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《哲》 「──理文!」  まさか突然逃げ出されると思わず、一瞬怯んでから、慌てて哲は走り出した恋人を追いかけた。理文の部屋のほんの近くまで来ていたから、追いつくより先に理文がマンションに飛び込んでしまう。オートロックマンションでなかったのは幸運だった。 「理文、おい、待てって」  たぶん普通のときであれば、追いつくことはわけもなかった。だが、哲はスーパーで買った総菜を手にしていて、こんなときでさえつい振り回さないようにすべきだという理性が働き、全力疾走できずに理文に遅れてマンションに入った。部屋は二階で、いつもはのんびりしている理文が階段を駆け上がっていく姿を後ろから見やり、呆れ半分苛立ち半分で追いかける。  部屋の扉が閉まる間際に追いついた。 「理文!」  玄関先で恋人を捕まえて、結局、哲は総菜の入ったビニール袋を床に乱暴に放り出していた。空いた両腕で理文の肩を掴んで、勢い、玄関横の壁に押し付けるように捕らえていた。  理文は逃げたそうに身体をよじったが、暴れなかった。下を向いて、顔が見えない。 「なに逃げてんだよ!」 「……って、哲が」  あまりに小さく頼りない声がそんなふうに呟いて、哲はムッとした。 「俺がなんだよ。つーか、なんでおまえは俺がなんか言うたび、逃げるんだよ」 「だって、哲が、あんなこと言うから、へ、平気でいられるわけないだろ!」 「あ? あんなことって──……理文?」  そのとき初めて哲は両手で捕らえた理文の身体の熱さに気がついた。うつむき、襟足のやや長い髪の毛が流れて露わになった首筋が赤く染まっている。  よく見たら、わずかに見える頬も赤い。  カッと胃の奥が熱くなるのを哲は自覚した。顔も見えないのに、ただ両手で肩を掴んでいるだけなのに、なぜか腕の中の恋人が異様に艶めいて見える。ほとんど無意識に哲は手を伸ばし、理文の後ろ髪に指を絡めていた。……顔が見たい。その艶の正体を暴きたい。  急くような思いで、撫でるように髪をかきあげ、顔をあげるように促す。戸惑うような間があり、やがて恐る恐るといった具合で、理文がゆっくりと顔をあげた。  熱に潤んだ目、上気した頬、なにかを訴えようと唇は半端に開いて──。 「────」  瞬間、哲は理文の後ろ髪を掴んで強引に唇を重ね合わせていた。  ──欲しい。理文が欲しい。欲しくてたまらない。  欲求が一気に跳ね上がり、まるで飢えを満たすような性急さで唇を食む。すぐに舌を差し込んで濃厚に絡ませ、きつく吸い上げた。 「っ、んっ、あきら、なに……っ」  キスの合間に喘ぎ、身じろぐ理文の身体を両腕で抱きしめると、ほんのかすかな抗いは腕の中ですぐに力を失っていった。  抱きしめる腕を少し動かすだけで、理文の身体はびくびくと震える。  敏感な身体だ。……敏感で、エロくて、いやらしい身体。 「ン、ふ、……ぁっ」  やがてキスで身体の力が抜けたのか、くたりと理文がその身を完全に預けてきた。思うさま理文の口腔を味わい、なお満たされない名残惜しさを感じながら、哲は唇を離した。  理文のとろけた目が力なく見上げてくる。 「っ」  とっさに湧きあがった熱い感情を抑えきれず、クソッとうめいて、哲は再び恋人の身体を強くかき抱いていた。 「あ、きら?」  戸惑う恋人の肩口に額を押しあてて、唇を噛みしめる。  そうしなければ、本当にまた声を荒げ、乱暴にしてしまいそうだった。……そういう激情が自分の中にある。どうしようもなく自分勝手で、嫉妬深く、激しい感情が。  だが、それを理文にぶつけるのは間違っている。 「……悪い」  なんとかして身の内を焦がすような熱く暗い感情を押しとどめ、哲は顔をあげた。 「おまえ相手になるといろいろ見境がなくなるな。乱暴にしたいわけじゃないんだ。傷つけたいと思っているわけじゃない。俺はただ──」  ただ、おまえが欲しいだけだ。  その言葉に理文は不思議そうな顔をした。密着した身体を離そうとした哲を引きとめるようにシャツを掴んで、口を開く。 「なんで。俺は哲のものだよ」  ああ、と哲は頷いた。わかっている。もちろん理文は自分のものだ。  そうして手に入れたからこそ、不安になるのだ。  過去は変えられない。十年近く自分の感情から目を背け、腹の奥でうずまく熱を苛立ちに変えて、ずっと傷つけてきた過去は消えない。