親の育て方が丁寧だったのだろう、と哲は思う。  さきほどから会話は止まっていた。だが、長い付き合いで、お互いそうして無言になることはよくあるので、そのこと自体は特に気にはならなかった。 「──なに?」  視線に気がついた理文が少しだけ驚いた顔をして、問い返してくる。 「いや」  見とれていた、と言うのはやめておいた。 「えっ、哲、もう食べ終わってんの? 早っ。大盛りだったはずなのに」 「おまえはゆっくり食べろよ。早食いのくせっていうのはなかなか治らないよな」 「……俺が食べるの遅いのは自覚してる」 「いいから、ゆっくり食えって」  見てるから、と言うのも、哲はやめておいた。  理文はたぶん見られることがあまり好きじゃない。哲が見つめていることに気づくと、ときどきあからさまに顔をしかめることがあった。それから、わざと挑発するように、もしくは意地の悪い笑みを浮かべて、「俺が可愛いからってそんなに見つめんなよ」とか「やりたくなった?」と言い放つ。それで今度は哲のほうが顔をしかめることになる。  露悪的、というべきなのか、理文は自分を軽薄で奔放で自分勝手な人間のように見せることが多かった。……どこまで真実にそうなのか、哲もよくわかっていないが。  かつて哲は彼の挑発、揶揄、告白をすべて本当のことだと思っていた。  頻繁に変わるカレシの話やゲイバーで起こった話など、聞きたくもないのに哲に話してきて、哲の説教に肩をすくませ、まるでおまえにはそんなこと言う資格はないのだと言わんばかりに超然と理文は微笑む。そのたびに哲は身のうちにどうしようもなく激しい苛立ちを感じていた。なぜ、おまえはそうなんだ。どうして、そんなふうに自分に優しくしないんだ。もっとなにかあるだろう。もっと、ごく普通に穏やかに幸せに生きる方法が。  ──おまえは俺を好きにならない。絶対に好きにならない。  ──俺はおまえの望むようにはなれないんだ。  病室で血を吐くような理文の告白を聞いたとき、本当は違うのかもしれない、と初めて哲は思った。わざとそんなふうに見せつけてきたのかもしれない。嘘をついていないとしても、態度や言葉の端々ににじませた軽薄さは本物ではなかったのかもしれない。  ……たとえば、今日待ち合わせであったときのわずかなはにかみ、美術館で絵画を見つめる横顔の真摯さ、横に並んだときの奇妙な緊張感、思わず掴んだ腕の熱さ。  そうだ、本当の理文は、もっと──。 「そういえば、哲さ、最近また中野から連絡なかった?」  ふと理文のほうから声をかけてきて、哲は顔をあげた。 「ほら、新居に遊びに来い的な」 「ああ、あったな。……俺の愛の巣に来ないとは何事だ的な」  よく言うよな、と理文が笑う。 「愛の巣って奥さんはどう思ってんのって訊いたら、〝巣づくりは男の役割〟って言われて掃除は中野担当になったって。あれは中野が奥さんに転がされて喜んでるんだよな、絶対」 「いいバランスだよ、あの夫婦」  結婚式で会った中野の結婚相手は一見してクールで落ち着いていて、大人びているように見せかけて、どうやら妙にいたずら好きで、笑い好きのようだった。テンションの高い中野に冷たくツッコミを入れたり、真顔で冗談を言って、中野を翻弄して楽しんでいる。傍から見ていても、それがうまくかみ合っていて、仲の良さがよく伝わってきていた。友人として、それはとても喜ばしいことだと思う。 「行くなら一緒に行こうぜ。俺はあの夫婦とひとりで対応しきれる気がしない」  付け合わせの漬けものに箸を伸ばしている途中で、理文が視線をあげる。それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「俺としては、愛の巣に捕まって困惑する哲を見るのも楽しそうだけど」 「……一緒に行かなきゃ、そんな俺も見られないだろうが」  それもそうだ、と肩をすくめて笑う。  そのとき、不意に哲の胸にひとつの考えが忍び込んだ。……いや、本当はずっと思っていたことなのだ。だが、それを言う機会が今までなかったのだ。 《哲》  なあ、と哲は目の前の恋人に声をかけた。 「中野には言ってもいいんじゃないのか」  理文の動きが止まった。まるで、その一瞬の動揺を押し隠すように、すぐに流れるような手つきで箸を置き、冷たいお茶の入った湯呑に手を伸ばす。