8人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
血吸刀の記憶
第一章 玉泉堂の惨劇
東京・神田神保町の古書店通り路地裏の古美術商「本阿弥美術刀剣」の店主、本阿弥光月(ほんあみ・こうげつ)は、店舗奥の片隅で、パソコン相手にため息をついた。
「うーむ、今日も掘り出し物はないねぇ」
ぶつぶつと呟きながら、お気に入りのオークションサイトを物色している。二〇一一年五月二十日の正午過ぎの事である。
「しかし、ご先祖様の時代と違って、ネットオークションで刀剣を仕入れるなんざ、不思議な世の中だねえ」
光月は、刀剣鑑定士である。一見、仰々しい職業のようだが、要は刀の目利きである。鎌倉時代から江戸時代ごろまでの刀剣の良し悪し、真贋を判断して、価値を見極める。あちこちから値の張りそうな物を仕入れて、他に転売するのが生業である。
そもそも刀剣は、殺傷の道具であった。だが、そこに美術品としての価値を見出したのが、戦国時代の天才的芸術家、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)である。本阿弥宗家は徳川家に仕えて二百七石の禄を得ていたため、江戸時代を通じて絶対的な権威を持っていた。宗家を中心に十二の分家に分かれ、その刀剣が真正である事を証明する「折紙」を発行する権限を持っていた。
その光悦から数えて二十三代目の子孫が、光月である。だが、十二の分家には数えられず、歴史の表舞台に決して姿を見せなかった特別な家「相伝家」の人間であるので、一般には知られていない。本阿弥宗家の血筋が絶えたときに、相伝家から養子を迎え入れて、跡を継ぐのが相伝家の役割である。
と同時に、相伝家は本阿弥家の「裏の顔」とも言われ、いわく付の刀剣の鑑定や、刀の研磨、補修、果ては暗殺なども請け負っていた。だが、現在ではそういった裏の顔は捨てて、先祖の遺徳を受け継いで、現在ではおおっぴらに刀剣鑑定の仕事をしている。今年で四十二歳になる。後厄である。
以前よりも、刀剣の需要は少し回復したとはいえ、全体的に業界は縮小傾向である。
「なんだかなぁ。不景気だから、高い刀はなかなか売れねえしなぁ」
出るのは溜息と愚痴ばかりをこぼしていると、そこへ。
ガラガラガラ
店の引き戸を開ける音がした。
(お、珍しいな客か)
光月が横目でチラリと見れば、二十代後半から三十代前半の若い男が店内をキョロキョロしながら見渡している。男は、欧米人を思わせるように肌が白く、痩せ形で髪質が柔らかく、細く切れ長の眼が印象的な物静かな様子だった。
(ち、なんだ冷やかしか。居合やって真剣を買うようにも見えねえし、ましてや刀剣コレクターにも見えないね)
がっかりした光月は、そのままPCのモニターを凝視し続けた。
だが、男は意外にも刀剣を一通り眺めて、
「…この店には、誰もいないんですか?」
光月の座る店舗奥の机の近くまで来て、聞こえよがしに言った。光月は、わずかばかりに身を乗り出して、
「え?ああ、いますけど、好きに見ていいですよ。ただし、触らないでください。危ないし、傷が付いたら買い取りになりますんで」
ぶっきらぼうに言った。
「そうですか。この店には…なさそうですね」
どういう事か。何か、目当ての物でもあるのか、と光月は思った。刀剣に興味があるならば、客である。
「何かお探しですか?刀が好きとか?」
何気なく、雑談のつもりで聞いてみた。だが、男は細い目を一層細くして、
「好きか嫌いか…。嫌いですね、もちろん。人殺しの道具ですよ、恐ろしい物じゃないですか。私は以前、一振り持っていましたが、そのために恐ろしい目に遭いましてね…、トラウマですよ。で、処分しました」
物色している割には嫌いだと言う。理解に苦しむ。
「恐ろしい目、とはどんな目に遭ったんですかね?」
刀剣商としては、刀にまつわる話には興味がそそられる。だが、真剣を持っていて恐ろしい目に遭ったとは、大概が手を滑らせて指を切ったという程度の話である。だが、男はその質問に答えようとはしなかった。
「…私は、人を殺すための道具を陳列して、芸術品だとか言って高値で売買する人の気がしれない」
その一言に、光月の心にさざ波が立った。刀剣を扱う身として、聞き捨てならない。
「お客さん、おかしな事を言いますね。嫌いで、恐ろしいという刀剣を、なぜわざわざ見に来たんですか?」
男は、ふう、と一息ついて、
「ああ、これは失礼。正確には、かつて嫌いだった、と言うべきでしたね。見るのも嫌で、恐れてもいましたが、今はもう克服しています。脳科学の力によってね。克服できている事の証明をするために、こうして刀剣を見ているのです」
なぜかその態度は、光月に挑戦するかのような眼だった。
「ハァ?克服?脳科学?そんなもので」
「ええ、治りますね。私は、大脳生理学者ですから。恐怖だとか、好悪だといった感覚は、所詮脳が作り出すもの。それをいじってやれば、好き嫌いはおろか、苦手なものは全部克服できます」
「ふぅん、そうですか」
苦手なタイプ…と光月は思わざるを得ない。自称学者のこの男、言う事がいまいち理解できない。冷やかしどころか、嫌がらせではないのか、と思った。ただ、一つ気になることがあった。
「さっき、刀剣を一振り持っていたと言いましたね?刀嫌いなのに、なぜ持っていたんですかね?」
刀剣商として、この男ではなく、男が処分したという刀に興味を持った。
「自ら買い求めた訳ではありません。我が家に先祖代々伝わっていたというだけの事です。なくしてしまいましたがね」
「ほう。それは残念な事をしましたね。先祖代々と言えば、きっと名刀に違いない。ちなみに、備前刀ですか?それとも、関の産ですか?」
「知りませんよ。幼いころに形見だと言ってもらって、それからすぐになくしてしまったので」
先祖は武士か何かだろうか。なくした理由を、男は語らなかった。光月は少し気になったが、それ以上深入りするのはやめた。
気まずい雰囲気が店内を支配したが、男は引き続き物色を続けていた。ショーケースの中の刀の鐔(つば)や鐺(こじり)をのぞき込んで言った。
「こんな装飾品、刀に必要ですかね?刀って、人を殺すための物を飾ってどうするんでしょうか」
売り物の鐔や鐺、目貫といったものは、刀の装飾品で芸術性が高い。刀剣は、合戦用の消耗品であるのはもちろんだが、秀吉の時代になって刀自体に価値が見いだされ、それを装飾する鐔や目貫といった部品でさえも、意匠の凝った装飾が施された。
結果として、刀身と共に芸術作品に昇華した。
刀剣商はむろん、刀剣とその装飾品に美術的価値を見出す商売である。三百六十年続く刀剣鑑定人の光月にとって、刀剣はただの殺人道具であるはずがなかった。
「お客さん…。確かに、刀の本質は敵を殺傷する事にあるんですがね。それだけじゃないんですよ。武士の身分の象徴であり、日本人の魂でもある。さらには、刀匠たちの魂が込められた鋼の芸術作品でもあるんです。そして、それを彩る刀装具の数々。それらが集まって、芸術的な価値が出るのです。良い物を見せてあげよう。特別にね」
そう言いながら、光月は刀ケースの鍵を開け、中から白鞘(しらさや)を一振り取り出した。白鞘とは、刀身を保護して保管するための鞘である。
光月が鞘を払うと、中から白銀に光り輝く刀身が姿をあらわした。
「これはね、関の孫六だよ。これは私の先祖が徳川家から拝領したもので、代々受け継いでいるんだ。この『三本杉』という焼き刃が特徴でね、刃長は二尺三寸三分(約七〇センチ)、反りは四分強(一・二センチ)。切っ先が鋭く伸びて、いかにも斬れそうな姿をしているだろう?これに、名工が彫った鐔や柄が組み合わさって、何とも言えない姿になる。世界でたった一つの逸品になるんだよ。この鍛え上げられ、澄み切った刀身を見ていると、心まで洗われるようだろ…」
うっとりしながら薀蓄を披露する光月を横目に、男は店内を見渡して、
「芸術品なら、絵画や彫刻の方が上でしょう。人殺しの道具が芸術品の訳がない」
と吐き捨てて、出て行った。これには、名門本阿弥家の血が、許さなかった。
「ちっ、なんでぇ、あいつぁ。刀剣の美術的価値が分からねえヤツに、絵画や彫刻の良さが分かる訳ねえっての!」
冷やかしにも程がある、と思った。
こんな客しか来ないのか、後厄とはいえ、やはり厄年だなと思いながら、マウスをクリックした。そのマウスを持つ手が、ふと止まった。
「おおっ?これは?新入荷、昨日の夜か」
思わず身を乗り出し、モニターに眼を近付けた。
「なにぃ?始値が、一千万円だと?」
光月は眼が飛び出るほどモニターを凝視し、マウスをクリックした。
「とんでもなく吹っ掛けてやがるが…。出品したのは…玉泉堂(ぎょくせんどう)のオヤジか!?あのオッサン、こんな隠し玉を持ってやがったのか」
光月の同業者が、入札価格一千万円もの刀剣をネットオークションに出している。それだけ値が張るものは、徳川家か大名が持っていた「名物刀剣」と言われるものであろう。本来ならば、美術館か博物館に入っていてもおかしくない。
「銘は?作刀時期は、いつだ?」
刀の価値を決めるのは様々な要素がある。有名な刀工であるか否か、所持した人物が歴史上の偉人であるかどうか。そして刀が打たれた時期や、刃紋の美しさ、状態の良し悪しなどで大きく価値が異なる。
「ほうほう、室町末期の備前の古刀で、銘は祐定(すけさだ)。刃長は二尺三寸二分、反りは七分か。まあ、一般的な備前の古刀だ」
祐定とは備前長船の刀工の名である。
「拵えは…これは後付だな」
拵えとは、刀の柄や鐔、鞘など刀の付属品である。刀身だけが室町時代で、柄などは時代が下がってからのものであろう、と光月は判断した。
「腰反りが高く、地金が板目鍛えに杢目が交って良く詰んでいる…。備前刀の特徴をよく表している」
刀の姿を表現するのは、独特な言い回しを使う。これを分かりやすくすれば、刀身の地金に板の目のような模様があり、さらにその中に複雑で美しい杢目が交って、地肌の模様がきめ細かい、と言った程度の意味である。
「刃紋は『互の目丁子』、典型的な祐定だな。なかなかの名品だ。だが、しかし…」