その間に理文が誰と付き合い、どんなことをしてきたか──そのすべてに嫉妬をしても、どうしようもない。自らのせいで逃してしまったものを欲してもしかたがない。わかっている。  だからこそ、証が欲しい。今この恋人が間違いなく自分だけのものだという証が。これからもずっと自分のものであるという証が。 「そうだよ、理文。おまえは俺のものだよ。……でも、なら、どうしておまえは俺のことを周りに隠そうするんだ?」 「────」  不意を突かれたように、ハッと理文は息を飲んだ。 「男同士でいろいろ難しいことがあるのはわかっている。だれにでも言えばいいことじゃないのもよくわかっている。だけど、俺はおまえが俺のものだという証が欲しい。証明が欲しい」  苦しく言葉を吐き出しながら、みっともない真似をしているな、と哲は自分でも思った。他人への宣言を欲するなんて、自分の自信のなさを無様にさらけ出しているだけだ。  それでも、問わずにはいられない。 「なあ、俺は、そんな、だれにも紹介できないような恋人なのか……?」 《理文》 「そんなこと……!」  理文は絶句した。  そして、とても信じられないような気持ちになった。  哲を恋人としてだれかに紹介するなんて、想像をしたこともなかった。……ずっと好きだったのは自分のほうだ。ひたむきといえば聞こえはいいが、執拗に隠れて想い続けながら、実際には他に恋人をつくってむなしさを埋めてきた。妄想の中で、哲の身体に触れることはあっても、恋人同士になることはなかった。報われることなんて絶対にないと思っていたから。ありえないことだと思っていたから。  ──哲をだれにも紹介できない?  そんなふうに哲が思うことになるなんて、それこそ思ってもみなかった。 「なに言ってるの。なんで、そんな。そんなこと、あるわけないだろ。哲がどうとか、そういうことあるわけないじゃない」 「だったら、なんで──」  どうして中野に打ち明けたり、バーに紹介したりできないのか。  全部言わなくても哲がなにを訊こうとしたのかすぐにわかって、理文はぞくぞくと身体が震えるのを感じた。……だって、そんなの、ものすごく恥ずかしいじゃないか!  また顔が真っ赤になるのを感じて、慌てて理文はうつむいた。でも、さっきからずっと哲の腕の中で、きっと身体が熱くなっているのはすぐに気づかれる。それに、この頑なな恋人は理文が誤魔化したり、はぐらかそうとしても絶対に気づいて咎めるはずだった。  顔が熱いのはなかなか収まらない。 「……恥ずかしい、から」 「恥ずかしい?」  呟いた途端におうむ返しにされた。それで、いっそう恥ずかしさが増す。逃げ出したくなったけれど、玄関先で恋人の腕の中だなんてどこにも逃げ場はなく、理文はうつむいたまま哲の胸元のシャツをきゅっと掴んだ。 「そんなの、恥ずかしいに決まってるだろ! 俺、すごい浮かれてんだもん。一緒にいるだけで、なんか哲とこと好きだって周りにばれちゃう気がするし。こんなんで中野とかに会うなんて無理だよ。恥ずかしいよ」  まさか恋人同士になれるなんて思っていなかった。デートをするようになるなんて、一緒に同じ部屋に帰ってごはんを食べて、キスをするようになるなんて、思ってもいなかった。  好きな相手と一緒にいるなんて、本当に初めてなのだ。  今でも信じられない気がする。自分でもどうしたらいいかわからないでいる。 「……でも、おまえ、あのバーに元彼かなんかがいたじゃないか」 「それは──」  哲の低い声で痛いところを突かれて、ぎゅっと心臓が掴まれるように痛む。  今まで理文はいろんな人と付き合ってきたし、それを嫌がらせのように哲にはあけすけに伝えてきた。だから、疑われても仕方がない。わかっている。どれだけ言葉を尽くしても、過去を消すことはできない。  ぎゅっとシャツを握っていた拳を理文はほどいた。  ……だからこそ、きちんと自覚するべきなのだ。自分はもっときちんと、逃げないでまっすぐに哲と向きあわなくちゃいけないということを。 「それは、そう言いたくなるのはわかるけど。でも、前も言ったけど、俺、好きな相手と付き合うのは初めてだから。今までのどんな相手とも哲は違うから。……俺は今まで、だれかのものになりたいなんて思ったことない。つなぎとめられたいと思ったこともないから」  自分の言おうとしていることが恥ずかしくて、哲と目を合わせるのに胃が震えそうなほど緊張したけれど、理文は哲と正面から向き合って、まっすぐに見つめてくる瞳を見返した。 