告げない初恋は……

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告げない初恋は……

 思えばそれは、「初恋」という恋の経験値の無さから来る臆病な心以外、何物でもなかった。  そう、それは「初恋」。  淡く、甘酸っぱい感情。  ずっと。  その想いは続くと思っていた。  私は先輩だけを想い続けると。  そう。  例え想いは告げずとも。  この想いは続いていく。  想いは告げない。  この胸に秘める。  私の生ある限り、ずっと……。  そう、信じていた。  幼かったあの日々。 「そう、その感じでそっと茶筅を持って」  静かな礼法室内。  私のすぐ右隣の場所に朝賀先輩が座っている。  息が届きそうな程、近い……。  私はその近さに眩みそうになりながら、そのよく通る低いハスキーボイスを聴いている。  朝賀先輩。  ルックスだけじゃなくて、声も抜群にいい。  耳元で囁く先輩の声にぞくぞくする。  そんなことにも恍惚としている自分。 「そこで、柄杓をこう持ちかえて」  その時。  朝賀先輩の右手が私の右手に重なった。  ビクリと体が大きく震え、私は心臓が止まるかと思った。男の人の手なんて恭平以外、触れたことのない私には、それは充分刺激的な出来事だった。  でも。  そんなことおくびにも出さない。  先輩にこの想いを悟られてはいけない。  それは、心の奥底にそっと秘めた想いだった。  けれど春夏秋冬。時は巡り。  二度目の春──────   その春一番の東南東の風が吹く頃。  どうして。  告白しようなんて思ってしまったのだろう……。  それが全ての過ちだった。  頬を撫でる風が冷たい、春未だ浅い卒業式の夕暮れ。北校舎のまだ芽吹かない大きな桜の樹の下で、私は朝賀先輩と対峙している。 「朝賀先輩。……好きです。ずっと、好きでした」  そうはっきりと告げた私の目を、先輩はじっと見つめている。でも、その優しいまなじりは、私の瞳を通り越して何を見ているのか。  私はその沈黙にただ震えた。 「ありがとう」  ややあって、先輩はいつものように柔らかく微笑み、いつものように静かな口調で低く呟いた。それはバスバリトンの低いハスキーボイス。その類稀なルックスよりも何よりも、私の一番好きな先輩の声……。  でも、その声が紡ぎ出す次の言葉は残酷だった。 「君の気持ちはとても嬉しいよ。だけど。僕は卒業して東京に行く。佐々木(ささき)さん。茶道部の活動、頑張って」  先輩は、柔らかな茶色い前髪を節太く長い指で払い、私を穏やかに見つめながら、 「春から入ってくる後輩たちの指導を頼むよ」  と、やはり静かに呟いた。 「じゃあ、僕は行くよ」 「先輩……」  行かないで。  行かないで。  心は叫ぶ。  行かないで下さい……。  ずっと私の瞳を見つめていて。  お願いですから……先輩……!  私のその悲痛な心の叫びは、果たして先輩には届かなかった。 「元気で」  そう言い残して、先輩は私の前からフェイドアウトしていく。それは出逢いの時と同じように、やはりスローモーションの緩やかな動きだった。  私の前を通り過ぎていく長い影。その影を私は、ずっと、ずっと見送っていた。  その蕾さえまだつかない大きな桜の樹の下で。  いつまでも。  いつまでも。 「杏! 杏!」  黄昏時もとうに過ぎ、その夜も更けてきて。  桜の樹の下にうずくまっている私の背後から足早に近づいてくる。その声を、私は無視して尚、虚ろに宙を見つめている。 「おい、探したんだぜ」  恭平は、私の右肩を掴んだ。 「帰ってこない、LINEも繋がらないてお袋さん、心配してるぞ」  スマホはとっくにオフっていた。家に帰る気にはなれなかった。私は、二度と戻らない先輩の幻だけを独り夕闇の中、探し続けていた。 「お前……」  泣いてるのか……という恭平の声は遠く、私の耳には、先輩の最後の声だけがリフレインしている。 「杏」  恭平は、私をその広い胸にそっと引き寄せた。 「う……」  私の口から嗚咽が漏れる。それまで堪えていた全ての感情が溢れ出す。 「杏……泣くな」  そう言う恭平の口調は優しい。ただ私を抱き締め、髪を梳いてくれる。  私は恭平の胸に縋りつき、涙を零した。 「先輩……先輩……」  そう言葉にしながら泣きじゃくるだけの私を、どういう気持ちで恭平は抱き締めているのか。私には思い遣るゆとりが全くなかった。  幼馴染のやさしい関係。  その距離感に甘えてた。  春は未だ浅く、東南東の風は肌に冷たくて。  黄昏の後の夕闇の色はやけに目に染みて。  こんなに辛い想いをするのなら、もう誰も好きにならない。  もう恋なんてしない。  この胸の痛みはきっと……。  私は。でも、私は……。  私を胸に抱いたまま髪に優しく手を当ててくれている恭平が、小さく溜め息をついたのも知らないで……。 「初恋」は成就しなかった。  私の想いは、泡と消えた。  私から遠ざかっていった長い、長い影。その影をずっと、ずっと見送っていた。私には振り向いてくれなかった人。私だけが空回りしていた私の初恋。  もう恋なんてしない……。  そう思い詰めた未だ浅い春の日は……。
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