刃紋は、刀の姿を決める重要な紋様、いわば刀の指紋である。祐定の刃紋は、「互の目丁子」という波打つような形として極まっていて、この出品作も鑑定の教科書通りの姿で、ほぼ祐定に間違いない。だが、光月は目を凝らしてみると、一般の出展品とは思えないような不審な点に気が付いた。
「何だ、この曇ったような、波しぶきが飛んだ跡が残ったような曇りは?単なる汚れか?砥ぎのミスか?」
光月が見極めたところ、刃紋以外の紋様が、この刀には浮き出ている。
「この曇の出方は…。『匂い』でも『沸え(にえ)』でもない。さらに言えば、鎌倉期の備前刀の特徴である『映り』でもない。鍛錬の時に出来た地肌ではない」
刀を打つ際に、鉄分中の粒子によって「匂い」「沸え(にえ)」という淡い模様があらわれる。それが刀の何とも言えぬ金属の美しさを示現するものである。それが「匂い」であるのが備前刀の特徴だ。また、光源に透かして見ると白く見える事を「映り」と言う。そのいずれとも違う紋様が、ぼんやりと刀身にあらわれている。
「これは、ひょっとして…」
光月は、映像加工ソフトを使ってその紋様に少し細工し、赤い色を付けてみた。すると、ぼんやりしていた紋様が浮かび上がった。
「やはり血しぶきか。この刀は、人を斬ったな。だが、なぜこのようにはっきり残っている?誰の血だ?」
刀は人を斬ったとしても、血拭いをして砥ぎ、丁寧に手入れをすれば血の跡などは残らない。だが、この刀には明らかに人を斬った時に血が滴った形跡がはっきりと残っていた。
「こんな刀が、あるのか?いや、まてよ。ひょっとして、この刀は、伝説のあれか?」
光月は、記憶をたどりつつ、江戸時代に書かれ、裏本阿家だけに代々伝われてきた家伝の刀剣鑑定書兼秘伝書である古文書「享保裏名物帳」を取り出し、めくってみた。
「何度血拭いしても、砥ぎに出しても、その痕跡が消えなかったという言い伝えのある刀が、確かあったはず」
光月は眉間にシワ寄せ、口をへの字にしてページをめくり続けた。そして裏名物帳の「妖刀、魔刀」のページをめくってみた。
「…あった、これだ。やはり間違いない。これは伝説の殺人刀『血吸刀』だ。徳川家を恨んで死んだ江戸初期の軍学者、由比正雪を斬ったと言われる刀。正雪は死の間際に呪いを掛けたと書いてある。そのためか、これを持つ者は、必ず大不幸がやってくるという言い伝えがある。徳川家は、それを没収し、鋳潰したと言われていたのだが」
もしや新発見になるかもしれないと思い、胸の鼓動が高鳴った。深呼吸して、もう一度両者を見比べてみた。
「現存しているというのか。もしこれが、本当に血吸刀だとしたら…。玉泉堂め、とんでもない物をオークションに出したものだ。人を不幸に陥れる気か」
そう思わざるを得なかった。
「あのタヌキオヤジ、問い詰めてやらにゃあな」
玉泉堂の主人、玉木洋一郎は、あまり評判の良い人物ではなかった。事業に失敗した会社経営者などから、そのコレクションを安値で買い叩き、成金たちに高値で売り付ける事で有名だった。いわゆる刀剣ブローカーで、刀剣を商売の道具としか思っていない。鑑定眼についても、怪しい、と光月は思っている。
「こんな曰くつきの刀をどこで仕入れたんだ?しかも、こんな高値でオークションに出すとは。とりあえず、電話だ」
光月は、黒電話の受話器を手に取った。本阿弥美術刀剣は、古美術商だけに、電話も今ではめったに見られなくなった固定式のダイヤル式電話を使っている。
ジーコジーコとダイヤルしてみたが、コール音は空しく響いた。
「ン…?おかしいな、この時間なら店にいるはずだし、定休日でもないだろうに」
光月は、ならば直接行って、確かめてやる、とばかりに出掛ける事にした。光月の店から玉泉堂までは、自転車で、十分程度の距離である。
「こんなふざけた出品して…懲らしめてやる」
つぶやいて、出掛けようとすると、店の裏口から誰かが入ってきた。
「ちょっと、どこへ行くのよ。買い物に行ってくるから、留守番してて」
妻の悦子である。光月は、悦子と二人で「光悦」となる。本阿弥光悦に通じるため、縁起がいいと思って結婚した。が、今は完全に尻に敷かれている。
「え?今から?ちょっとおれも出掛けようと思ったんだが…」
「は?何言ってんのよ、バーゲン終わっちゃうじゃない。刀剣屋の稼ぎ自体が少ないんだから、バーゲン利用しなきゃダメでしょう」
ぎゃふん、とは言わなかったが、光月は反論できなかった。実際、刀剣売買だけではほとんど利益は出ていない。先祖から受け継いだ土地があることと、父祖から受け継いだ刀の「砥ぎ」の技術が、その生活を支えていた。砥ぎは、刀剣愛好家や居合道家が刃こぼれや錆が出た時に、手入れのために出すもので、熟練の技術が要る。
現在の本阿弥一家は、その収入で何とかやっている。
光月は、刀剣ブームが再び来ないかな、バブルよ再来してくれ、と思い続けているが、現実になる可能性はほとんどないだろう。
「じゃ、よろしく頼むわね。すぐ帰ってくるわ」
すぐ帰ってくるだろうと思った悦子は、五時間も帰ってこなかった。光月はその間、待ちぼうけを食った。
「おいおい、悦子…。すぐってのは、五時間後の事かよ…」
どうせまた主婦友と会って、長話をしているのだろうという事が想像できた。
「しょうがねえ。玉泉堂に行くのは明日にするか…」
夜七時過ぎになって、悦子は何食わぬ顔で帰ってきた。
「遅いじゃないか、何をしていたんだ?」
とは言えない。機嫌を損ねるだけでなく、食事の味に影響するためである。光月と悦子に、小学生の息子光陵の三人で夕食を取った。その時、悦子がふと、昼間店にやってきた男に見覚えがある、と言い出した
「あたしが家を出る時、一緒に出て行ったお客さんがいたでしょ?あの人、結構テレビに出てたりする脳科学者じゃない?健康番組とかで見るわよ」
「なに?本当に学者だったのか?嫌なやつだったけどな」
「ええ。辛口のコメントが意外に評判なのよ」
「何ていう名前だ?」
「確か、岡村…何とかだったわ」
「ふうん。しかしねえ、脳のことは分かっても、刀剣の事は分からぬ青二才さ」
有名な学者であろうが、あんな男に刀剣の価値など分かるはずがない、と光月は思った。
翌朝午前十時。光月は、店のシャッターに「刀狩りに行ってきます。御用の方は、携帯電話に電話ください」と張り紙をして家を出た。
玉泉堂は、JR神田駅の裏手にある雑居ビルの三階にある。このところ、対面販売よりもネット通販に力を入れているためか、本阿弥美術刀剣のように、刀剣類をショーケースに入れて展示したりはしていない。いわば、倉庫の様なものである。
(あれが血吸刀であれば、とんでもない大不幸が襲いかかる。オークション出品をやめさせねば)
はやる気持ちを抑えて、光月は疾走した。
神田には十分程度で着いた。ビル脇に駐輪し、光月は一息ついて階段を駆け上った。
「自転車こぎの運動力は、侮れないね」
ハーゼー言いながら、三階まで来ると、目の前にかび臭く細長い廊下が現れた。その突き当たりが玉泉堂である。朝日が差さないせいか、朝でも薄暗い。
だが、なぜかいつもと雰囲気が違う、と光月は感じた。根拠はない。肌感覚でそう思うのだ。
(…人の気配がないし、電気が消えている。なんだ、臨時休業か?)
勝手知ったる他人の店、という事もあって、光月はドアノブに手を掛けた。
「なんだ?開いてるじゃねえか」
この時の光月は、その扉一枚隔てた空間に、前代未聞の地獄絵図が広がっているとは予想だにしなかった。
光月は遠慮なく中に入ると、いつものカビの臭いではない異臭が、鼻から胸の辺りを通り抜けた。
「おぇ、何だこの臭いは?それに、床のこの感触…」
足元に、不気味なぬめりを感じた。同時に、全身を寒気が通り抜けた。
「…お、な、なんだこれは…」
その不気味なぬめりの正体が流れ出る先には、小太りの男が血まみれで倒れていた。光月は、まさかと思ってそれに近付いてみると、それは恐れていた通りの光景であった。
血の海のベッドに横たわるのは、玉泉堂店主・玉木泉太郎の変わり果てた姿であった。 眼球が半ば飛び出したままの玉木は、頭蓋骨から喉元まで無残に斬り裂かれ、顔が真っ二つに割れ脳味噌と脳漿が飛び散り、床にはおびただしい血の池が広がっていた。
(遅かった…。やはり古文書の記述は本当だったか…。売りに出しただけで、この様な惨劇に襲われるとは…)
どんなホラー映画でも、この残酷な光景を上回ることはできないであろう。足を一歩踏み入れれば、その血の池地獄から戻れないような気がした。光月の足は、地面に吸い付いたように動かなかった。
しばらくして、ようやく動揺が収まった。光月は、後ずさって、通報しようとしたところに、何かを踏み付けた。
「な…なんだ?変な感触がしたぞ」
光月は慌てて足をどかした。かつてはその主人の身体についていたであろう物が、落ちている。
「う、腕か。斬り落とされたのか?」
血だまりの中に、落ちていたのは、人間の手首だった。おそらく、襲撃された時に自分の顔をかばったのであろう。
光月は、この光景とこの状況を、消化しきれずにいた。何が起こったのか、いや、自分が何しに来たのかすらも、後ずさることも忘れて、血の池の中で硬直していた。
どれほどの時間が経ったか。光月はようやく我に返り、懐から携帯電話を取り出し、一一〇番通報した。
しばらくして、けたたましいサイレンとともに、私服と制服の警察官が多数、血の池地獄と化した玉泉堂に足を踏み入れた。光月は、いったん部屋を出て、廊下で警察官を待ち受けた。
五十過ぎのベテラン風に厳つい男を先頭に、十数人の男たちがなだれ込んできた。男は、現場を一目見て、
「おい篠田っ、緊急配備だ、緊急配備をしろ!そして署で記者会見だっ!凶悪な殺人犯が、鋭利な刃物を持って逃走中、外出は極力控えるように伝えろ!」
若手の刑事に唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。
「は、はいっ!」
男はあれこれと指示をしたのち、呆然としていた光月に話し掛けた。
「神田川署刑事課長の鬼山といいますが、あなたが第一発見者ですか」
刑事独特の鋭い視線を浴びせながら尋ねた。
「え、ああ。神保町の刀剣商『本阿弥美術刀剣』の本阿弥光月です。私が来たときには、既にこんな状況でした」
光月は、これまでの経緯を簡単に説明した。鬼山の背後から、怒鳴られた若手の刑事が光月を覗き込んだ。
