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土曜日
《駅に着きました。お昼は天ざるにしましょう。海老の天ぷら買っていきますね。》
恋人に連絡を入れる。
好きな人のアパートに向かう土曜日ほど気分が晴れ渡っている日はない。
返信はないが、すぐに既読がついて頬が緩む。彼が今からすることが目に浮かぶ。
俺のために部屋を冷やし、蕎麦を茹でる準備をして、お揃いの蕎麦猪口と箸を出して、そっとテーブルに置いているはずだ。蚊取り線香も消しているだろう。
彼のことを思うだけで胸をキュッと掴まれたような感覚がして少し苦しい。その苦しささえ嬉しい。
彼が蚊取り線香の香りが好きだ、と呟いた日の帰り道、ドラッグストアに寄った。それは誰の目にも留まらないような狭いスペースで、少しホコリを被ってひっそりと並んでいた。
それをすぐさま家で焚き、寒い部屋が季節外れな香りと煙で満たされていくのを眺めながら彼を思った。
それ以来、線香の香りがするだけで彼を思い出して熱くなる。
まるでパブロフの犬みたいに。
土曜日の駅地下のスーパーが混んでいて、人がぶつかってくるのも気にならない。好きな人のことを考えるとその他のことはどうでも良くなってしまう。小玉西瓜が店頭に並んでいる。二人なら食べられる量だろう。西瓜が食べたいというよりは、一緒に季節を感じたい。俺と西瓜を食べたな、と来年も、その先の夏も思い出してほしい。西瓜は俺と食べるもの、と彼の深層心理に刻みたい。西瓜は後で買いに来ることに決めた。その方が、俺が買いに出ている間に、手持ち無沙汰で煙草を吸ったりして帰りを待つ彼に俺と西瓜の記憶を深く刻みこめる気がしたからだ。
太陽がギラギラ照りつけて、着く頃には汗だくになるのも全く気にならない。汗だくでやってくる男を彼がどう思っているかは分からない。直ぐに顔を洗わせてもらうのが癖付いて、柔軟剤でフカフカのタオルを洗面台に用意してくれるようになった。
そんな風に彼の生活の中に俺を散りばめて、毎日俺のことを考えればいいのに、と思ってしまう。俺が買った歯ブラシスタンドに刺さった二本の歯ブラシを見て、俺を思い出して優しく微笑んでくれたらいいのに。
好きな人と付き合えている。それで幸せだと思っていた。決して落とせないと思っていた人が今は俺のもので、一緒に休日を過ごすような仲になった。でも満足出来なくて、もっと、もっとと欲張りになっていく自分がいる。
俺なしじゃ生きていけなくなれば良いのに、と思ってしまうんだ。
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