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〈だんご宝船堂〉の非日常
1
陽光の気配。本日の空模様と、各地の花の便りを伝えるニュースの声。
瞼を擦り、大きく鼻で息を吸って新鮮な空気を体全体に巡らせると、重たい身体を無理やりベッドから引きはがす。焼けたトーストとバターの香りが、電池の切れた目覚まし時計の代わりに朝の訪れを知らせている。
織坂希春は慌てて部屋のカーテンを開け、朝の陽光を一身に浴びる。窓ガラスに映った彼女は今日から高校生になるというのに、寝癖で右耳の後ろの一束がぴょんと跳ねており、緊張感がまるで感じられない。
「やばっ、もう最悪じゃん」
そう呟くと希春はパジャマを脱ぎ捨てて、壁に掛けていたネイビーの制服に袖を通す。肩にかかる自慢の艶やかな髪を手櫛で梳きながら自室を飛び出し、リビングに駆け込むと、朝食の香りがより濃密になって鼻腔へ流れ込んできた。
「ちょっとお母さん! なんで起こしてくれなかったの! 初日から遅刻なんてしたら笑えないんだけど」
開口一番、母親に文句を垂れると、テーブルに用意されたトーストに母御手製のとびっきり甘い卵焼きを載せてかじりつく。希春は幼い頃から、母の卵焼きをトーストに載せて食べるのが大好きだ。
さりげなく自分の好きな食べ合わせが用意されていることに気づき、希春の中の母に対する怒りの炎がみるみる小さくなっていく。
「今日から高校生なんだから、ちゃんと自分で起きなさいよ」
キッチンから、母が言う。そんな母の忠告を聞き流しながら、希春は即席のたまごサンドを急いでほお張り、カップに注がれた牛乳を胃袋に流しこむと、ごちそうさまの言葉もそこそこに洗面所へ向かい、ヘアスプレーで寝癖を整える。
「じゃあお母さん。行ってくるね!」
リビングに声を飛ばすと、自室の前に置いておいた学生鞄を掴んで玄関に行く。光沢を帯びた新品のローファーに足を入れると、自分が今日から高校生になるという実感が、少しずつ湧き起こる。
両足のかかとがぴったりと靴に収まったところで、希春は父の革靴が見当たらないことに気が付いた。
「お母さん、もうお父さん仕事行っちゃったの?」
玄関から声を張って母に訊ねると、食器と食器が擦れ合う音とともに、母の声が玄関に届いてくる。
「最近忙しいみたいで、もう行っちゃったよ。――今朝、『希春の入学式行きたかったな』ってボソボソ言ってた」
言い終わるや否や、リビングからパタパタとスリッパの音が近づいてきた。希春がおもむろに振り返ると、エプロンで手の水気をふき取りながら、母がにっこりと笑って佇んでいるのが目に入る。
「うん。かわいいぞ希春! さすがはママの子だなぁ」
「はいはい。――お母さん、入学式だけど……」
「九時からでしょ? ちゃんと行くから、心配しないの」
「ありがと。行ってきます」
玄関の扉を開く。新しい一日が始まる。希望と緊張が綯い交ぜになった感覚で、心臓が普段より大きく脈打っているのが分かる。
――大丈夫。今までは人見知りのせいで、ろくに友達もできなかったけど、わたしも今日から高校生。高校生活は、きっと素敵なものにしてみせる!
希春は、自身の胸元を飾る制服のリボンを弄りながら、生まれ変わったような気持ちで歩き出す。
四月九日、金曜日。
織坂希春は、今日から瑠璃ヶ丘高校の一年生になる女の子である。
ここ、瑠璃ヶ丘町は市街地と山岳のちょうど中間地点にあり、主に住宅街やアーケード商店街で構成されている。大きなショッピングモールや商業施設は、区画整理の際に市街地の方にこれでもかと建設されたため、瑠璃ヶ丘町に住む人たちは都市再開発のいざこざに巻き込まれることなく穏やかに暮らしている。
休日になると、若者たちの中には瑠璃ヶ丘駅から電車に乗って、市街地に遊びに出る人も多くいるが、多くの住民たちは瑠璃ヶ丘商店街で交流を楽しんでおり、商店街はコミュニティの形成に一役買っている。
希春はこの瑠璃ヶ丘商店街が大好きだ。小さなころから母や祖母に連れられて、よく買い物に来ていた。肉屋さんに行けば、ガラスケースに並ぶ大きな肉のブロックを指差して、ステーキが食べたいと駄々をこね、ケーキ屋さんの前を通れば、はためく幟にプリントされた新作のモンブランが食べたい、と泣いて頼んだりしたこともあった。病めるときも健やかなるときも、商店街はいつでも希春のそばにあった。すべてではないにしろ、希春は商店街での思い出を比較的鮮明に憶えている。幼い頃の希春にとって瑠璃ヶ丘商店街は、おもちゃ箱のようにワクワクする場所だったのだ。