「でも、俺、哲になら、なにされてもいい。乱暴にされても、むちゃくちゃにされてもいい」 「────」  哲が目を見開く。  馬鹿なことを言っている自覚はあったけれど、理文はうつむきたいのを我慢して、唖然とした顔で見下ろしてくる恋人を見つめ返した。  馬鹿なことだけど、本当のことだ。哲の言葉に、声に、眼差しに、呼吸に、どこか獰猛な気配がまじるだけで、理文はぞくぞくする。そこに哲の欲望を感じる。独占欲を感じる。暴力的なほどに彼に欲されていることに、理文もまたたまらない欲望を覚える。  そんな理文の中の欲望を見透かすように、哲が目を細めた。  指がのびて、一瞬、理文の頬にふれかけて──突然、その手が理文の後ろ首を掴んで、強く抱き寄せてきた。 「くそっ、おまえは本当に俺を煽るしかしないな!」  罵るような声とほぼ同時に、理文は哲の腕の中に包まれている。その力強くて熱い抱擁にドッと心臓が音を立てて、身体の奥に火が灯る。内側から急き立てて、燃える欲望の炎だ。 「……悪い。少しだけ、このままでいいか」  低い声が耳元で囁いた。 「え?」 「少し落ち着かないと、手加減できなさそうだ」  手加減なんて。そんな熱っぽくかすれた声で囁いてきて興奮しないわけがないのに、煽ってるのはどっちだよ! と理文は言い返しそうになった。  ……俺っていつのまにこんな変態になっちゃったんだろう。今までも束縛系の彼氏がいなかったわけじゃなかったけれど、そういう相手とはたいがいすぐに別れてきた。だれかに縛られるのは嫌だった。なのに、哲には無茶苦茶にされたいなんて思っている。少しくらい乱暴にしていいから、もっと求めてほしいと思っている。  もっとさわってほしい。こんな布越しじゃなくて、生身の肌を感じたい。──お願いだから。  そのとき、ふっと哲が熱い吐息をもらした。 「……ああ、おまえが誰ともしていないようなことをしたいな」 「っ」  思いがけない言葉に、たまらず理文は哲の背中にしがみついていた。理文のその反応に、すぐに哲が苦笑をもらす。 「本当に、俺、なに言ってんだろうな。自分でもこんなにこだわる男だとは思ってなかったよ。でも、どんなことでもいい、なにか俺だけのものが欲しいと思ってしまう」  哲だけのもの。もちろん心はずっと哲だけのものだったけれど。彼が求めているのは、きっと心ではなくて、もっと目に見えるなにかだ。証明できる、なにか。 「────あ」  不意に気づくことがあって、理文は息を飲む。でも、さすがに言いにくい。理文は顔をうつむかせて哲の肩に顔をうずめた。 「……あの、でも、な、生は、はじめてだったよ……」  反応はすぐには返ってこなかった。  と、急に肩を掴んで、がばりと哲が身体を離す。 「──は? だって、おまえ、あんなに慣れてて」  わざわざ顔を見るなよ、と思ったけれど、真っ赤にした顔で理文は言い返した。 「俺は! 病気には絶対かかりたくなかったし、さすがにそんなことしたら、おまえに絶縁されそうな気がしていたし、だから、そりゃハッテンバで男を探したことはあるし、経験人数は多いほうだとも思うけど、フリーセックスはしてないし、複数プレイもしてないし、変なクスリも使って意識なくしたことないし、生でしたこともないよ!」 「……じゃあ、あのとき」 「あ、あのときは──余裕なかったし。哲なら、哲なら、ほしいって──」  初めての日以来、数回身体を重ねたけれどもゴムはつけていた。用意したのは理文で、それは結局のところ事後の問題を防ぐための、ごく大人な判断によるものだ。……終わったあとにきれいにしなきゃいけないとか、生々しすぎて雰囲気を壊しそうだったし、そういう面倒を哲に負わせたくなくて。 「……はじめて?」 「中、……されたの、はじめてだった、よ」  二人ともすでに声が興奮にかすれていた。いつのまにか腰を抱いた哲の手のひらがシャツをかきあげている。同じように理文の手もすがるように哲のシャツを掴んでいる、 「一応怪我したとき、ついでだし、いろいろ検査もしたから大丈夫」 「……大丈夫?」 「だから、生でも大丈夫だって……こと」 「────っ」  その先はもう言葉もなかった。  お互いに手を伸ばし合い、熱を求め合い、唇を奪い合う。ベッドに行くのももどかしく、その場で服を脱がし合い、肌を触れ合わせる。  ……手加減はなかった。
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