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体育館の正面に据え付けられたスピーカーから、入学式の閉幕を知らせるアナウンスが流れると、会場内は凪いでいた海に嵐が訪れたようにざわつき始めた。
入学式は滞りなく幕を閉じた。が、希春は式の途中、ずっと心ここにあらずといった様子で、先ほど正門にいた不機嫌そうな女子生徒のことを考えていた。
あの子はなぜあんなに浮かない顔をしていたのだろう。単に緊張していた、で片づけられるような雰囲気ではなかった。
他人の心配をしている場合ではないのは分かっている。高校生としての三年間、二度と返ってこない青春の日々をどのように過ごすか、誰と同じ時間を共有するのか、それを今日という日が決定づけるかもしれない。希春はすでに高校生活のスタートラインに立たされている。まもなく号砲が鳴るという時に、隣のレーンにいる他人の心配をしていては出遅れてしまう。
――もう考えてもしょうがないか……。
パイプ椅子の軋む音が、少しずつ大きくなる。皺一つないネイビーの制服に身を包んだ新入生たちが、ざわざわと体育館の玄関へ向かって流れていき、通路に人の河が氾濫した。
思考を停止させ、希春も体育館を出ようと人の流れに従っていると、保護者席の後方で制服の袖を優しく引っ張られる。顔を向けると、ピピッという音が鳴り、デジタルカメラのシャッターが切られる。
希春は頬を紅潮させ、小声で撮影者に抗議する。
「お母さん! 恥ずかしいからやめてよ」
母は悪戯っ子のように舌を出して、ニコニコしながら「ごめんごめん!」と形ばかりの謝罪をする。期待、希望、緊張、不安、プラスもマイナスも、すべてがどうでもよくなるくらい、屈託のない笑みだった。
母の笑顔に背中を押されて屋外に出ると、暖かさを含んだ春風が頬を撫でる。優しさに似た温もりが心地いい。
クラス分けが記載された一覧表を探すために視線を泳がせると、体育館の左手、校舎との間に簡易的な掲示板が設置され、そこに人だかりができていた。
高校入試の合格発表の日を思い出しながら、希春は人だかりの外周に張り付いて、懸命に自分の名前を探す。
――織坂……。織坂……。あ、あった!
一年A組のところに、希春の名前はあった。掲示板にはA組からF組まで、計六クラス分のクラス分けが貼り出されていたが、五十音順に並んだ表をA組から順に見て行ったことで、希春は運よく自分の名前を簡単に見つけることができた。
正面玄関に移動し、下駄箱の空いているスペースにローファーを収納して上履きに履き替えると、左右に伸びる長い廊下が目に入った。各教室の扉の上には、クラスを示すプラスチックの小さな板が取り付けられている。一年A組は校舎一階の隅にあるようだ。
C組、B組の横を通り抜け、自分のクラスの前に立つ。緊張が高まる。
――今日からわたしは、変わるんだ。
スライド式の扉を開け、一歩目を踏み出す。教室は広々としており、正面と後方の二か所に大きな黒板が設置されている。正面の黒板に『ご入学おめでとうございます』の文言とクラス名簿、そしてそれぞれの座席が示された藁半紙がマグネットで貼り付けられている。
人の視線を集めたくない希春は、黒板に近づくと手早く自分の座席を確認し、そそくさと教室の正面から退いて自分の席を目指す。廊下側の前から四番目、自分の座席に腰を落ち着けようとしたところで、希春はぎょっとする。
あの子がいる。
正門で不機嫌そうにしていた、あの女子生徒が自分の後ろの座席に座り、来週からの日程表を無表情で眺めている。今朝のようなどこか浮かない表情は消え、今の彼女からは何の感情も読み取ることができない。
まさか同じクラスになるとは……。
そんなことを考えていると、彼女は希春が自分を観察していることに気が付いたらしく、おもむろに顔を上げる。視線がぶつかり、希春は思わず「あっ!」と声を上げてしまう。何か話さないと、という焦りで口が勝手に話し出す。
「あっ、あの、わたし、織坂希春っていいます。瑠璃ヶ丘中出身です。よっ、よろしくお願いします」
数瞬の沈黙が降りる。『よろしくお願いします』と同時に下げた頭が上げられない。
出だしからミスしちゃったかな。勝手にしゃべりだして、何やってるんだろう。
そんなことを考えながら、おそるおそる視線を上げると、彼女は胸元を流れる綺麗な黒髪を右手でいじりながら口を開く。
「鏑木緋奈。あのさ――」
彼女は華やかな顔つきに似合うクールな声で自己紹介をして、一度言葉を切る。何を言われるのだろう、と希春は思わず身構える。
