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元々男娼候補としてここに来たはいいが、金髪に近い髪、そんなにはっきりした美男子でもない市松はお富にその頭の良さ、機転の良さを買われ弾左衛門(逃げた色子を追いかけ見つける役目)としてずっと奉公して来たのだ。故に市松は自分の素性を全く知らない。
ただ一つ、あるのは形見の刀だけ。それもほとんどぼろぼろで、自室の奥に隠している。自分の母も父の顔も知らないまま、市松はここに幼い時からいる。殆ど裸同然だった自分に様々なことを教え込んだお富が、今は母親のようなものだった。
「帰るぞ」
何も言わない雛次の肩を抱き上げる。か細い腕が、痛々しかった。涙が堕ちて、積もっていく雪の中に紛れていくのを二人で見つめた。それから、二人は一つの傘を差し、またあの宿に帰っていく…空虚な少年二人が重なり合っているのは、白と黒、まるで毛色の違う二匹の猫がじゃれ合っているようでもあった。
雪はどんどん酷くなっていった。
宿に戻ると、お富が「おかえり」とだけ言った。すぐに二人の顔を見て喧嘩をしてきて市松が腕ずくで連れて来たのだと察したのだがこの二人、両方とも殴られている。いかに強い市松ともいえど雛次の気の強さには敵わないところもあるのだろう、そう思った。
「随分時間が掛かったじゃないか。市松、それに―」
「あァ、商品の顔に傷つけんなってンなァ、判ってる。でもなァ、この子猫…獅子に化けそうだぜ女将」
「腕に自身の或るおまえでも、駄目かィ」
既に客が入っているのだろう、雛次はすぐに二階にある男娼部屋に連れていかれる。その掴まれた腕を振り払って、雛次は自分で行く、と言い放った。その表情はまさに仏頂面もいいところ、男娼特有のあでやかな笑顔とはかけ離れていた。
「まァ連れて来たけどよ…なあ、女将」
「なんだ市松、お前でも手を焼くなんざ珍しい子だよ」
市松は一つの疑問を女将にぶつける。それは、今までも何回か思ってきたことだったが、何故か今、言わなければならないような気がしたのだった。
「雛って、俺みたいに雑務と弾左衛門をやるのは駄目なのかィ」
「なんだい、藪から棒に。お前は特別だよ」
「俺だけか」
「お前は器量が良くないからねェ…可愛げもねェ、と来てる。あとはその金髪、さねェ」
「どっちかって言うと茶色でェ」
「客をとってもたかがしれてる。でも雛、あの子はいいねェ。まずもう二年待ってみな、すると途端に化けるはずだよ」
獅子に、と訊く市松にお登勢は馬鹿だね、と言った。
「獅子ならいいが…龍、にでもなるかもしれないねェ」
「へェ、えらく買ってるな、雛を」
「何だい妬いてんのかィ?つくづく今日は雪が降るんじゃ…アア、もう降ってたねェ」
クスクスと笑うお富の声を市松はぼんやりと聞いていた。俺は駄目であいつはいい。あいつは良くて俺は―。その、同じ人間であるのに運命の違うことを、恨みはしないが引っかかる感じがいつまでも、市松の心に棘の様に残っていたのだった。
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