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4
「昔話をしよう。と言っても、ほんの数ヶ月前のことなんだけれどね」
すうすうと規則正しい寝息を立て始めた顔を眺めながら、薄い唇を開いて言葉を紡ぐ。
届けばいいとも、届かなくていいとも思う矛盾した気持ちのまま、黒い髪を解いて言葉を続けた。
あれは、ある晴れた日のこと。
たまたま訪れた喫茶店に、とても笑顔の可愛い男の子が居た。
営業スマイルだってことは分かっていても、屈託のないその笑顔を見た瞬間に心に溜まっていた棘が溶けて流されていくようで。
あぁこれがいわゆる一目惚れというやつなのかと、暫くしてから理解した。
それからというもの、おれは時間があればその喫茶店に入り浸るようになった。
だけどいつもあの店員さんが居るわけじゃない。居たとしても、ただの客であるおれを認識してくれているかも分からない。
それでもあの笑顔が見たくて、声が聞きたくて、少しでも同じ空間に居たくておれはその子に会いに行った。
だけど暫くしてから、その子には恋人がいるらしいと分かってしまった。
ある男が店内に入ると、その子の表情がふわりと綻ぶ。男も男で、気安くその子の顔や髪に触れる。
おれの時とはまるで違うその表情に、おれは感じたことのない絶望と怒りを感じたんだ。それが嫉妬というものなのだとも、おれはその時初めて知った。
あいつが、あの子の…。
あの子が幸せならおれの出る幕はないのだと、その時は思った。
出来ればあの隣はおれが良かったけれど、あの表情を見てしまえばもう何も願えなくて。
あの子にはあの男がいいのだと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
そんな時だ。
ある夜に、あの男と、見たことのない女が仲睦まじく歩いているのを見たのは。
一目でそういう関係なのだと分かった。
指と指を絡めて微笑み合いながら歩く姿は、ただの恋人同士にしか見えなかった。
その時おれを支配しかけた感情は怒りなんて生易しいものじゃなかったと思う。
あの子の笑顔が過らなければ、おれは法律も理性も無視してあの男に何をしでかしたか分かったものじゃあなかった。
どれだけクソ野郎でも、あの子をあんな表情にできるのはこいつだけなのだと思うと悔しくて妬ましくて。そして傷つけてはいけないと思った。
この男が傷ついたらきっと、あの子が悲しむだろうから。
それだけはあってはならないことだ。
だけどこの状況も見過ごせない。
あの子は知っているんだろうか。
自分の恋人が、別の奴とも付き合っていることを。
どうか知らないでいて欲しい。
いや、出来れば知って、別れてしまえばいい。
矛盾する感情を携えて、おれは観察を続けた。
そうして一つの希望を見つけたのだ。
あの男と仲睦まじく歩いていたあの女は、どうやら面食いのようだった。
だから近づくのは、簡単だった。
今まで疎ましく思っていた自分の顔の作りを、この時ほど感謝したことはきっとない。
求められない限りおれがあの女に自ら触れることはなかったけれど。
それでもあの女を抱いているとき、きみもあの男とこんなことをしているのかと考えると気が狂いそうだった。
嫉妬なんて、しなくていいならしたくない。
そんなどろどろしたものを抱えておれは何をやっているんだろうと、何度考えたことだろう。
だけど幸せでいてくれるなら。
押し寄せる黒い荒波におれがどれだけ汚れても、あの子が笑ってられるなら。
女は思った以上におれに心酔した。
願わくばおれという障害物が原因となって二人が別れればいいと思っていた。
そうしてあの男があの子のことだけを愛すようになればと。
だけどおれが思っていた以上に、あの二人は似ていた。おれの考えは甘かったのだ。
おれがどれだけ結婚するなと説得しても、いや、引き止めれば引き止める程あの女は喜んでいるようだった。
そうだ、あの二人はよく似ている。
結婚式で見た鬼のような形相の彼らを見ておれの予想は確信に変わった。
二人とも、相手の気を引きたいが為に別の誰かの手を取るなんて。
不器用だとか、そんな可愛らしい言葉では言い表せない。
ただ相手の嫉妬した顔が見たい。
相手が自分に執着している姿を見たい。
笑えてしまう。彼らの結婚した理由は図らずとも一致していた訳だ。
だけどそれは愛じゃない。
ただの自己満足にすぎない。
そんな下らないモノのために、この子の笑顔を、感情を踏みにじるなんてあってはならないことだった。
おれに愛を語る資格なんてあるかは分からないけれど、許すことはできなくて。
結局は卑怯な手段を使ってしまったことに変わりはない。
それでもきみが、ここにいるなら。
おれの隣を選んでくれるなら。
「おれにとってはハッピーエンド。いや、ここからがやっと始まり、かな」
きみがおれを、選んでくれるなら。
ラウンジで聞かせてくれた話はどれもおれの心を抉るようなものだった。
おれはきみの笑顔を好きになった。
なのにそんな風に笑って欲しくない。
相手が悪いことなのに、自分ばかりを責めて欲しくなんてない。
綺麗なだけの奴なんて、きっとこの世には存在しないんだ。
それでもきみには心から、笑っていて欲しいんだ。
まずは自分を傷つけてしまうその手を、おれが握ってしまおうか。
たくさんたくさん笑わせて、幸せでいてもいいのだと、いや、きみこそが幸せにならなくてはいけないのだと。
思い知らせなくちゃいけないなぁ。
ねぇ。
だからどうか、覚悟して。
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