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始まりは二週間前だった。その男の子は五百円玉を握りしめて、ある日突然ふらりと店に現れた。その日はみたらし団子を二本だけ買って帰ったのだが、次の日もそのまた次の日も店に顔を出し、日ごとに違った味の団子を二本ずつ買って帰ったらしい。
男の子が〈だんご宝船堂〉に顔を出すようになってから四日目、店主はその子と話をしてみたくなり、団子を買いに来たタイミングで話しかけた。男の子は玉来遼太と名乗った。三日目までは一言も口をきいていなかったが、玉来遼太はおしゃべりが好きなようで、自分が瑠璃ヶ丘小に通う三年生だということや、その日あった面白いことを店主に話してくれた。それから遼太は、毎日昼過ぎに現れては店主とおしゃべりをして、いつも団子を二本だけ買って帰る日々が続いた。
しかし、そんな遼太が三日ほど前からぱたりと姿を見せなくなったというのだ。元気にしているのなら問題はないが、何か事件や事故に巻き込まれたのではないかと店主は心配でたまらないらしく、ここ数日昼過ぎになると通りを眺めているらしい。今日は通りに出ているときに希春たちが現れたので、遼太について訊いてみることにしたという訳だった。
「そうだったんだ。――それはちょっと心配だね」
「こんなばあちゃんとも話してくれるような子だから、知らない人に連れて行かれてたりしてたらと思うと怖くってねぇ」
そう言いながら、店主は通りを歩く人にせわしなく視線を向けている。やはり少年が顔を見せないのが不安なのだ。
不安に駆られる店主を見て、緋奈がぽつりと言う。
「でもそろそろ小学生も新学期ですよね。新学期の準備とかで、忙しかっただけなんじゃないですか?」
「う~ん……。それならいいんだけどねぇ」
店主は腑に落ちないと言った様子で、溜息を吐きながらベンチの下の猫に視線を向ける。
たしかに二週間近くずっと顔を見せていた少年が、ぱたりと姿を見せなくなったというのは少々心配だ。しかし緋奈の言うように、小学校も今日から新学期のスタートだ。新学期の直前に準備しなければならないことがあり、顔を見せる暇がなかったというのも十分考えられる。
希春は通りを見渡す。大通りには中学生や高校生、町内会での交流を楽しんでいる老人たちや、ベビーカーを押す母親たちの姿は目に入るが、小学生らしき子どもは一人も見当たらない。小学校では、まだ新学期のオリエンテーションが終わっていないのかもしれない。
少年の通っている瑠璃ヶ丘小は希春の母校でもあり、商店街を挟んで瑠璃ヶ丘高校の反対側に建っている。距離的にもそこまで離れてはいない。
希春がちらりと緋奈を見ると視線がぶつかる。なんとなくだが、緋奈が同じことを考えている、と直感が告げる。
「ねぇ、おばあちゃん。今からわたし達で小学校を見に行ってこようか」
希春は、小学校へ赴くことが自分にとって大した手間ではないことを強調するために、笑顔で提案する。
「え? ――でも、迷惑じゃないかい」
店主が希春と緋奈の顔を交互に見ながら逡巡するようなそぶりを見せると、緋奈がすかさず言う。
「美味しいお団子のお礼です。あたしたちにできることがあれば、協力させてください」
店主は緋奈の言葉を聞くや否や、店の裏口から大通りに出てきて、希春と緋奈の手を強く握る。
「どうもありがとう。希春ちゃん、緋奈ちゃん、お願いね」
希春はぬるくなったお茶を一気に飲み干すと、二人分の湯呑と食べ終わった団子の皿とを丸盆に載せてショーケースの上に置く。
緋奈は器を片づけた希春に「ありがとう」と一言述べると、スマホを取り出しメモ帳のアプリを起動する。
「それじゃあ、その男の子の詳しい特徴とか教えてもらってもいいですか」
店主は遠い昔のことを思い出すように、視線を宙に彷徨わせる。
「やっぱり一番目印になるのは、いつも手提げ鞄に付けていたパズルのピースみたいなキーホルダーかねぇ。――ん、色かい? たしか透き通った水色をしてたよ。あと、遼太君は左目の目元に二つ、泣きぼくろがあったかな」