「あっ、先生じゃないですか。先生が第一発見者ですか」
「お?篠田君じゃないか?そうか、神田川署の刑事だったのか」
「何だお前、知り合いか?」
鬼山が篠田に言った。
「え、ええ。本阿弥先生は、私の居合の師匠です」
光月は、刀剣店を営む傍ら、幼少期から家伝の神夢想林崎流の居合術を学び、免許皆伝の腕前に達している。林崎流は、居合の祖と呼ばれる林崎甚助が戦国時代に開いた流派で、三尺三寸、刃渡り約一メートルもの長い刀を使う居合術である。
「本阿弥さん、あなた居合を…?」
「え、ええ。家業が代々の刀剣屋で、私も父親から習ってましたので」
「まさか、あなたが?」
鬼山が下から睨み付けた。
「えっ!?なんで私が?居合はやっても、人を斬ったりはしませんよ!」
「…まあ、これだけの鮮やかな切り口。刀剣の扱いに熟達した者の犯行かと思いましてな。失礼しました」
冗談なのか本気なのか、その岩石面からは分からなかった。
署員らが一通りの現場検証をしたのち、変わり果てた姿の玉木は、担架に乗せられて神田川署に運ばれることになった。既に、ビルの周辺には規制線が張り巡らされ、その外側には騒ぎを聞き付けた大勢の野次馬が取り囲んでいた。
現場では、鑑識による現場検証と、聞き込み捜査が始まっていた。第一発見者の光月は、むろん、一番の参考人である。
「この後、司法解剖し、死因を特定するんですがね。まあ、凶器は鋭利な刃物、切り口と現場の状況からすれば、日本刀…以外には考えられませんな」
「ええ、恐らくそうでしょう。私は、人が斬られた所を見たことはありませんが、家伝の秘伝書に書いてある『斬殺体の事』という事項とほぼ一致しています。人間が斬られればどうなるか。そういう事も、先祖は熟知していたようです」
「ほう、そうですか。さすがは歴史上の人物の子孫だけはある。刑事生活四十年の私も、この様な斬殺体はこれが初めてです。気になるのは、現場に凶器が落ちていない事、それに犯人がいまだ逃走中である事。仮に、凶器が日本刀だとすれば、これは恐ろしい事です。猛獣を、この都心に放ったようなものです。いや、都心だけじゃない。東京の中心街の人間全員を、人質に取ったようなものです」
「東京を、人質に…」
逃走中の凶悪犯が、誰を突然襲うか見当もつかない。犯人像も目的も、一切が不明なのだ。無差別に人を襲う可能性もある。
(こりゃあ、えらい事になったな。刀剣の事を聞くどころの騒ぎじゃない)
光月は、全身に粘度の高い汗がにじむのを感じた。
鬼山は署まで来て事情聴取に応じてほしい、と依頼した。光月は、鬼山と篠田に連れられて、神田川署に行くことになった。
雑居ビルを出てみると、野次馬で賑わっていたはずが、人影がほとんどなくなっていた。いるのは警察官と救急隊員、それにマスコミの記者とカメラマンだけだった。光月は、カメラマンのフラッシュを浴びながら、スマートフォンを取り出してワンセグテレビを見てみた。全テレビ局が、この事件を特番として扱っていた。
ふと、あるテレビ局を見ると自分が映っている。
(生中継してんのか?この扱い、まるで犯人みたいじゃねえか)
一瞬思ったが、篠田に促されてすぐさまパトカーに乗せられた。
「先生、この周辺は大パニックになりましたよ。自分たちの周りに、まだ見ぬ日本刀を持った凶悪犯が潜んでいるとなれば、誰だって混乱に陥りますからね。今は皆、帰れる人は帰宅して、帰れない人は職場や学校の中で待機しています」
「ホシは、飛んでもない事をやりやがったな。誰が一体、何の目的であんな残忍な殺し方をするんだ?」
鬼山がつぶやいた。車内は、重苦しい雰囲気に包まれた。
神田川署には十分程度で着いた。休憩も挟まず、光月は事情聴取を受ける事になった。鬼山が、厳しい顔で光月に色々と質問を浴びせてきた。
「殺された玉木さんとは、どういう関係ですかな?」
「玉木とは、刀剣商同士ですから、むろんつながりがあります。モノを融通したり、掘り出し物の情報交換をしたり。刀剣組合の仲間でもありますから」
「今日は、なぜあの店に行ったんですか?」
「玉木が、ネットオークションに出していたある刀の事で、尋ねたいことがあったのです。それで昨日電話したのですが、誰も出なかった。そこで今日、来てみたという訳です」
「ある刀?それは何ですかな?」
鬼山が、茶をすすりながら聞いた。
「それは、備前の古刀で祐定ですが、その特徴が、『人に大きな不幸をもたらす刀』として言い伝えのある刀剣『血吸刀』に非常によく似ているのです」
光月は、家伝の「享保裏名物帳」の写しを取り出して、鬼山に見せた。本来は、玉木に見せるつもりだったものである。鬼山は、怪訝な顔付きをして、のぞき込んだ。
「血吸刀…ですか。まるでオカルトですな。血を吸う刀が、この世にあるとでも?」
「それは、あくまで愛称と言うか、通称ですよ。刀というものは、人を斬ると血がべっとりとつく。振った位では血は落ちないので、普通は懐紙で拭きます。そして砥ぎに出します。そうすれば、血の跡などは残らないのですが、この血吸刀だけは、ある人物を斬ったがために、血の跡が拭っても砥いでも消えなくなった、と言われているのです」
「ふうむ。私は刀には詳しくはないが、そんなものがこの世にあるとはね。」
「私も実物を見たことはおろか、存在を確認したことすらないのです。ただ、姿形はこのオークション品と条件が同じです。血吸刀に、ほぼ間違いないと思います」
「本阿弥さん、これを見てください。あの店に置いてあった刀剣の写真です。この中に、オークション品はありますか?」
鬼山が、写真を十数枚、机の上に並べた。現場検証で撮ったのだろう、多数の刀剣の写真が並んでいる。
光月は、眼を皿のようにしてその写真を眺めた。だが、いすれも、オークション品とは違うものだった。
「違いますね。この中にはありません」
「あの店にあったのは、これが全てなんですよ。仮に、オークション品があの店にあったとすれば、それがなくなっていることになる。他の刀剣には、人を斬った形跡がない。そうなれば、オークション品が盗まれ、その刀が凶器という事になる。ホシは、その血吸刀という刀を狙って盗んだと思われます」
「血吸刀が、凶器に…。それが事実だとすれば、三百六十年前の惨劇が、いやそれ以上の惨劇が、この東京で起こるかもしれません」
光月がつぶやくと、鬼山が厳しい顔をさらに厳しくて、
「三百六十前の惨劇?何ですかね、それは」
と迫ってきた。光月は、少したじろいだ。
「刑事さんは、由比正雪と慶安の変をご存知ですか?」
「…あまり歴史には詳しくないんですがね」
鬼山は眉間に山のような皺を寄せた。殺人事件と江戸時代の話と、関係があるのか、といった表情だ。
光月は、かいつまんで説明した。
慶安の変とは、江戸時代の軍学者で幕臣の由比正雪が慶安四年(一六五一年)七月、槍の名人丸橋忠弥や金井半兵衛らとともに、江戸幕府に対して起こしたクーデター未遂事件である。
正雪は、小石川塩硝蔵を襲って蔵を爆発させ、それを合図に江戸市中に火を放ち、江戸を火の海にする計画を立てた。それに乗じて上水道に毒を混入し、浪人たちで組織した軍勢を率いて江戸城に乱入し、四代将軍家綱を誘拐して駿府・久能山に幽閉して自分たちの傀儡将軍を立てる-という筋書きがあった。
「その正雪が持っていた刀が、この備前祐定なのです。正雪はこの太刀を大事にし、肌身離さず持っていました。いざという時に、将軍を暗殺するのも辞さない覚悟だったのです」
「将軍を暗殺ねえ。戦国時代でもあるまいし、そんな事を考える輩がいたとはね。私なんぞは不勉強の至りですなぁ」
鬼山は、興味なさそうに適当に応えた。
「もう一つ特筆すべきは、正雪が軍学者であり、甲賀流の忍術にも通じていたという点です」
鬼山は下唇を突き出し、その手の話か、という顔をした。光月は構わず続けた。
「江戸城を混乱させるために、獣の力を使おうとした、というのです。当家に伝わる家伝の書によれば、牙に毒を宿した獣を江戸城内に侵入させ、幕臣たちを噛み殺して混乱に陥れるという計画もしていたのです」
ところが、そうはうまくいかなかった。
「実は、正雪がこの備前祐定を手に入れたのは、裏本阿弥家からなのです。表の本阿弥家が将軍との付き合いがあれば、裏の本阿弥家は文字通り闇の武器商人として顔も持っていました。正雪は、江戸城討ち入りを前に裏本阿弥家に刀を求めました。先祖は、備前祐定を売りましたが、その際、正雪はポロリとクーデターの計画を漏らしてしまいました。裏本阿弥を、文字通り裏の人間だと思って、信用したか、利用しようと思ったのでしょう」
「ほう、それで?」
鬼山は、裏切りとか裏とかいう言葉が好きなのか、次第に話に乗って来た。
「さすがの裏本阿弥家も、これは一大事と思い、時の老中松平信綱に報告しました」
「クーデターの密告、という訳だな」
「ええ、まあ、そんなところです。さすがにそんな大事を知った以上、黙っている訳にはいかなかった。事前に計画が漏れたため、松平信綱は密偵を使って、正雪の仲間を割り出し、そのうちの三人の浪人を選んで裏切るように勧めたのです。裏切って正雪の首を差し出せば、命を助け幕臣にする、と言うエサで釣ったのです」
三人は、信綱の言う通りに正雪を裏切り、あっさりと潜伏場所を白状した。
「何ともまあ、どこの世界にも裏切り者はいるもんだな」
「由比正雪の一族の運命は悲惨でした。由比本人は斬首の上に晒されましたが、死の間際に、『我を裏切りし者、未来永劫、九族に至るまで復讐すべし』と言い残して死んだとされています。そして、その一族郎党は女子供に至るまで、皆殺しに遭ったのです」
「ほう、それで裏切った三人は由比正雪を踏み台に、出世したという訳だな」
「出世とまではいきませんが、家を続けられたそうです。ただ、正雪の亡霊に終生、おびえ続けていたとか。そして、正雪の生家とされる場所付近では、正雪だけでなく女子供の幽霊が出るとか。花を手向け、供養をする人が後を絶ちません」
「正雪を斬った刀と言うのが、ひょっとして」
「そうです。その血吸刀、今回の事件の凶器です。正雪は、自分の佩刀を取り上げられただけでなく、その刀で首を斬られたのです。その裏切り者のうちの一人にね。さらに、ここを見てください」
光月は、指を差してここを見ろ、と鬼山に言ったが、鬼山は古文書どころか崩し字すら読めない。
