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あの後、慎はコートには戻らなかった。そして夕食になっても慎が現れないので、奈江は心配していた。祐介も慎を探していたが、まだ見つけられていなかった。
奈江は館内やテニスコートの方も探し回ったが、見つけられなかった。途方にくれたところ、ひとつだけまだ探していない場所があることに気がついた。
慎は、車の中にいた。
気分は最悪だった。杵淵に言われたことが、何度も思い出されては腹が立って仕方がない。
(鮎川はやめろ、だと?)
同時につぐみの為に真摯に頭を下げる杵淵の姿が思い出される。慎はまた苛立った。
「お前の所有物かよ!!わかったような顔して、何様だ!!」
慎は怒鳴りながら車のドアに拳を叩きつけた。
そして、シートに体をあずけると、顔に手を当てた。
・・・本気か、と言われてもよくわからない。
慎は今日のことを思い返した。
何で自分は、つぐみにピアスを買おうと思った?
何で自分は、つぐみの為にあんなに必死に走った?
そもそも、なんで自分はこんなに苛立っている?
答えはすぐそこにあるような気がするが、慎は認めたくなかった。認めたら、もう逃げられない様な気がして怖かった。今ですら、こんなに心を乱されているのに。そして、自分がつぐみに好かれる事など、あり得ないような気がしていた。つぐみは見た目で人を判断しない。つぐみに似合うのは、きっと杵淵みたいな奴なんだろうと。
そんな事をぐるぐる考えていた。心に黒いものが渦巻いて、止められない。何か別のことに意識を向けられるのであれば、そうしたかった。
その時だった。
コンコン、と音がした。顔を起こすと、ドアの外には奈江がいた。
「・・何」
慎のそのあまりの不穏な空気に、奈江は萎縮した。しかし、同時に慎が心配だった。
「どう・・したんですか、先輩」
慎は無視して黙っていた。
「・・何か、あったんですか・・?」
奈江がおそるおそる聞いた。その態度がまた慎を苛つかせた。
「うるせぇな!ほっとけって!あんた、いつもビクビクして、うざったいんだよ!」
慎は奈江の手を乱暴に掴んだ。
「どうせまた、俺に抱かれたくて来たんだろ?別にいいぜ、相手してやっても。あんた、話ししてても全然面白くないけど、セックスするだけなら話さなくていいもんな。どうせあんたも俺も、見てくれだけのつまんない人間だ。どこがいいんだ俺の事なんか。容姿しか見てないくせに好きだなんて、よく言えたもんだ!」
明らかに、八つ当たりだった。慎がはっとして奈江を見たとき、奈江は泣いていた。
慎は、掴んだ奈江の腕を、離した。
「・・ごめん」
奈江は泣きながら、一言、こう言った。
「・・・一ノ瀬先輩の良いところは私が知ってます。だからもう、傷つかないで下さい」
奈江はそのまま、走ってその場を後にした。慎の言ったことが、奈江にはわかる様な気がした。奈江も、同じだから。見た目のことしか褒められない人間だから。妙なことだが、慎が抱えるコンプレックスを一番理解できるのは、奈江だったのかもしれない。
奈江は夜空の下でしばらく泣いた。今日、慎が、つぐみを抱いて走っていくのを見た時、わかった気がした。自分がつぐみに惹かれているのと同じく、慎もつぐみに惹かれているのだと、不思議と得心がいった。
奈江の頰は涙に濡れた。その涙が月に照らされ美しかった。夜空には、無数の光が散りばめられていたが、涙で霞んで見えなかった。
慎はうなだれた。
奈江の涙が目に焼き付いて、離れない。
そして、あの言葉。
慎は、奈江につらくあたったことを心から後悔した。奈江は何も悪くないのに。悪いのは最初から、自分なのに。それでも奈江は、慎を責めることなく、あの言葉をくれたのだ。
慎は、つぐみへの気持ちから逃げてばかりいる自分を恥じた。奈江は、自分とは違う。優しくて、本当は強い。
奈江に、ちゃんと謝らなければ。
慎は、つぐみへの気持ちにちゃんと向き合おうと思った。奈江のためにも。
そう、俺は、この感情がなんなのか、もう解っている筈だ。映画や、歌や、小説で描かれているが、今までいまいちピンとこなかったもの。
(俺は、つぐみのことが好きだ)
生まれて初めて、恋というものをしている。それが、答えだ。
見上げると、そこにはあの夜空が広がっていた。夜空はどこまでも広がって、深く、美しく瞬いていた。
つぐみと杵淵も、同じ夜空の下にいた。
2人は備品の片付けをしていた。
つぐみが夜空を見上げると、美しい星空が広がっていた。
「やっぱり、こっちは星が綺麗ですねー」
杵淵はそうだな、と静かに言った。
「一ノ瀬先輩、どこにいるんだろ・・」
奈江や祐介が、慎を探していた。あの後、練習にも戻らなかったことを聞いた。別れたときは変わった素振りはなかったのに、何かあったのだろうか。
「杵淵先輩、何か聞いてないですよね?」
と聞いたその時だった。杵淵が静かに言った。
「気になるの?一ノ瀬のこと」
「え?まぁ、いないから、心配ですよね」
と言って杵淵の方を見ると、杵淵が神妙な顔をしていたので不思議に思う。
「あいつが、好き?」
(え?)
つぐみは、驚いた。予想外すぎる問いかけだった。
「え?好きって、男としてって事ですか?それはないですよ、一ノ瀬先輩ですよ?」
そう言いかけた時だった。
杵淵がつぐみの腕を掴んで自分の方に引き寄せた。
そのまま、抱きしめられる。
(え?)
つぐみはあまりに突然のことに、動けなくなっていた。
「・・お前が心配だ。一ノ瀬には気をつけろ」
それだけ言うと、ごめん、と言ってすぐにつぐみから離れた。
つぐみは、心臓が、驚くほど早く鼓動していることに気がついた。
(今のはー・・ 何?)
どくん、どくん、と心臓が脈うっている。
つぐみは、昔から杵淵のことが好きだった。杵淵の彼女は、つぐみの同級生だった。亜衣・・亜衣から頼まれて、杵淵に彼女を紹介したのは自分だ。
その時から、自分の気持ちに蓋をして、鍵をかけていた。
(なんで?・・やめて。今更こんなの)
つぐみは胸を押さえた。何か、自分の心が黒いもので埋め尽くされていくような気がした。
まるで、開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったかのように。
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