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『本当は百姓なんて───刀で食っていきたかった』  雛次にも夢があった。でもそれは叶わなかった。今の雛次には、一体何が必要なんだ?落籍という誰もが夢見るはずの幸運も、雛次にとってはまるで意味のないものなのに。何故雛次は逃げた───?何を、求めているのか・・・  徐々に雪が激しく降り始める。昼だというのに、まるで真っ暗で、市松は閉口した。僅かに薄明かりは、町中に灯り始めた行灯と提灯だった。  雪の雲が横浜の町を包んで、それは幻想的に仕上げている。市松は雛次に想いを馳せた。 「彼奴、もしかしたら───もう」  死んでいるのかもしれない、そう思いながら市松は冷えた指先を着物の裾に隠した。だとしたら───。もう、帰った方が良いのだろうか。  一目、会いたい───。市松は咄嗟にそう思う。駄目かもしれない。でも、もし一目会えたら───。会えたら自分は、雛次になんと声を掛けるのだろう。いや、会えればいい。それだけで、満足じゃないか。そう思い直し自分を奮い立たせる。  しかしふと、雛次の考えていることも気になっては来る。どう思っているだろう。もし、雛次が生きているとしたら─── 『ふ・・・ううっ・・・あ、あ、いち・・・ま…』 昨日喘いだその痴態を思い浮かべてはまた猛る。雛次は、何を考えている───? 「まさ、か・・・」  市松はふと、昨日の雛次を思い出して絶句する。  流れてきた視線。蕩けるような色づいた声。必死の口づけ───。もしかしたら、雛次は・・・ 「俺を待ってる・・・の、か・・・」  途端にそう思うと、市松は来た道を引き返す。もし、雛次が自分を待っているとしたら、それは───  あの場所しか無い。そう確信していた。 「雛次、死ぬ・・・なよ」  心の臓が食い破れるほど、市松は走る。そして何時しか、その痛みを感じなくなっていた。   市松は雪が降り積もる中、神社に来ていた。  何時ぞや、二人で戯れに来たこの場所。市松は此所に雛次がいるのだと確信していた。もし、此所にいなければ、その時は───雛次は死んでいる。そう思っていた。 二人で飛んだ飛び石。雛次の笑った顔。懐かしく感じて、市松は薄く笑う。自分をお付きに選んだ理由も、今ならば分かる気がしていた。今の自分の雛次に対する気持ち。それを考えれば、容易かった。会いたい。顔が見たいのだ。愛しいその顔さえ、見られればそれでいい。そんな純真な気持ちを、雛次は持っていたのだろうか。  飛び石は雪で隠れて、全く見えていない。そこへ、市松の草履が食い込む音が、きゅっ、きゅっ、と鳴った。境内にある鐘を鳴らす。神社の屋根から落ちる雪が、どさっと市松の目の前に落ちてきた。  あの時も、雛次は殺してくれ、と言っていた。そして、落籍してくれ、とも───。  あの時はまるで夢のような話と思っていたのに、明日それが現実になるなんて。市松は胸が押し潰れるような気持ちで、神社の裏側から扉を開けて入ってみる。冷え切った気温が少し和らいだように感じる。そこには、一つ、提灯がゆらゆらと揺れていた。  ぼんやりと灯る提灯の火、そこにいたのは、紛れもない雛次の姿であった。黒の木綿の着物を着込んでいる雛次は、男娼には見えない、何処にでもいるただの青年に見えた。
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