「古文は苦手でねえ、全く分かりませんな」
「斬首された正雪のシャレコウベは、ケタケタと笑いながら『三十周年の後、その刀に乗り移って復讐を遂げてくれん』と言って睨み付けたと言います。クリクリとしていたというその眼が血走ったまま飛び出し、それは恐ろしかったと、家伝書には書いてあります」
鬼山は、ここまで聞いて険しい顔を途端に崩して、半笑いのまま、
「三十周年ねえ。復讐が三十年後としたら、そんなのとっくの昔に終わってるんじゃないですかね。今は江戸時代から百四十年以上、慶安事件から数えても三百六十年後ですよ。所詮は伝説ですね」
と吐き捨てた。だが、光月は至って真剣だった。家伝の書に書かれている事が、事実だとすれば、正雪の遺言が現実のものとなり、復讐が始まったとも取れるのである。ただ、今年は二〇一一年である。慶安事件の三十周年などは当の昔に過ぎている。
(三十周年とは、いったいどういう事であろうか)
疑問が残った。
二人が話し込んでいるところへ、篠田が割って入った。
「課長。解剖の結果、死因は頭部から咽頭部に掛けての切断による失血死、凶器は刃渡り三十センチ以上の鋭利な刃物であると断定されました」
「まあ、解剖するまでもないがな。切断面からは、何か分かったか」
「非常に鋭利な刃物で、恐らくは日本刀であろうとの事です」
「そうか、やはりな。で、何かホシの遺留品はなかったか?」
篠田は、首をかしげながら、小さなビニール袋を取り出した。
「直接的な物証はありませんでしたが、血の海から動物の毛らしきものが出てきました」
「動物の、毛?」
ビニール袋には、確かに人毛以外の毛が数本入っていた。いずれも二、三センチ程度で数本。
「本阿弥さん、玉木さんは犬か猫でも飼っていたんですか?」
「いや、飼ってないと思います。刀剣店で犬猫が暴れたら、大切な商品に傷が付いたりしますし、ホコリは大敵ですからね。普通は、飼わないです」
光月は不思議な感じがした。家伝の書には、正雪は獣を使って江戸城を混乱に陥れようとした、との記述もある。家伝書とはいちいち符合する。
あたかも、正雪の亡霊が、犬猫を使って、殺人の手助けをしているのではないか…という想像が頭をよぎった。
だが、鬼山がそんな伝説めいた言い伝えを信じるはずもなかった。興奮気味に、
「そうか。それは、ホシの手掛かりになるかもしれんぞ。大至急、その毛を科捜研に回して分析しろ!」
大声で篠田に命じた。
「了解しました!」
篠田は、そう言って出て行った。鬼山が、茶をすすりつつ煙草に火を付けた。光月は、煙草の煙に
「署内は、禁煙じゃあないんですか」
煙草嫌いの光月は、煙たそうに言った。
「あ?お嫌いですかな。それは失礼」
鬼山は渋い顔をしつつ、光月に尋ねた。
「まあ、さっきまでの話は、伝説って事で。本題に入りましょう。ホシは、日本刀を扱う事に慣れた人物で、動物と接する事のある人物、という事に絞られそうですな。殺された玉木さんは、誰かに恨みを買ったり、トラブルを抱えていたという事はありませんかね?」
光月は拍子抜けした。自分が説明した家伝の書の言い伝えと、この殺人事件との奇妙な結び付を、この目の前の岩石顔は、全く無視している。
「さぁ、私には思い当たる節が…。ただ、玉木は我々刀剣商の仲間では評判のよくない人物だったことは確かです。ホラ吹きな所があって、色んな所へ出向いては、刀剣に詳しくない所持者から安く買い叩いて、高く売り飛ばす。そんな事をしてましたね」
鬼山は、光月から聞き出した内容をしきりにメモしている。
「それから、刀を扱う事に慣れた人物といえば、本阿弥さんのような刀剣商か、居合をやる人と言うイメージしか我々にはないんですよ。心当たりはありませんかね」
そう言いつつ、鬼山は茶をすすった。光月は、刀剣商と言うだけで第一発見者の自分が疑われているのではないか、と言う気がして、良い気分がしていない。
「…刀剣商の立場で言えば、我々が扱う真剣は一振り数十万円もする商品ですよ。確かに、実用品として斬る事はできますが、確実に傷がつき、売値は暴落します。刀の価値を知っている人間が、わざわざ損するようなことをすると思いますか?」
鬼山は、ふうむ、なるほどねえ、それもそうか、とつぶやいた。
事情聴取は、昼を過ぎ、深夜まで続けられた。
午前零時を回ったため、光月はいったん、事情聴取から解放されて、自宅に戻ることを許された。
(はあー。今日はもうへとへとだ)
ただ、鬼山からは、明日以降も捜査に協力してほしい、と要請があった。精神的にも肉体的にも、光月は疲れ切ったが、これを断ることはできない。東京中を恐怖に陥れている犯人検挙のためには、自分の協力は不可欠であろう。
神田川署を出るころには、頭上に大きな満月が輝いていた。いつもと変わらぬ風景だが、この日は厳戒態勢が敷かれているせいか、ひと気がまるでない。光月も、パトカーで送ってもらう事になった。
(ほんとに、人っ子ひとりいないねえ)
街灯がわずかに揺らめくだけで、店舗と言う店舗は閉められている。
(ここは、本当に東京の街なのかい?信じられないねえ、一人の殺人鬼のために、東京と言う街が麻痺してしまっているよ。まるで、都民全員を人質に取ったようなものだ)
光月の店の裏は、自宅である。家人がドタドタと出てきた。心配したと言って寝ずに起きていた。
「パパ、テレビで見たわよ。まさか、パパが第一発見者だとは思わなかったわ。犯人って、まだ日本刀持って逃げてるんでしょ?怖いわねぇ」
妻の悦子は、そう言って震えていた。
「何言ってる。一番驚いたのはオレだよ。玉木のオヤジとは、つい一昨日会ったばかりだからな。それが、あんな刀をオークションに出したばっかりになあ。あれは血吸刀に間違いない」
光月は、呟くように言った。
「なに?血吸刀って」
光月はしまたっと言う顔をして、慌てて弁解した。
「いやなに、何でもないさ。パパは疲れたから、寝るよ。明日も事情聴取だ」
と言って、悦子をやり過ごした。悦子は、何よ、せっかく起きて待ってたのに、と悪態をついて、寝室に消えて行った。
第二章 二人目の死者
翌日。前日が遅かったせいか、光月は昼近くまで寝ていた。むろん、本阿弥美術刀剣は臨時休業である。そこへ、光月の携帯がブルブルと震えた。神田川署の篠田からだった。
「もしもし、何だこんな朝っぱらから」
「先生、もうお昼ですよ。昨日の聞き込みで分かったんですが、駿河流居合の興津師範をご存知ですか?」
「あ、ああ。あの自分で修業して、山に籠って滝に打たれた結果、居合に開眼したとか言って自分勝手な流派を興して、試し切りばっかりしてるあのオヤジか。それがどうかしたのか」
「その興津師範、大の刀剣好きで、玉泉堂にも頻繁に出入りしているらしいんです。で、どうやら、そのオークション出展品は、玉木さんが興津師範から買い受けたものらしいんです」
「なに?そうか、そういう訳か。元々、ロクに修行も稽古もせず、やたら刀を買い漁って畳表だの巻き藁だの、竹だのを斬るまくるオヤジだからなぁ。居合ってものも、刀剣の価値も、全く分かってないやつだ」
電話口で、光月はため息をついた。あのオヤジなら、刀剣を巡る何らかの口論の果てに激高して、玉木を斬り殺すという事もあり得るかも知れない。
「先生、とにかく私と一緒に興津師範のところに来てください。場所は、御茶ノ水です」
「御茶ノ水…分かった」
光月は、布団から抜け出して着物に着替え、悦子に出掛ける旨を伝え、表に出た。悦子は、なんでこんな日に外出するの、とブツクサ言ったが、何も告げなかった。
一夜明けた都内は、一見して平静そのものだった。普段は、観光客や古書店の冷やかしで賑わう神田神保町界隈も、今日は人影もまばらだ。都心部の小中学校、高校大学まで、全て臨時休校となっている。犯人が捕まるまでは、決して外出しないように、と通達がされている。
「なんでぇ、神保町の街が、死んじまったようじゃねえか。まったく、もしあの興津が犯人だったとしたら、おれもひょっとしたら生きて帰れねぇかもしれねぇな」
光月は、そんな事を思った。今度、店に帰るときは棺桶の中かも知れない、と。
(念のため、脇差でも持ってくか…)
林崎流居合の免許皆伝だけあって、脇差の扱いにも光月は自信があった。それに、刀なら店に売るほどある。だが、揉み合いにでもなって、間違って興津を刺してしまっては、自分が犯罪者になってしまう。
(やめたやめた。いざとなったら、篠田に任せるとしよう。あいつは逮捕術のプロだからな)
人影まばらな都心を、光月は自転車に乗って駆け出した。目に見えぬ恐怖が、背中から襲ってくるようで、常に周囲を警戒しながら御茶ノ水まで走らせた。歩く人も、やはりサラリーマンや運送会社の人たちなど、数えるほどである。
神保町から御茶ノ水までは自転車で数分である。光月は駅近くで篠田と合流した。篠田は、挨拶もそこそこに、小さなビニール袋を取り出した。中には、毛が数本入っている。
「これは、あの現場に落ちていた毛じゃないか?」
「そうです。この毛の正体が分かりました。イタチの毛です」
「イタチ?犬猫かと思ったら、イタチか。なんで玉泉堂にイタチの毛が落ちてるんだ?」
「さぁ、私が聞きたいぐらいです。玉木さんは、イタチを飼っていましたか?」
「犬猫も飼えないのに、イタチなんて凶暴な生物を飼えるわけねぇっての」
「そうですか。ならば、現場に落ちていた以上、犯人の遺留品の可能性が高いですね。イタチの襟巻でもしてたんでしょうか」
篠田は、冗談交じりにそう言った。だが、光月は自分の記憶をたどっていた。
(イタチ…。家伝の書によれば、正雪は獣を使って、江戸城を混乱に陥れようとした、とある。獣、と書いてあるだけで、犬猫とは書いてないからな。イタチ…普通は街中にいねぇよなあ)
だが、重要な手掛かりである事は、間違いないだろう。
二人は、築数十年は経っているとみられる古めかしいビルの前に立った。興津が社長を務める建設会社がある。安っぽい雑居ビルで、三階と四階が興津建設の事務所である。薄暗い階段をのぼりきると、そこが事務所だった。その表玄関に、光月は一瞬怯んだ。
(な…何だこの任侠っぽい事務所。興津さんには会ったことがあるが、こんな人だったのか)
無人の受付から奥の事務所まで、壁一面に「仁義」とか「大義名分」と大書された掛け軸や額が所狭しと掲げてあった。