そしてその感情は、今でも変わらず希春の中にある。そのため、初登校で緊張している彼女の足が通学路として商店街を選ぶのは、ごく自然なことであった。
町の中央にある瑠璃ヶ丘駅の正面から、真っすぐ北に伸びる瑠璃ヶ丘商店街。杉の幹のような大通りの両脇に、枝のように細い路が複数伸びており、大通りの高いアーチ天井には隙間なく磨りガラスが嵌められている。大通りにはカフェ、魚屋、肉屋、八百屋、床屋、居酒屋など大衆向けの店舗が並んでおり、アーチ天井のない小路の方には刃物屋、古書店、骨董屋、アトリエなど、普段はだれが利用しているのかわからないような店が軒を連ねている。
「――あら、希春ちゃん! もしかして、今日から高校生?」
そんな商店街の北側の入口、〈瑠璃ヶ丘商店街〉と書かれた、コバルトブルーのタイル装飾が美しいアーチ看板をくぐったところで、慈愛に満ちた女性の声が希春の耳に届く。
声の方に視線を移すと、〈昭和三十五年創業 だんご宝船堂〉と書かれた年季の入った看板と利用客のための小さな木のベンチ。暖簾とショーケースだけの簡素な店舗。その中では、一人の優しそうな老婆が、団子が陳列されているショーケースの奥で手を振っている。
「おはよう、おばあちゃん」と言いながら希春はスカートの裾をチョンと持ち上げる。
「えへへ、そうなんだ! 今日入学式なの」
〈だんご宝船堂〉の店主、外薗美代子は希春をじっくり眺めると相好を崩す。
「はぁ、時が経つのは早いねぇ。希春ちゃん、この前までこんなに小さな小学生だったのにねぇ」
団子屋の店主は、希春には見えない豆粒のようなものを親指と人差し指でつまむような仕草をしながら言う。
「おばあちゃん、いつの話してるの? 小学生なんてもう四年も前のことだよ」
「この年になると、四年前も一週間前もおんなじだよ」
「そういうセリフ、うちのおばあちゃんも言ってるけど、アレって冗談じゃないんだ」
「冗談なもんかね。希春ちゃんもばあちゃんくらいの歳になったらわかるよ」
「そうかなぁ。――やばい、おばあちゃん今何時?」
「今かい? ――八時十五分を回ったところだよ」
「大変! 八時半までに高校に着かないといけないの。行ってきます」
そう言うと、希春は「気を付けてね」という〈だんご宝船堂〉店主の言葉を背に受けながら、団子屋に大きく手を振って、商店街の大通りを駆けだす。
幼い頃からこの商店街を愛してきた希春にとって、ここの商店街のみんなは家族のようなものである。そのマインドの影響なのか、希春が商店街の人たちに人見知りを発動することはない。内弁慶の希春にとって、瑠璃ヶ丘商店街の人々は外ではなく内なのだ。
顔馴染みと言葉を交わし、心と足取りが軽くなった希春は、商店街の大通りを駅の方角へ駆けて行き、途中で西に曲がって新たな学び舎を目指す。
商店街の脇道を進むと、〈朝陽金物店〉、〈古書カフェ Marque-Page〉、〈山下文具店〉など、あまり馴染みのない店の看板が見えてくる。それらを横目に見ながらしばらく歩くと、希春が今日から三年間通う瑠璃ヶ丘高校が見えてくる。
正門に近づくと、新入生を歓迎するように花紙で飾られた〈瑠璃ヶ丘高校 祝入学式〉の立て看板が正門の左側に設置されており、入学式を前に記念写真を撮影している家族の姿がある。
――お母さんが来たら、私も後で撮ってもらおっと。
ほほえましい光景を尻目に、希春が正門を抜けようとすると、看板とは反対側の方に一人の女子生徒が佇んでいるのが目に入る。
背中まで流れる癖のない黒髪と、臙脂色をしたフレームの眼鏡が印象的で、パッと見はおとなしそうな感じだが、顔自体は華やかな女の子だ。この高校に通う生徒は、それぞれの学年を示す徽章を胸元に着けているはずだが、彼女の制服にはそれがない。どうやら、希春と同じ新入生のようだ。
女子生徒は入学式というめでたい日にも関わらず、どこか浮かない顔をしている。というより、不機嫌そうな顔をしていると言った方が正確かもしれない。
こういう時、積極的な子なら話しかけるんだろうな、と頭の中で想像しながらも、希春はなかなか行動に移せない。
今話しかけても、クラスが分かれたらもう関わることもないかもしれない。急に話しかけて、変な人だと思われたらどうしよう。馴れ馴れしいやつだと思われたらどうしよう。どうしよう。どうしよう。――どうしよう。
どれほど迷っても、時は無慈悲に、平等に過ぎ去っていく。希春の逡巡をよそに、女子生徒は何かを諦めるように俯いて、体育館の方に向かって行ってしまった。
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