顔はあげなかった。 「言うってなにを」 「俺たちのことをだ」 「俺たちのこと?」  問い返してきたのはたぶんわざとだった。こんなところでなにを言っているの、という牽制。そういう冷静さが理文にはある。 「……嫌なのか?」  尋ねられたこととは違う応えを哲は返した。理文はゆっくりと湯呑のお茶を口に含み、飲み込み、それからようやく眼差しを上げた。 「言わなくても、別にいいんじゃないの。今までどおり、俺たちが中野の友だちであることは変わらないんだし」 「言いたくないのか。……言ったら、中野の態度が変わると思っているのか?」 「まさか! そんなこと思ってないよ」 「だったら、言ってもいいだろう」 「……哲」  急に理文はまた余裕をなくした。同時にすっと理文が離れていくような感じがして、哲もまた苛立ちが胸に湧くのを感じた。  ──そうだ。  こいつは俺が一歩近づくと、同じ分だけ離れようとする。 「理文、なにが嫌なんだ?」  問いかけにはほとんど詰問と言っていいような強さがにじんだ。 「中野に知られたくない理由でもあるのか。それとも相手が俺だから言いたくないのか」 「そんな、そういうことじゃなくて」 「そういうことじゃなくて、なんなんだ」  理文は職場では自分がゲイであることを隠していないらしい。当然ゲイバーではなにもかもが明らかだ。  哲も別にだれかれかまわず話せばいいと思っているわけではない。世の中に偏見が存在していることは知っている。そうした告白をいいように思わない人もいっぱいいるだろう。だが、中野は親友だ。ずっと三人で仲が良かった仲間だ。たびたび起こる哲と理文の仲違いに心を痛めてきた友人だ。哲は彼には言いたかった。 「……少し、考えさせて」  理文が困惑の中から絞り出すようにそう言って、また箸を持ち上げた。そんな頼りなげな返事に、哲もそれ以上ここで追及する気にはならなくて頷く。話はそれで止まった。  少し前のものとは違う沈黙だった。……気まずくなりたかったわけじゃない。手持ち無沙汰に湯呑に手を伸ばしながら、哲は自分の中でうずまく苛立ちをもてあました。その熱い感情はむしろ自分に向けられたものだ。  ──俺は自分勝手なことを言っている。  その自覚はあった。  もともと彼がゲイだということは旧友たちの中で哲だけが知っていた。同じように親しかったはずの中野はずっと知らされていなかった。なぜ中野に言わないのか、と思ったことは何度もある。だが、前まではさほど気にはしていなかった。  自分だけが知っている。自分だけが知っていればいい。  他のだれにも知られたくない。  それは、理文が同級生たちにゲイだと告白して受けるかもしれない偏見の眼差しや下世話な勘ぐりから理文を守りたかったのだ、と自分では思っていた。だが、今ならわかる。本当はそれだけではなかった。そこには間違いなく独占欲があった。理文の軽薄さや冗談を真に受けて、下世話なやつらに理文のプライベートを想像されることが嫌だった。自分が想像したようなことを、誰かに想像されるのがたまらなく嫌だった。  ……わかっている。下世話なのは自分で、偏見のかたまりなのも自分だ。  哲にとって、理文は蝶だった。  美しく、手の届かない存在。  もし、蝶のように自由な男が花から花へと移っていくなら──もし、数多くの女性と付き合い、浮名を流すのなら、たぶん許せたのだろうと思う。自分と同じ男が理文の自由を、たとえ一時でも奪っているのだと考えただけで腹がたった。誰かが理文を捕らえ、組み伏しているのだと想像するだけで、どうしようもなく苛立った。  ひるがえせば、それはつまり、自分がそうしたかったということだ。  俺自身がこの男が欲しかった。この男の自由を奪いたかった。  今こそ、哲はその蝶を手に入れたはずだった。この手でその身体も抱いた。……なのに、まだ足りない。まだ、彼を手に入れた気にならない。  その焦燥が親友に宣言したがっているのだ。……だが、中野に二人の仲を告白したところで、この胸をざわつかせる熱い感情が収まるとも思えない。  どうしたらいい。  どうしたら、おまえを手に入れられる?  哲にはわからなかった。
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