「どうして敬語なの? 同級生ならタメ口でいいと思うんだけど」
「へっ?」
「いや、だから、同級生なんだからタメ口でいいでしょ。なんで敬語を遣うの?」
そう言うと鏑木緋奈は、今朝のような浮かない顔でも、先ほどの氷のように冷たい無表情でもなく、きょとんと首をかしげて真っすぐな視線を希春にぶつける。
――万華鏡みたいな子だなぁ。こんな表情もあるんだ……。
「あ、えっと、初対面だから失礼のないように敬語がいいかなと思って」
「ふーん」緋奈は手に持っていた日程表を丁寧に折りたたみ、机の上に置くと「律儀なんだね」と続けて、希春に優しい微笑みを向ける。
カシャリ。また彼女の表情は、その色を変える。
希春は俄然、今朝のことが気になってきた。出会ったばかりだけど、緋奈が自分の感情に素直な子だというのが、ひしひしと伝わってくる。一歩、勇気をもって踏み出す。
「あの、鏑木さん。一つ訊いてもいいかな?」
「ん? いいよ。何でも訊いて」
「今朝、正門に立ってたけど、どうしてあんなに――。その――」
「落ち込んでいたのか?」
「う、うん」
緋奈が唇をキュッと一文字に結ぶ。
「あたし、織坂さんに見られてたんだ……」
「ごめんなさい。気になっちゃって」
「ううん、いいよ。全然」
緋奈は少し俯くと、そのまま静かに話しはじめる。
「あたしね、ほんとは市街地の方にある進学校に行くつもりで受験勉強してたの。でも、その進学校の受験に落ちちゃって今ここにいるんだ」
「それじゃあこの高校は――」
「うん。本命じゃない。――でもね、それはもういいの。受験に落ちちゃったのは私の努力が足りなかっただけだし、出た高校で人生決まるわけじゃないし」
「じゃあ、どうして」
「――家族」
「えっ?」
「うちのお父さんとお母さん、今離婚調停中なの。二人とも顔を合わせたくないからって理由で、私の入学式に来てくれなかった」
「――そんな」
「ひどい親だよね。――だからあたし、たくさん勉強してお父さんかお母さん、片方だけにでも『頑張ったね』って言ってもらいたくて、進学校行こうとしてたんだ」
緋奈が顔を上げ、濡れた瞳が真っすぐに希春の姿を捉える。悲哀を湛えた眼が、黒真珠のように光を反射する。
「ごめんね。会ったばかりなのに、こんな重たい話して」
希春はぶんぶんと首を振る。
「わ、わたしの方こそ、無神経に訊いちゃってごめんなさい」
緋奈が眼鏡を取り、制服の袖で瞼を拭う。
「ふぅ、話してちょっと心が軽くなった。織坂さん、ありがとう」
「希春」
「え?」
「希春って呼んでもらえたら嬉しい……です」
「ふふっ。なんで敬語に戻るの?」
希春はボッと顔が熱くなるのを感じる。
「なんか、は、恥ずかしくて」
「ふふっ。あたしも緋奈でいいよ。よろしくね、希春」
「よろしく、緋奈ちゃん」
ガラガラと音を立てて教室前方のスライド式の扉が開くと、スーツ姿のスラッとした若い男の人が教室に入ってくる。どうやらこのクラスの担任のようだ。彼はてきぱきとクラス名簿などを配り、軽く自己紹介を済ませたところで来週から始まる授業についての説明を始めた。
希春は緋奈の話を思い出す。彼女の艱苦の原因は家族だ。小さい頃から両親の愛情を一身に受けてきた希春にとって、緋奈の話はいささか受け入れがたいものであった。家族の問題は、部外者が迂闊に首を突っ込んでいいものではない。そもそも、首を突っ込んだところで解決できるとも思えない。しかしかといって、聞いてしまった以上、何もせずに彼女の問題から目を背けるのは忍びない。
――何かわたしにできることはないかな……。
担任の話が、雑音となって耳を抜けていく。今日は午前中ですべての日程が終了するため、もうすぐオリエンテーションは終わる。
できることなら、緋奈には両親が来なかったという辛い記憶だけを残して、今日という一日を終えてほしくない。第一志望ではないかもしれないけれど、高校に進学し、新たなスタートを切ることができた喜びも、ちゃんと感じてほしい。
――あっ、そうだ!
希春は閃く。
自分の大好きな場所。夜の海で存在を主張する灯台のように、道標になってくれる場所。あそこに行けば、何かが変わるかもしれない。
気がつくと教室内が騒がしい。考え事をしているうちに担任の話は既に終わったようで、解放された新入生たちは連絡先を交換し合ったり、お互いに距離感を掴むための会話をしたりと、あちこちで盛り上がっている。
希春は立ち上がって、くるりと後ろを振り返る。
「ねぇ、緋奈ちゃん。――お団子、好き?」
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