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 次の日は、市松も朝から炊事場で働いていた。冬の水は冷たくて、家事をするには気合いが必要となっている。昨日の事を思い出し、市松は一人惚けていた。それもそのはず、あのあと、夜は雛次を思って何回も果てている。でも自分はそれをしてはいけない。雛次が落籍される、というのにその意思は揺らがなかった。雛次は何故自分を誘うのだろう。 あの臼井という男に自分を重ねているのかと思うと複雑な気持ちであった。落籍されても、彼奴に抱かれることなどない、それが雛次には許せないことなのだろうか。それならいっそ、誰かに手を掛けてもらい死んでゆくのが一番だと思っているのだろう。雛次には一番が似合う。飯を炊きながら、市松はぼんやりそんなことを考えていた。慌ただしい朝食の時間になっても、雛次が出てくることは無かった。お富に連れてくるよう頼まれたが、市松はそれを断った。どんな顔をして雛次に会えば良いか分からない、伽を断ったのに夜、雛次を思い耽って何度も果てていたというのに。  雛次の部屋を見に行ったのは駆け出しの男娼だった。きっと、食欲が無いと言ってくるのではないか、市松はそう思っていた。明日が落籍の日だ。あの様子だと、思い詰めてはいるのだろう、でもあそこまで嫌がる理由も市松には分からなかった。晴れて自由の身になる、それなのに───。 「大変です、女将さん」 血相を変えてその若い男娼は言う。市松はぎくり、と嫌な予感がする。 「雛次さん、お部屋にいません」 「何だって」 その若い男娼が、どれだけ探しても部屋の中はいなかったそうだ。もしかして───。市松はいつぞやのように、雛次が逃げたのだと実感していた。食べていた茶碗も箸もそのまま投げ出して、市松はすぐに草履を履いた。他の草履を蹴飛ばしながら、市松は慌てて外へ出て行く。自分しか、捕まらない───。咄嗟にそう思って、朝の爽やかな町中へ飛び出していたのだった。 「市松───、頼むよ。雛次、どうか───死なないでおくれ」  お富は、出て行った市松の後ろ姿を見ながらそう呟いた。  市松は走っていた。  若かったあのときとは違い、随分と息が上がる。自分ももうこんなに歳を取ったのかと、市松を追って下駄で走ったあの日が蘇る。雛次は、一体何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。幼い時から一緒にいたのに、自分はまるで雛次の事を知らない気がした。もしかしたら、と空恐ろしいことが頭を過る。頼む、間に合ってくれ、と半ば神頼みしながら、市松は町中を走っていた。横切る黒髪を見つけると反応し、雛次で無いことを確認するとまた走り出す。それを数十回繰り返すと、何時の間にか昼になっていた。陽は高くなっているが、空には雲が立ちこめて来ている。この寒さではきっと、また雪になるのだろう。そう思っている矢先、市松の鼻を雪の欠片が掠めた。  吐く息が白い。またここから冷えて行くのだろう。市松は雛次の出た時の格好が気になる。いつも彼奴は薄着で出て行くのが常だった。何処かにいるとしても、寒くて震えているのは間違いないだろう。  市松はぐるぐると、今まで雛次を見つけた場所を回っていく。倉庫、港、定食屋・・・回っていく間、雛次との今までがまるで走馬灯の様に頭を巡っていく。何時の日も喧嘩し、触れ合っていた若い時分。あの頃にはもう、戻れない。何も知らなかった頃には、もう・・・
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