メモするほどの情報は出なかったが、緋奈は丁寧に少年の特徴をスマホに打ち込む。
「ありがとうございます。助かります」
「おばあちゃん、ごちそうさま! それじゃあ行ってくるね」
店主に向かって手を振る希春の隣で、緋奈が丁寧にお辞儀をする。
希春は隣にいる緋奈を見る。見ず知らずの少年を探しに行くなんて、今までの日常では考えられなかった。
――自分と並んで誰かが歩いてくれると、こんなにも見える景色が違うんだ。
希春は小学校に通っていた頃を思い出しながら、商店街の大通りを歩く。
幼い頃の日々、登下校で商店街を歩く希春の足元には、いつも自分の影一つ。雨の降りしきる中、水たまりを踏む長靴の音も一つだけ。雪が降り積もる中、新雪に残る足跡も一つだけ。春も、夏も、秋も、冬も、すべて一人で景色の移ろいを見てきた。
もちろん、商店街では〈だんご宝船堂〉の店主以外の大人たちも希春を可愛がった。しかし、それで友達との関わりで得られる満足感が得られたかといえば、そうではなかった。同じくらいの年頃で、一緒に笑って歩ける友達が欲しかった。小学生の頃の希春は、一人ではなかったが孤独であった。
そんな日々を思い出し、希春は自分の前をとぼとぼと淋しそうに歩く、幼き日の織坂希春の幻影を空想する。涙を流さずに泣く小さな後姿に、心の中で話しかける。
――わたしはもう大丈夫。そしてあなたも心配いらないよ。だって、想像できる?こんなにも素敵な一日が、わたしを待っているなんて。
希春の頬を、流星のように一条の光が流れる。
「ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」
緋奈が驚いた表情を見せ、ポケットからハンカチを取り出して希春に差し出す。希春はハンカチを受け取り、幼き日の思い出から現実に引き戻される。
「あ、ありがとう。大丈夫。ちょっといろいろ思い出しちゃって――」
「何を、思い出したの?」
希春は一度深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「小学生の頃のわたしって、淋しかったんだなぁと思って。――中学の頃はもう一人でいるのが当たり前で、自分の抱える淋しさを直視しないことに慣れてたの。でも、今小学校に通っていた頃の事を思い出して、あの時のわたしがすごく淋しい思いをしながら学校に行ってた事も思い出したんだ」
希春は迷わずに答える。家族のことを話してくれた緋奈に対して、真摯でありたいという気持ちがそうさせた。
「ごめん。あたし、希春に言っちゃいけないこと言ったね」
希春は涙を拭きながら、首をかしげる。
「何のこと?」
「さっきあたし団子屋さんの前で『希春が羨ましい』って言ったじゃない。あの発言、取り消すね」
希春は首を振って、語気を強める。
「取り消す必要ないよ。――だって、わたしが淋しい思いをしてたことを思い出せたのは、緋奈ちゃんのおかげなんだから」
今度は緋奈が怪訝そうな表情で首をかしげる。
「どういう意味?」
「緋奈ちゃんのおかげで、今までわたしが普通として受け入れてきたものは、実は普通じゃなかったんだって気が付けたの。だって小、中学生の頃のわたしには想像もつかなかったことだよ。――こんな風に誰かと並んで、大好きな商店街を歩くことができる日が来るなんて」
希春がニッと白い歯を見せて緋奈に笑いかけると、緋奈もそれにつられるように微笑む。
「やっぱり、希春は今まで出会ったどんな子とも違うわ」
「それってわたしが変ってこと?」
「違うよ」
緋奈が即答する。
「じゃあ、どういう意味?」
少しだけ歩く速度を上げた緋奈は、希春の正面に立って、また自身の唇の前で人差し指を立てる。
「言ったでしょ。――言葉にするのは野暮なんだよ」
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