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私が死んだのは二週間前。ビルの屋上から意を決して飛び降りて、「怖っ」と思って気絶して、次に目覚めたときにはソファの上に寝かされていた。
ソファの脇にはパーテーション。その向こうに並ぶ事務机、ファイルの並ぶ棚、枯れかけた観葉植物。いかにも冴えない事務所にしか見えない。もしかして死に損ねたのか、それとも飛び降りたこと自体が夢か、と思っていたら、三十代くらいの小柄な男性――今に至るまで「先輩」としか呼んだことがない――がひょっこり顔をのぞかせた。
「あんた、死んだ場所が悪かったね」
そう言って。このご時世に室内で電子タバコをすぅと吸って。
ちょっと透けてさえいなかったら、生きている人間にしか見えなかっただろう。
先輩いわく、この事務所は私の飛び降りたビルの一角にあり、依頼を受けてある商売をしている。そしてここを借りている、というよりも無断で陣取っている所長と先輩は、もう生きた人間ではない。周囲からは「呪われた事務所」と呼ばれ、生きている人間は近づかない。変な物音や話し声がするし、電子タバコの焦げたにおいがするし。
つまり、ここで働くのも、ここに依頼に来るのも、すべて死んだ人間ということだ。
「依頼人の死因や種類は様々だけど、たいがいが命を狙われてる」と先輩は私に言ってから、ひとり首をかしげた。「いや、死んでるからこの言い方はおかしいのかな……とにかく、平たく言うと除霊の危機にあってるんだよ。生きてる人間に勘付かれたり、ちょっと霊障をやりすぎたり。でもまだ成仏したくなくて、ここに来る」
そして彼らのやっている仕事というのは、「依頼人の代わりに除霊されたふりをする」というものだそうだ。
「まぁー、たまにちょっと痛いときもあるけど、ほとんどの霊媒師はインチキだし……適当に悲鳴とかあげて、依頼人にはしばらく静かにしてもらうように頼んで。お代は幽霊の間で流通してるお金があるの、驚きでしょ。このタバコもそのお金で買ったんだけど。そういう商売です」
分かった? と問われ、痛む頭を押さえる。死んでも頭痛はするものなのか。
「あの、なんで私が分からなきゃいけないんでしょう」
「なんでって? 見た目に反して生意気な子だな」
「だって、私はただこのビルで死んだだけじゃないですか。ソファをお借りしたご恩はありますけど、それだけで……そろそろお暇させてもらえませんか」
待って待って待って、と先輩がパーテーションと壁の間に立ちふさがった。
「お話聞いてちょうだい。今女の子がいないんだよ、ウチ。所長はおっさんだし、俺も男だしね。でも幽霊って女の子もいるでしょう。むしろよく除霊の憂き目にあいそうになってるの、女の子でしょう。ついこないだまで雇ってた女の子、元彼の結婚式を見たらかえって満ち足りた気持ちになって自ら成仏しちゃったんだよ。困ってるんだよ」
「いい人だったんですね……」
「いい子だったね……それはともかく、女手がいるんだ。あんた、どうせあの死に方じゃしばらく成仏できないだろ。幽霊も路頭に迷うんだぞ、住み着く場所を探そうにも縄張りってものがあるからね。お金もいるし……ここで働いてくれたら、住む場所は紹介するよ」
これはいい話なのだろうか? 死んだばかりで勝手が分からない。死にたてを狙う詐欺かもしれない。動かない頭で考えているうちに、
事務所じゅうに響くくらいの音でお腹が鳴った。
パーテーションの向こうからもうひとり、「所長」とおぼしき小太りの中年男性がひょこりと姿を見せて、
「とりあえず何か食べる? おせんべいしかないけど」
飲み物はコーヒーしかないけど。と困ったように付け足された。
ブラックコーヒーと塩せんべいという間の抜けた組み合わせでお腹を満たしているうちに、なんだか疑うのがばからしくなってきた。四枚くらいせんべいを平らげたあたりで、
「死んでもお腹が空くのじゃなかったら、わざわざ働いたりしないんですけど……」と切り出した。
「改めて、小豆野サホミといいます。どうぞよろしくお願いします」
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