(先生、いわゆるその筋の人間とは違いますが、それに近いものがある人物ですから)
篠田が、受付の電話で誰かを呼び出した。すると、中年女性がこちらへどうぞ、と出てきた。
二人は奥の応接室に通され、重厚なソファーに腰掛けた。
(ここが社長室のようだが、ヤクザ映画の見過ぎじゃないか、興津さんは)
(まぁ、先生。だから、そういう人なんですって)
出されたお茶をズズっとすすっていると、中から髪の薄い小太りの男が出てきた。五十歳半ばであろう。興津は、座るなり煙草をふかしてふんぞり返った。
「いやぁ、驚きましたな。玉泉堂のオヤジが殺されるとは。しかも日本刀で、唐竹割にするとわねぇ。その筋の人間でも、そんな事はできませんな、あはははは」
篠田は煙を吐き出して笑いつつ、切り出した。
「興津さん。我々の調べでは、犯行に使われたとみられる刀は、どうやら興津さんから玉木さんに渡った物の様なんですが、間違いありませんね?そしてその刀は、本阿弥先生の鑑定によれば、備前祐定の曰くつきの品、という事の様です」
「ふぅー」
興津は、口から再び大量の煙を吐き出しながら、顎をしゃくった。
「そうなんだよなぁ、あの刀は珍品だったんだよなぁ。それを玉木の奴が、安く買い叩いたんだよな」
光月は、耳を疑った。興津は、あの刀の秘密を知っているのか。
「なんですって?興津さん、あの刀が珍品だって事、ご存じだったんですか?」
身を乗り出し、興津の脂ぎった顔を覗き込んだ。
「いやね、玉木が私のところに遊びに来て、私の愛刀をいくつか見ているうちに、これは掘り出し物だ、ぜひとも譲ってほしいと言いだしてね。最初、百万出すって言ったんだ。それじゃあ、売れねえなと言ったところが、じゃあ百五十、いや二百万出すって言い出して」
興津は、煙草の灰を灰皿に落としながら、短い足を組んだ。光月は、煙草の煙を吸わないよう努力しつつ、絞り出すように言った。
「二百万…ですか?あの刀が?私が鑑定したところ、あれは曰くつきの備前祐定で、本来は売買するような物ではないんです。むしろ、博物館か美術館で厳重に管理すべき危険なものですよ」
「ふうん。そうは見えなかったけどね。今度、越前康継の良いのを安く譲るから、どうしてもって言うんで、二百で売ってやったのよ。ところがあいつ、それを一千万でオークションに出しやがった。で、頭に来て、文句言ってやったのよ」
光月と篠田は、顔を見合わせた。
「興津さん、それはいつの話ですか?」
「一昨日の夜。あいつがオークションサイトにアップしたのがその頃。新しい刀が出品されるたびに、コレにメールが入るようにしてあるからな」
興津は、懐から携帯電話を取り出して、その時のメールを見せた。
「成る程…。それで、玉泉堂に乗り込んだ、と言う訳ですか?」
「は?そんな事するわけないだろう。電話したんだよ、電話。そしたら、安く仕入れて高く売るのが刀剣商売だ、なんて抜かしやがって。売れなかったら、そのまま不良債権ですよ、当然のことじゃないですか、と言うんだ。まぁ、そう言われればそうかもしれねえな、と思ってな。康継は飛び切り安くしろ、と念を押したんだ」
光月は、二百万円で買ったものを一千万円で売るのは、多少高いがボッタくりだとは思わなかった。所詮、美術刀剣とはそんなもの、と思っている。モノの価値は、売る側と買う側の需給で決まるのだ、と。一千万円の価値があると思えば、それは一千万円の価値がある。
篠田が膝を乗り出した。
「という事は、玉木は一昨日の夜までは生きていて、昨日五月二十日の未明から昼ごろまでの間に殺された、という事になりますね。興津さん、玉木が誰かほかの人に恨まれていたとか、金銭トラブルがあったという話は聞いていませんか?」
「あぁ?トラブル?さぁ、知らねぇなあ。おれみたいな奴をたくさん客として抱えてたみてぇだから、その中にゃあ、今回みたいに、騙されたって言って、あいつを恨んでたやつもいるかも知れねえよ」
興津は再び煙草の煙を飲み込み、それを吐き出した。
「あの備前祐定をどこで手に入れたんですか?」
光月が前のめりになって訪ねると、興津は含み笑いをした。
「それ、聞く?聞いちゃう?言わなきゃいけねえのかな」
興津はふんぞり返った。
(なんだ、こいつ。ふざけてんのか)
光月は、イラついた。
「興津さん。これは遊びじゃないんです。警察の、事情聴取なんです。正直に答えてください」
篠田が口調を厳しくして言った。さすがの興津も、篠田に睨まれて少し態度を改め、
「まあ、知人から譲り受けたんでね。同じ郷里の蒲原ってやつから」
「カンバラ?蒲原興業の、蒲原さんですか?」
「知ってるのか?」
「え、ええ。警察でもマークしている業者ですから」
「ははは、さすが御見通しか」
篠田によると、蒲原興業の蒲原は、中規模の産業廃棄物処理業者だが、以前に一度、不法投棄で検挙されている。リサイクルすると偽ってテレビを大量に引き取り、山林に廃棄したのだ。
「その蒲原さんは、どこから手に入れたんですか?」
「さぁ、それは蒲原に聞いてくれ」
言いつつ、煙草を根元まで灰にした。そこへ、篠田の携帯が鳴り響いた。
「あ、鬼山さん。え!?またですか?」
篠田の顔色が急に険しくなった。二件目の斬殺体が発見されたという。
「おいおい、また殺人か?勘弁してくれよなぁ、警察は何をやってるんだ?早く犯人を捕まえてくれよな」
「…興津さん。これで貴方の容疑は晴れたかも知れません。殺されたのは…、その蒲原さんですよ」
「えっ?か、蒲原が…」
今まで、人を食ったような態度をしていた興津が、消えかけの煙草をポトリと床に落とした。
「ええ、そうです。例の日本刀殺人鬼が、蒲原さんが朝、江東区南砂の自宅を出たところをバッサリとやったらしいです。むろん、即死だったそうです」
「え、そそ、そうか。ざ、残念だな、蒲原」
興津は思わぬ衝撃を受けた様子で、小刻みに指が震えていた。急に目があちこちキョロキョロと動き始め、貧乏ゆすりが激しくなってきた。
「先生、私は現場に行きます。一緒に来てもらえませんか」
「あ、ああ。構わないが」
篠田は、これ以上の事情聴取は不可能と考え、興津の事務所を後にした。
タクシーをつかまえ、現場の南砂へと二人で向かった。
「先生、興津は蒲原の名を聞いて明らかに動揺していましたね。何か知っているとしか思えません」
「そうだな。この連続殺人、三百六十年前の事件と何か接点がある気がして仕方がない。蒲原と言う名は初めて聞いたが、居合をやる人間なら、大体分かるからな。だとすれば、借金のカタとして誰かから持ってきたのか。いずれにしても、血吸刀の出所が分かれば、犯人との接点が見えるかもしれない」
光月には、もう一つ、気になることがあった。興津に蒲原…どちらも静岡の地名である。さらに言えば、由比正雪も静岡出身である。
光月には、何かつながりそうでつながらない、もやもやとした感覚が残った。
第三章 和服と仮面の男
都内は、パトカーやら消防車、都の広報車が、けたたましいサイレンを鳴らし、あちこち走り回りっていた。緊急事態を告げ、至急屋内に避難し、厳重に戸締りをするよう呼び掛けていた。
「日本刀を持った、凶悪な殺人犯が、都内を徘徊しています。不要不急の外出は避け、不審者に気を付けてください!繰り返します…」
人々は、訳の分からぬまま、職場に閉じこもったり、家で、この状況を生放送するテレビにかじりつく事を余儀なくされた。
光月は、何か夢の中にでもいるような気がしていた。つい一昨日まで、ただの暇な刀剣店の主人だったのだ。それが、東京中を、日本を揺るがすような大事件の中心人物になろうとしている。
蒲原の自宅は、閑静な住宅街の中にあった。高い塀で囲まれ、上には鉄条網。重厚な鉄扉には、セキュリティー会社のステッカーが貼ってあった。相当、誰かに恨まれているのか、用心しているのだろう。
蒲原は、この自宅前で車に乗ろうとしたところを何者かによって、左肩から右の乳辺りまでを袈裟切りにされて死んだという。
光月たちが到着したころには、死体は片付けられていたが、現場にはおびただしい流血の跡が残されていた。光月と篠田は規制線を乗り越え、蒲原の豪邸内に入って行った。室内では、蒲原の妻が鬼山から事情聴取を受けていた。蒲原の妻は、突然の惨劇に動揺を隠しきれず、泣きながら、鬼山の詰問にたどたどしく答えていた。
「それで奥さんは、犯人の姿を見たんですね?その逃げた男というのが和服だったというのは、どういう事ですかな?」
「和服は和服です。袴と、それに坂本竜馬みたいな格好をしていながら、凄く細身でした」
「竜馬?あの、幕末の?あの写真みたいな格好ってことですか?」
見れば、女は和服に縁のないようなケバい服装である。明らかに成金趣味な感じだ。和服であれば、どんな服装でも竜馬に見えるという事だろう。だが、竜馬に比べて身体つきが華奢で、服の中に体が泳いでいるような印象だったという。
「それで、ギャーっていう叫び声を聞いて、表に飛び出したら。主人が倒れていて、お面を被った男が、血の付いた日本刀を片手に、立ってたんです…。あたし、びっくりして腰が抜けたんです」
「やはり凶器は日本刀か。で、お面とは、どんなお面ですか?」
「見た事ない…。お爺さんみたいな顔でした」
「お爺さん?」
光月の脳裏には、お爺さんの面と言えば、能の翁の面が思い浮かんだ。
(凶器は日本刀、血吸刀にほぼ間違いない。それに、顔を隠すために能面…か。興津に蒲原に、能面。もしや)
光月は、懐から家伝の裏名物帳を取り出し、血吸刀のページを改めてめくってみた。
(この刀は、由比正雪が佩刀なり。由比正雪は駿河の人なり。正雪、能を好みて之を見る。それ大いに共感せるところありて、己が兵法に之を取り入れる…とある。そして、由比正雪を裏切って、幕府に密告した男の名は…。興津弥太郎に蒲原藤右衛門…。間違いない、やはり家伝の書の通りだ。殺された蒲原は、この男の子孫に違いない。そして興津も。)
絡み合った糸が、少しずつほぐれて来るような気がした。三百六十年前に由比正雪を裏切った男たちの名が、血吸刀と奇妙な関係性を持って浮かび上がってきている。
(犯人は、本当に由比正雪の怨霊となって、復讐を遂げようとしているのか?だとしたら、まだこの連続殺人は終わらない。正雪を裏切ったのは三人。興津に蒲原、そして…)
