冷やし中華はじめました

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 がらんとした部屋には何もない。衝立も事務机も。ただカウンターだけはあった。その上にぽつんと冷やし中華の皿がある。昨夜僕が置いたままの、手付かずの状態で。  思わずドアを閉じた。深呼吸してからもう一度中を見る。見間違いではない。狐につままれたとはまさにこのことだ。  どうしようかと迷ったものの、アルバイトの僕がやるべきことは一つだ。  おっかなびっくり手を伸ばして皿を取ると、それを岡持ちに放り込んだ。ひっくり返ったのも構わず、逃げるようにビルを飛び出した。 「どうしたんだ?そんな血相を変えて」  店に戻った僕を見て、叔父は目を丸めた。   事情を話すと彼は大げさと思えるほどに眉を八の字に寄せた。 「え?昨日の冷やし中華って、ヤマダさんの注文だったの?」 「そうですけど、どういうことですか?」 「言うのを忘れていたなぁ……」 「忘れていたって、何を?」 「実はね……」と叔父は腕組みをすると、言いにくそうに話し始める。 「ヤマダさんって人はね、すごい食欲だったんだよ。二人前三人前なんてぺろりだ。まあ常連さんだから、こっちとしてはありがたいんだけどさ。それであの人、特にうちの冷やし中華がお気に入りでね。毎年このシーズンなると、日課のように食べに来てくれたのよ。最後の晩餐はここの冷やし中華しかないよ、なんて冗談も言うほどだったな。それが去年の今頃のことだ。いつもは店まで食べに来てくれるヤマダさんから電話が入った。体調が悪いから冷やし中華の出前をしてくれって。それなら中華なんかやめたほうがいいよと言ったんだけど聞かなくてさ。しょうがなく私自ら出前に行ったんだよ。ところがあの人の姿が見えない。おかしいなと思って奥へ入って驚いたよ。ヤマダさん倒れていてさ。心筋梗塞だって。食べすぎで太ってたからね」 「それで、どうなったんですか?」 「亡くなったよ」 「は?でも昨日は電話を……」 「そこだよ」  叔父は迷惑そうな顔を作ると、
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