〈マーチ・ヘア〉の非日常

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     *  〈クマのパン屋さん〉のガラス扉を押し開けると、蒸し暑い外気に頬を撫でられた。日に日に気温は上がり、高校の行事表ではもう夏休みも遠くない。  背後で扉が閉まる音がすると、ガラスの向こうにパンの香りが閉じ込められる。  希春と緋奈が後ろを振り返ると、困惑している様子の史帆と有紗。特に有紗は、初対面の高校生が話を持ち掛けてきたことが腑に落ちないようで、ずっと何かを考えるような仕草を見せている。そして――。 「あの、わたしにお話って何ですか?」  肌を焼くようにじりじりと照り付ける陽光を真横から受けた有紗は、やはりどこか(うれ)わしげな表情で訊ねてきた。有紗の隣に佇む史帆も、どこか不安げな表情で成り行きを見守っている。  緋奈はそんな彼女たちの不安を払拭するように、優しい声音で言う。 「あたしたちね、さっきまで〈マーチ・ヘア〉っていうステキなティーサロンにお邪魔していたんだけど、そこの店主さんが『二階から娘が消えた』って言ってたの。――ねぇ、それってアリサちゃんのことだよね?」  今まで希春と緋奈を交互に眺めていた有紗は、自らの足元に視線を落とすと小さく頷いた。  緋奈は続ける。 「よかった。怪我とかしてない?」 「どうしてわたしの怪我の心配をするんですか? それにお二人はどうしてわたしを探しに来たんです? お母さんに頼まれたんですか?」  先ほどまで借りてきた猫のようにおとなしかった有紗がハキハキと質問を繰り出す。怒っているというよりも、状況を早く理解したいがための態度と言った方が正確かもしれない。  その様子を感じ取った希春は、事の経緯を簡潔に説明し始める。 「たしかにわたしたちは店主さんに事情を説明してもたらったけど、別に頼まれたわけじゃないよ。アリサちゃんが史帆ちゃんのところにいるっていうのを聞いて、わたしが偶然史帆ちゃんの名前を知ってたからここに来たの」 「お母さんは、わたしになにか言っていましたか?」  有紗は呟くような声で訊ねてくる。 「ううん、ただものすごく心配してたよ。アリサちゃんが二階から忽然と姿を消したから、無理やりバルコニーから下りて怪我でもしてたらどうしようって」 「そうですか……。やっぱり伝わらないものですね」 「伝わらないってどういう事?」と、緋奈が割り込む。 「いいえ、なんでもありません」  一層物悲しそうな表情を見せて、有紗は言った。絶望の色にも近い表情が痛々しい。  現状、有紗がどういう理由で家を飛び出したのかは分からないが、店主と有紗の様子から険悪な雰囲気は感じ取れない。親子喧嘩という選択肢を省くと、あと考えられるのは有紗が中学生という多感な時期であるが故に抱えている悩みくらいか。  希春は思い切って、有紗の胸の内を探ってみる。 「ねぇ、アリサちゃん。どうしてお母さんに見つからないように家を出たりしたの?」 「それを言ってしまったら、黙って飛び出した意味が無いじゃないですか」 「そ、それはそうだけど、返答によっては事実を伏せてアリサちゃんの無事だけを店主さんに伝えることもできるよ?」 「メールは送ったので、わたしの無事はお母さんに伝わっていると思いますけど」 「……」  有紗は自らの口から事実を語ることを頑なに拒み、希春も思わず閉口してしまう。彼女がいかなる質問も即刻突っぱねる姿勢を貫いているせいで、水掛け論のような展開になってしまった。  ――なんか『不思議の国のアリス』もこんな感じでいつも議論が平行線だったような……。  そんなことを考えていると、じりじりと照る日差しを浴び続けたせいか、希春の頬を一滴の汗が流れる。  希春は汗を拭うために、肩から掛けていたショルダーバッグをまさぐり、ハンカチを取り出そうとする。が、ハンカチに文庫本の角が引っ掛かり、『不思議の国のアリス』がバサリと音を立てて路上に落ちてしまった。 「あっ!」  希春が屈んで文庫本を手に取り、鞄に戻そうとしたその時だった。 「どうして?」と、突然有紗が落ち着かない様子で声を上げた。 「どうしてを持っているんですか?」
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