光月は、慌てて次のページをめくった。
(あった。島田…島田寅之助。この伝書の通りに犯人が行動を起こすのなら、三人目は、島田という人間になる。それにしても、家伝の書によれば、復讐は慶安事件の三十周年ということになっている。それが三百六十年後の二〇一一年というのは、一体どういう事だろうか?まあいい。今は島田の方が先だ)
光月は、家伝の書を閉じて懐に仕舞った。
「奥さん、島田と言う男をご存じないですか」
「島田…さんですか?知ってます。確か、獣医か何かをしてたと思いますが」
光月は眼を見張った。それが本当ならば、次のターゲットはこの島田であろう。
「本当ですか?いま、島田はどこで何をしているんですか?」
「確か、吉祥寺あたりにいたと思いますが…」
「吉祥寺で、島田…。確か、島田動物病院というのがあったが、それの事ですか?」
篠田が思い出したように尋ねた。光月は不思議に思った。なぜそんなローカルな事を知っているのか。
蒲原の妻は、俯いたまま唸った末に、
「そんな気もします」
とだけ言った。
「篠田、やけに詳しいな」
「ええ、私はあの辺りに住んでいるんです。評判の動物病院で、連日お客が絶えないとか。そういえば、猫や犬の他に、イタチなんかもよく運び込まれているって噂ですね」
「イタチ?そういえば、二つの殺人現場に落ちていたのもイタチの毛だったな。何か関係があるのかも。鬼山さん、我々は吉祥寺に向かいます。ひょっとしたら、次に狙われるのはその島田かもしれません」
だが、鬼山は憮然とした表情で言った。
「本阿弥さん、疑う訳じゃありませんが、その家伝の書とやらは、本当に信用できるんですか?当てずっぽうで捜査しても、時間の無駄なんですがね。その島田とやらも、事件と関係があると言えるんですかね?」
鬼山は、古文書を頼りに、事件の筋書きを立てる光月が、どうも気に入らないらしい。島田という人物も、捜査線上に出ている訳ではない。ただ、古文書にその名があり、蒲原の知人に同じ名前の人間がいると言うだけの事だ。
改めて指摘されると、光月も事件と古文書の記述に関係があるとは言い切れない。
「確かに、断言はできないかも知れませんが、正雪ゆかりの刀が盗まれ、ゆかりの人物が殺されている。無関係、とも言えないのではないでしょうか」
それに篠田が付け加えた。
「先生の古文書に、正雪は『獣を利用して江戸城を混乱に陥れようとした』という記述があるそうです。事実、現場からイタチの毛が見つかっています。これは私の勘ですが…犯人が、あえて先生の古文書の記述通りに行動している、と言えなくもないと思います」
二人にそう言い切られて、鬼山はしぶしぶ承諾した。
「まあ、さっさと帰って来いよ」
南砂の現場を後にした光月と篠山は、東西線に飛び乗り、中野で中央線に乗り換えて吉祥寺で下車した。
「先生、こっちです」
駆け出す篠田に、光月は息を切らせながらついて行くと、篠田の携帯が鳴った。
「え?そうだ、今現場に行くところだが。なに?イタチの毛の出所が分かったって?」
鑑識からの連絡らしい。篠田は、しばらく話し込んだのちに、光月にその内容を告げた。
「先生、どうやら現場に落ちていたイタチの毛は、かなり知能の高い種類の特別なイタチで、動物実験用だそうです。しかも流通ルートはごく限られています」
流通ルートが限られ、それを持つ者が特定できれば、犯人である可能性は非常に高い。
「それは、どんなルートだ?」
「その出所は、全て島田動物病院のようです」
「え?動物病院が、実験用生物を卸すのか?」
「ええ、私も知りませんでしたが。この医院長の島田という男は、裏稼業として実験用動物を大量に仕入れて、あちこちの医大やら研究所にばらまいていたそうです。その中でも、帝都医科大学のある教授と懇意にしていて、例のイタチを帝都医大に高値で卸しているとの事です」
光月は知らなかった。動物病院と医大の奇妙な関係を。
「そして、そのイタチを仕入れていたうちの一つが、帝都医大の大脳生理学研究室の岡村正幸教授ですね」
「岡村?大脳生理学…?どっかで聞いたような」
光月は、記憶の糸をたどってみた。岡村…大脳生理学…。
(もしや、あの冷やかしでウチの店に来たあの客か。あの男が、まさか?剣が嫌いで、とても人をあんな風に斬るようには見えないが…)
偶然の一致、という事も考えられる。光月は、ひとまず胸の内に仕舞い込んだ。
島田動物病院は、JR吉祥寺駅から少し離れた閑静な住宅街の中にあった。近所では評判な動物病院らしく、医院長の島田の人柄の良さが、多くのペット愛好家を引き付けるらしい。
「立派な構えですね」
「そうだな、さすが繁盛しているだけはある」
二人が受付に入ると、動物特有の臭いが鼻孔を刺激した。待合室には、平日の昼間だというのに、患畜を抱えた有閑マダムらしき人々が多数、心配そうにペットの犬猫を撫でていた。
受付で、篠田がこっそりと警察手帳を見せつけ、来意を告げると、受付の女性は当惑しながらも、島田を呼びに行った。
島田は、診察の真っ最中だった。
「先生は、いま手が離せません」
女性は、診療時間終了後に改めて来るよう、二人に告げた。
(先生、身の危険が迫っているかもしれないというのに、呑気なものですね)
(そりゃそうだ。誰しも、自分がもうすぐ殺されるとは思わないからな)
二人は、夕方まで待つことにした。
人とペットの気配のなくなった動物病院で、二人はようやく島田に会う事ができた。島田は、五十歳ほどの紳士的な男で、口と顎に流行の髭を生やしている。
「…そうですか。驚きましたね、蒲原が殺されたって、本当ですか?」
「蒲原さんや興津さんとは、どういう関係ですか?」
「いや、祖父の代からの付き合いですよ。元々、私たち三人は静岡の出ですから。祖父の代に上京して、静岡県人会をつくりましてね。それ以来、役員をやったりで、家族ぐるみの付き合いが続いてます。それがこんな事になるとは…、残念です」
島田は、今にも泣き出しそうな顔をして、うなだれた。
「由比正雪と慶安事件については、ご存知ですよね?」
光月がそう尋ねると、島田は目を逸らして不機嫌な顔をした。
「ええ、もちろん。知りたくもないですが、知らざるを得ないですから。我々三家族は、あのお陰で、地元では長い間、後ろ指を指され続けてきたのです。正雪の生家には幽霊が出て、我々に復讐すると言って消えるとか。ですが、三百六十年も前の話ですよ?もう、とっくの昔に時効じゃないですか」
そりゃそうだ、と光月は思う。だが、現実として正雪ゆかりの人物が、ゆかりの刀剣によって殺されている。無関係ではあるまい。
「偶然の一致、という事もあります。蒲原さんが誰かに恨まれていたとか、そういう事はありませんか?刀剣の売買を巡って揉めた、という話を興津さんから聞いていますので」
「刀剣?ああ、あの祐定の事ですか。あれは、私の父がある人物から借金のカタにもらったものでね。蒲原さんが欲しいと言うから、譲ったのですよ」
「そう、そのある人物とは誰ですか?」
光月が身を乗り出して聞いた。そのある人物こそが、事件の鍵を握る人物であろう。
「さぁ。そんな事は知りません。父も語りませんでしたし」
「そうですか…。なら、島田さんが卸しているイタチについて伺いますが、帝都医大の岡村教授はご存知ですか?」
「ええ、知ってますよ。私は仕事柄、ペットや実験動物を売ったり買ったりという事をしていますから。そんな事が縁で、岡村先生から、知能の高い実験用のイタチを安く譲ってくれないか、という依頼があったのです」
「それで、イタチを卸すようになったと」
「そうです。ただ、ほかにも数か所、同じイタチを卸していますから。でも、なぜ岡村先生の事をご存じですか?何か、事件と関係でもあるんですか?あの人は、人を殺すような事ができる人ではない。運動もしたことがないらしく、少しとっつきにくいけど、温和な方ですよ」
島田は、コーヒーをすすりながら、そう答えた。気まずい雰囲気が、三人を支配したところへ。
トゥルルルル トゥルルルル
篠田の携帯が鳴った。
「はい、いま吉祥寺ですが。やはり、殺された蒲原さんの知人の島田さんは、この方でした。それで、え?何ですって?それは、本当ですか?」
と言ったきり、篠田が固まった。何かを声に出そうとしているが、それが出てこない風だった。
「分かりました。ちょっと、信じられませんね。私もこんな事は初めてです。すぐ現場に行きます…」
「どうしたんだ、一体?顔色が悪いぞ」
光月が篠田の顔を覗き込むと、篠田は無表情にポツリとつぶやいた。
「興津が…死にました」
「なに?また、殺されたのか?」
「え、いえ。自殺だそうです」
「自殺?ついさっきまで、そんな素振りは全くなかったぞ?いったいどういう事だ?」
「私にも、分かりません。何がなんだか。十年以上刑事をやってますが、こんな事は初めてです。次から次へと、人が死んでいく…」
篠田は明らかに動揺していた。二人の会話を見ていた島田も、篠田にどういう事か尋ねたが、篠田はよく分からない、を繰り返すだけだった。ついに島田は怒り出した。
「もういいです。お引取りいただけませんか?私も、それが事実なら興津さんに連絡を取りますので」
「ええ、分かりました。ただ、犯人はあなたを狙っています。くれぐれも、戸締りを厳重にして、見知らぬ人間と会わぬよう、決して外出せぬようにしてください」
光月は、島田に重々言い聞かせ、島田動物病院を後にした。島田はムスリとして、分かった、とも言わなかった。
帰り際に篠田は眉間にシワ寄せ、口をへの字にして、呟いた。
「興津は、蒲原が殺されたと聞いたとき、明らかに動揺していました。あれは、何かを知っていたとしか思えません。興津は、それを恐れて自ら命を絶ったと考えられます」
「興津さんは、どんな死に方をしたんだ?」
「ピストルで、頭を撃ち抜いたそうです」
こんな風に、と言って篠田は右の人差し指をこめかみに当てた。
「しかし、それだけで自殺するような動機になるだろうか。殺されたって死なないような、大胆不敵な男なのになあ」
光月は首をひねった。
御茶ノ水の興津建設の社長室が、自殺の現場だった。二人が到着した時には、まだ死体がそのままだった。
興津は、ソファーに腰掛けたまま、息絶えていた。右手には拳銃を持ったままだ。鬼山が、関係者に事情聴取をしていた。
「おお篠田か、遅いじゃねえか。こりゃ、参ったな。あの血吸刀に関係のある人間が次々と死んでいく。どういう事ですかな、本阿弥さん?」
「いや…それは私にも分かりませんが、一つ言える事は、死の間際に由比正雪が言った事が、次々と実現しているという事です」
「ああ?本阿弥さんの家伝の書とやらに書いてある三十周年の復讐っていうやつですか?さっきも言った通り、江戸時代から百四十年以上経って…」
「いや、鬼山さん。三十周年とは、干支の事じゃないですか?慶安事件は慶安四年、つまり一六五一年に起きています。三百六十年前の事です。三百六十年は、干支で数えれば十二×三十周年となります。今年は慶安事件から三十周年目に当たります」
そう言いながら、光月は、ある物を探して床を見渡した。小さなものが、目に付いた。
(これは…ひょっとして、あれか。ちいと臭いが、拾っておくか)
そのままそれを拾い上げ、ポケットの中に仕舞い込んだ。鬼山は、少し考えて光月に言った。
「じゃあ、あの古文書に書いてあることは、予言だって事か?」
「そうとも言えますし、誰かがその通りに実行している、とも言えるんじゃないでしょうか」
「誰かが、古文書の通りに行動を?それは一体、誰ですか?」
篠田が腕組みして言った。
「現場に落ちていたイタチの毛というのが、重要な手掛かりですね。島田動物病院が、イタチを売った関係先を一斉に捜索すれば、必ずホシを上げられますよ!」
篠田がりきんで言った。だが、光月は首を横に振って、
「いや、その必要はない。私には、あの殺人鬼が誰なのか。およそ見当が付いている」
静かに断言した。
第四章 本当のターゲット
「え?先生は、もうホシの目星がついたんですか?」
「ええ。自殺と見せかけて殺された興津さんを含め、三人もの人間を地獄に送った男の正体がね」
鬼山と篠田の視線が、光月の両目に注がれた。鬼山が、その岩石顔を近付けて言った。
「ほう、興津は自殺じゃない。ならば、どうやって殺されたんですかね?そして、犯人は誰ですかね?まさか、由比正雪の亡霊って訳じゃないでしょうね?」
「今から、その男の元に行きたいと思います。犯人は驚くでしょうけど。最後のターゲットであるこの私が、自ら赴くのですから」
「えっ?先生が?なぜ?」
「家伝の書によれば、由比正雪が乗り移った血吸刀は、裏切った三人を殺して復讐を遂げる事になっている。だが、その先がある」
そう言いつつ、光月は家伝の書を取り出した。
「このページが…。墨がにじんで、引っ付いて離れなかったのが、ようやく剥がせた。温めると、こうやって剥がれるんだよな」
光月は、ペリペリと剥がしながら指差した。
「これを見れば、分かる。『最も憎きは、公儀に密訴せし裏本阿弥なり。死して後、必ずや本懐を遂げん』と。一番憎いのは、懇意にしていながら幕府に密告をした裏本阿弥家の本阿弥光紗、である、とね。犯人は、既に正雪を裏切った二人を始末した。そして、次は島田のはずでしたが、我々が島田に気付いた事で、一時的に頓挫した。犯人は、この復讐劇を邪魔する私を、いっそう邪魔者に感じた事でしょう。元から、最後の標的は私だったはずが、繰り上がって次のターゲットにする、という感じでしょうか」
そう言って、光月は家伝の書を閉じて、歩き始めた。
「先生、どこへ行くんですか?」
「篠田、もう分かっているだろう。帝都医科大学の岡村研究室だよ」
「え?確かに帝都医大の岡村教授はイタチを仕入れているようですが。岡村教授は、人を殺すような人物じゃないという話です。それに、ガリガリの痩せ男で、ペンと箸より重い物が持てないと言った人物です。いくら日本刀が斬れると言っても、大の大人を真っ二つに出来るとは到底思えません」
篠田が、興奮した口調で言い放った。
「そうだなぁ、確かにな。岡村は事件前、私の店に来ているんだよ。で、何かを物色している様子だった。多分、血吸刀を探してたんじゃないかな、と思うんだ」
「岡村が、血吸刀を?なぜですか?由比正雪の子孫だとでも言うんですか?」
「そうだ。彼こそが、由比正雪の唯一の生き残りの子孫だよ。一家が皆殺しに遭う前、正雪の妻は庭の裏にあった空井戸に、一人の赤子を投げ込んで逃した。その子孫が、彼なんだよ。正雪の名字である由比というのは通称で、元は岡村と名乗っていた。駿府の国の由比に住んでいたからな。だから、本来は岡村正雪なんだよ」
篠田は、しばらく光月の顔を見詰めていた。
「先生、探偵並みの推理ですね」
感心して言うと、光月は、よせよ、と言って口をつぐんだ。
「あくまで推理だけどな。まあ、行ってみれば分かるさ」
二人は、タクシーに飛び乗った。既に、陽は落ち、あたりは暗くなっていた。
帝都医科大は、四谷にある。二人はタクシーを拾い、急行することにした。
「先生、興津が自殺じゃないって、どうして分かったんですか?」
「これ、見たか?」
タクシーの車内で、光月は小さなビニール袋を取り出した。中には、小さなゴマ粒の様なものが入っている。
「…これは何ですか?」
「イタチの糞だよ。小さいだろ?五ミリしかない。興津の自殺現場に落ちていた」
「イタチ?」
「多分、そのうち興津の体内から出てくると思うが、興津は自殺するように仕向けられたんだ。イタチにね」
はあ、と篠田は聞き返した。光月の言う事が、次第に訳が分からなくなってきている。
「家伝の書には、正雪は獣を使って江戸城を混乱せしめようとした、と書いてある。ご先祖様が注釈で、『正雪が斬首された後、懐からはイズナが出でて来て、いずこともなく消えた』とある。イズナとは、イタチの事なんだよな」
「正雪は、イズナを飼い慣らして、武器にしようとしてたって事ですか」
「そうだな。犯人は、それを見習って獣を使って殺人を可能にしたのさ。イタチは体が細身な割に凶暴で、人を噛む性質がある。イタチの歯に神経毒を含ませて興津の部屋に侵入させ、興津を噛ませて神経を狂わせ、発作的に自殺するように仕向けた。それができるのは、高度な医療知識のある人間だけだ」
「高度な医療知識…。それがあるのは、医者って事ですか。しかも、大学病院の医師」
「医師と言うよりは、研究者だな。岡村は大脳生理学の権威だと言うからな。ある種の幻覚作用のある毒か麻薬を注射すれば、発作的に自殺をさせるくらい容易な事だろうよ」
そう言っているうちに、タクシーは四谷の帝都医科大学に着いた。既に、学生の姿はないが、まだ多くの研究室の灯りは点っている。
「ホームページによれば、岡村の研究室は、あの部屋だ」
目の前にそびえたつ二十階建てのビルの一室を指差した。幸いにして、その部屋の灯りは消えていない。
エントランスは節電の為か真っ暗で、エレベーターの灯りだけが暗闇に浮かび上がっていた。エレベーターで十二階に上ると、そのフロアはまだ人の気配がした。
「大学って、驚くくらいにセキュリティが緩いな」
「そうですねぇ、自由で開かれた空間ですからね」
光月はいとも簡単に侵入できてしまう事に驚きを感じながら、一番奥の突き当たりの部屋の前に立った。入り口には、「岡村研究室 学生の無断入室を禁ず」と書いてある。
「岡村さん、いらっしゃいますか?」
篠田がノックした。中には、人の気配がする。
「誰だ?こんな夜中に?」
無愛想で、不機嫌そうな声で返答があった。足音がして、ドアノブをひねる音が聞こえると、目の前に、本阿弥刀剣店を冷やかしに来た男が白衣で立っていた。
「岡村さんですね。神田川署の篠田と言います。ちょっと、お話良いですか?」
篠田が、足をドアの内側に差し入れた。岡村は、鬼の形相で篠田を睨み付けた。
「警察?警察が何の用ですか?いま実験の最中なんでね、帰ってもらえますか?」
岡村はドアを閉めようとした。が、そこは篠田が一枚上手だった。
「ちょっと、数分で終わりますんで。玉泉堂の玉木さん、興津建設の興津さんの事件、それと、蒲原さんの自殺についてですよ。何か、ご存じないですか?」
「知らないっ、知るわけない!私は忙しい、帰ってくれっ」
必死でドアを閉めようとする非力な岡村が、警察官の篠田に勝てるはずがなかった。しばらく揉み合いの末、岡村は息を切らして、
「わ、分かった。分かりましたよ、中に入ってください。ただ、私は決して事件とは関係ありませんので」
岡村が折れて、二人を研究室内に招き入れた。室内は、難しそうな本と、人体標本、それにパソコンやらのOA機器があるだけの、ごく一般的な研究者の部屋といった感じだった。
「まあ、座ってください。秘書がいないんでね、お茶も出せませんが」
「…大学の先生ともなると、秘書もいるんですか」
二人は、興奮を抑えながら、ソファーに腰掛けた。岡村がドアを閉めた時、鍵を掛けたことに、二人は気付かなかった。
「まあ、研究費が潤沢ならね。さ、どんな用ですか。私は、人殺しなんてできませんよ。見ての通り、こんなガリガリで筋肉もありませんから。犯人は、日本刀で人を真っ二つにするような人で屈強な男でしょう?見てください、この手を。日本刀を持つような手ですか?」
そう言いつつ、両手を出した。
篠田は、思わずその両手を掴んで、じーっと見た。
「見たところ、血豆もない…」
これと言って、運動をしているような手付きでもない。そこへ、光月が割って入った。
「岡村さん、島田動物病院からイタチを仕入れてますね?これまでの殺害現場には、必ずイタチの毛が落ちていたんですよ。何か、知りませんかね?」
岡村は、出していた手を引っ込めた。そして天井を見上げ、
「イタチ?さぁ、イタチねえ。ひょっとして」
白衣のポケットに手を突っ込み、
「これの事かっ!?」
と言って、懐から何かを取り出して、篠田に向かって投げ付けた。
キィーイイイ
素早い物体が目の前を通り過ぎたかと思えば、それは篠田の首筋に噛み付いていた。
「ははは、どうだ?利口な子だろう?他の犬猫とは比べ物にならないね、この速さは!」
飛び出したのは、やはりイタチだった。篠田は、夢中でイタチを振り払うと、毛がパラパラと落ちた。すると、篠田は急に苦しみだした。
「うう…。な、何かおかしい。頭が、割れるように痛い、痛い、痛いっ!」
両手で頭を抱え、揺さぶる様に振っている。光月は、篠田の肩を抱いて、
「篠田に何をしたっ!」
「ははは、簡単な事。脳が割れるように痛くなる劇毒をこの牙に仕込んで与えてやったのよ。大概の人間は、この痛みに耐えかねて、自ら死を選ぶ。あの男の様にな!警官を消すのは余計だったが、邪魔する者には消えてもらうしかない」
「やはり、お前だったか。現場に落ちていたイタチの毛、糞。そして死体から検出された神経毒。すべて、このイタチの仕業か。古文書に書いてある通りだな。由比正雪の末孫たるお前が、なぜ平成の世になっても復讐をする?先祖に咎があったとしても、彼らは関係ないだろうが!」
光月は、立ち上がって指差した。
「関係ない、だと?あの三人に裏切られ、孤児となった私の祖先。だが、それだけなら歴史の闇だ。ところが、あの三人は、その子孫でさえも、我々に仇なす極悪人どもだ。それを地獄に送ってやって、何が悪いんだ?裏稼業の本阿弥さんよ」
岡村の声と顔には、憎悪の念がこもっていた。
「子孫が?いったい何をしたって言うんだ?」
「…知らないだろう。私の父が、興津と蒲原、そして島田にどれだけの苦汁を舐めさせられ、挙句の果てに死に追いやられた経緯を…」
岡村は、訥々と語り始めた。
岡村の父親は、郷里の静岡で興津と蒲原、島田の父親の三人組と偶然にも同じ高校に通っていた。むろん、三百年以上も前の因縁などは全く知る由もなかった。
朴訥で純粋な岡村の父は、三人と表面上友好な関係を保っていた。
だが、根っからの悪人である興津と蒲原、それに舎弟の島田は高校卒業後、土地取引で儲けが出るから、連帯保証人になってくれと言って岡村の父を騙し、金を支払わずに逃走。
悪い筋から引っ張ってきた金だったため、岡村の父は激しい取り立てに遭った。
「幼い私と、母の苦しみがどれほどのものであったか。知る由もあるまい。律儀な父は、それでも騙された事を恨みもせず、コツコツ借金を肩代わりしたのだ。だが、違法な利息は雪だるま式に増え、ついには…。父がやっとの思いで手に入れたわずかばかりの土地建物だけでなく、家財道具一式を巻き上げてしまった」
岡村は、眼に涙をにじませていた。
「それだけじゃない。その中に、明治時代になって徳川家から由比家に返納された備前祐定があった。ところが、取り立て屋は『珍しい刀だ。利子ぐらいにはなるだろう』と言って、父の留守中にそれを借金のカタとして取り上げてしまった」
岡村の目から、一筋の涙が零れ落ちた。それを所有したのが、島田動物病院の島田の父だったという事であろう。
「私が小学校から帰った時、あの日の事は今でも忘れない。厳格でありながらも優しかった父が、泣きながら私に詫びた。徳川家に敢然と立ち向かった勇気あるご先祖様の刀を、盗まれてしまった、とね。『こうなった以上は、申し開きが立たない、死んで詫びるしかない。父の潔い死に様を、その目に焼き付けよ』と言って、父はそのまま私の目の前で、腹を切って死んだのだよ」
そこまで語り終えたところで、苦しんでいたはずの篠田が、立ち上がった。
「…岡村さん。そういう事だったのか。それで、祖先の故事と結び付けて、復讐を思い立った訳だな。だからと言って、二人も三人も人を殺して良い道理はないぞ」
岡村は、驚いて篠田を見た。
「な?なぜだ、なぜ起きてくる?あの神経毒は、解毒剤を飲まなければ症状は改善しないはずだ。それこそ、死を選ぶように」
「解毒剤を飲まなければ、の話だな。既に興津や玉木の体内からあの神経毒が検出されてるんでね。科捜研で分析して、解毒剤を用意してもらってたんだよ。だが、玉木はあくどいヤツだとはいえ、貴方に恨まれる覚えもない。殺す必要はないだろうが」
「ふん。父の形見を、金づるにしようとするカスに、生きる資格などはないんでね」
光月がすかさず割って入った。
「あなたにとってカスでも、私にとっては刀剣商の仲間なんですよ。それに、何の罪もないでしょうが…」
「あんたは、刀剣は芸術品だとか、魂だって言ってたな?私にとって、ご先祖の刀は魂に等しいんだよ。それを、金儲けの道具にしただけで、十分な冒涜だとは思わないか?それとも、あんたも、金儲けの道具としか思ってないのか?」
岡村は、鋭い目つきで光月を睨み付けた。光月は首を振った。
「刀剣は、私にとって人生そのものさ。祖先から受け継いだ血と、刀剣鑑定士として魂。私にとって刀を見極め、それを手放すと言うのは、我が子を手放すのと同じ事。その代償として、わずかばかりの金銭を得るだけさ」
光月はぽつりと言った。そして続けた。
「お前の父や祖先の由比正雪も、この様な復讐は望んではいないだろう。例え騙され、自害したとしても、己の生き様に誇りを持って生きよ、という事を伝えたかったんじゃないか?違うのか?」
岡村は、眼をそむけて口をつぐんだ。沈黙が、小さな研究室を支配した。その静寂を打ち破ろうと、篠田が岡村に尋ねた。
「岡村さん、あんたは確かに運動経験もなく、ましてや、居合の経験もない。だが、なぜあのように人を真っ二つにするような芸当ができたんだ?」
「…そんな事か。私にしてみれば、実に簡単な事。大脳生理学に基づき、脳にある種の刺激を与えてやれば、普段の倍以上の力が出る。さらに言えば、映像を目に焼き付ける事で同じような動きができるようにもなる。これこそ私が大脳生理学を学んだ理由なんでね。人間は、脳さえ開発すれば苦しい練習などは無用なんだよ。これこそが、私の研究の成果『大脳開発術』の真髄だ!」
岡村は、ソファーに沈み込み、右手をだらりと垂らし、床を触った。光月は、その怪しい動きを見逃さなかった。
「だから、いとも簡単に血吸刀を操ることができたって訳か」
「そうだ。そして今、その成果をここで示すことになる。最後のターゲット本阿弥光月、覚悟しろっ!」
岡村は、ソファーの裏に隠してあった日本刀を取り出し、にわかに鞘を払い、光月目掛けて斬り付けた。血吸刀であろう。
「せっ、先生!」
その刹那、篠田が光月に体当たりを食らわせ、光月は床に倒れ込んだ。わずか数センチの差で白刃の餌食にならずに済んだ。だが、篠田は肩口に鋭い一撃を浴びだ。
「し、篠田っ!」
篠田は、倒れたまま動かない。
「おのれっ、何人殺せば気が済むんだ!」
光月は、懐に忍ばせてあった脇差を抜いて、狭い研究室内で岡村と対峙した。
「ふはははは。この血吸刀と私の大脳開発術の前には、小手先の動きは通じないぞ。本阿弥家は代々日蓮宗だったな。念仏じゃなくて、南無妙法蓮華経でも唱えろ!」
岡村は、明らかに素人のはずだった。鍛錬の形跡も見えない。だが、その構えは玄人でも真似のできない位に隙がない。
(こいつ…偉そうに御託を並べるだけあるわ。だが、ここはおれの方が有利だな)
光月の五十センチそこそこの脇差と、一メートル以上の岡村の刀。圧倒的に不利なはずである。だが、光月には勝算があった。
(この狭い室内では、大刀はかえって不利)
振り回せば、天井や壁に当たるだろう。その時がチャンスだと、光月は隙を伺っていた。互いが互いのわずかな動きを注視し、どれほどの時間が経っただろうか。
(こうなれば、持久戦だ。精神力の勝負だ)
光月は、できうる限り相手を見据え続けた。居合で培った集中力だ。反対に、岡村は集中力が途切れてきた。約一キロある日本刀を構え続けるのには、力が必要だ。本来、持つことすら容易ではない岡村にとって、それは苦痛であった。所詮は文字通りの付け焼刃なのであろう。
岡村の剣先が、急に少し下がった。光月は、それを見逃さなかった。
「今だっ!」
光月は、身を低くして岡村の懐に飛び込み、鳩尾を脇差で突き刺した。
「うごっ」
声にならぬ声を肺から漏らして、どさりと岡村は倒れ込んだ。
その音に気付いたのか、篠田が起きてきて、倒れた岡村をのぞき込んだ。
「せ、先生!殺しちゃまずいですよ、凶悪犯とはいえ、生かして裁かなければ…」
「…安心せい、峰打ちじゃ…じゃなくてな、これは刃挽き、斬れない刀さ」
見れば、どこにも流血の跡はない。光月の突きが見事に決まったため、岡村は気を失っているだけだった。
「岡村…考えてみれば運命に翻弄された哀れなやつ。下手すれば、私も彼に殺されていたかもしれない。だが、これでようやく、彼も復讐という名の呪縛から解放されるだろう」
光月と篠田は、気を失った岡村を抱え起こした。篠田は、署に連絡し、連続殺人事件の犯人逮捕を告げた。
警察官に両脇を抱えられ、パトカーに乗せられるその姿は、凶悪な殺人犯には見えない。光月は、その背中を見ながら、胸が締め付けられる思いがした。
(…不幸な境遇にありながら、大学の教授にまで上り詰めたというのに。だが、彼の心は、幼い時の記憶の呪縛からは解き放たれなかったのだろうな。こうするしか、彼には救いがなかったのだろうか)
光月は自問自答した。岡村の姿を見るのは、これが最後であろう。現行の法律では、二人殺せば死刑である。正確には三人を死に追いやっている。
「先生のお陰で事件が解決したようなものです。これで、東京の街も安心して歩けるようになりますね」
「あ、ああ。そうだな」
光月は複雑な気持ちがした。果たして、本当に悪い人間は誰だったのだろうか。
現場を出るころには、既に夜が明け始めていた。光月は、大事な事を一つ、思い出した。
「そうだ、血吸刀を鑑定せねばな」
「駄目ですよ、あれは裁判の証拠として警察が預かります」
「いやぁ、何で血の跡が消えないのか、私も知りたいんだよ。頼む篠田、あれを貸してくれ!」
「先生、いい加減にしてください!」
光月は岡村が殺人罪で起訴された後、望みは極めて薄いと思いながらも、この運命に翻弄され続けた末裔のために、助命嘆願運動を始めた。
その運動の中で、拘置所に面会に行った光月は、岡村に対して、
「生きて出て来られた、刀剣が殺人の道具じゃないって事を、教えてやるぞ。だから、必ず戻って来い」
と励ました。岡村はそれを聞いて、
「ははは、それができたら、今度こそ、貴方を斬りに行きますよ。あはははは」
と言って、それきり声を詰まらせ、押し殺して泣き続けた。それきり、岡村は光月との面会に一切応じなかった。
そして五年後。岡村は、控訴することなく死刑判決を受け入れ、刑は執行された。拘置所には、光月宛ての手紙が残されていた。
「あの時もう少し、貴方から刀の本当の価値を聞いていれば、私は違う道を選んだかもしれない。ありがとう、さようなら」
とだけ、書かれていた。(了)
最初のコメントを投稿しよう!