悪魔はきっと優しい顔をしている

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 杵淵は、昔、つぐみのことが好きだった。  つぐみと亜衣に出会ったのは、杵淵が高校3年の春だった。2人が自身の所属するテニス部に入部してきたのだ。  杵淵は最初、つぐみと仲良くなった。と言っても、仲良くなったのは自分だけではなく、つぐみがすぐにみんなに溶け込んだだけだったが。  それは夏頃だった。つぐみに呼ばれて、ついて行くと、そこには亜衣がいて、告白された。あまり話した記憶はないが、亜衣は可愛かったし、杵淵は思春期であったこともあり、その申し出を受けることにした。  卒業が近くなった頃、杵淵は自分が亜衣よりも、つぐみを想っていることに気がついたが、その頃には亜衣に情も移っていたし、なにより自分が亜衣を捨ててつぐみに気持ちを伝えれば、狭いテニス部内のこと、女子部の人間関係は最悪になるだろうことは明白だった。杵淵は自分の気持ちを隠したまま、高校を卒業した。つぐみに会うこともなくなれば、すぐに忘れるであろうと思った。  2年後、新入生の中につぐみの姿を見た杵淵の心境は複雑なものだった。そして、あの一ノ瀬慎が、つぐみに興味を持っていることを知ると、心の中のもやもやは、どんどん膨らんでいき、ついには無視出来ないほどに大きく成長してしまった・・    つぐみは、高校1年の夏、亜衣に杵淵との仲を取り持って欲しいと頼まれた。  少し、心に引っかかるものがあった。しかしその時はまだ、それが何なのかはっきりと分かるほどではなかった。つぐみは断る理由を見つけられず、仕方なく杵淵と亜衣の仲をとりもち、2人は見事付き合うことになった。  その後だった。落ち込む自分の心を知り、杵淵への気持ちを自覚したのは。つぐみは後悔したが、でももう遅かった。  2年後、再会した杵淵は、昔と変わらず優しかった。決して目立つ人ではなかったが、真面目で、落ち着いていて、何事にも誠実で、つぐみが困っていると、どこからともなく現れて、いつも手を貸してくれた。つぐみにとって杵淵は、一緒にいるととても心を落ち着けられる存在だった。どうこうするつもりは無かったのだ、あの合宿の夜が来るまでは。  こうして2人は、お互い想い合っているにも関わらず、3年もの歳月の間、その想いをくすぶらせ続けてきたのだった。 「亮ちゃん、聞いてる?」  はっとして杵淵は隣の亜衣を見た。  「ごめん、何だっけ?」  亜衣は、やっぱり聞いてない、と怒った後で、心配そうな顔をした。 「何か心配事でもあるの?就職活動のこととか? 私に出来る事があったら、ちゃんと頼って欲しいな」  亜衣はそう言った。いつも自分に優しい亜衣。彼女に不満など、何もありはしなかった。そう言い聞かせ、たびたび暴走しそうになる心をなんとか留めていた杵淵だった。 「いや、特に何も無いんだ。ちょっと疲れているだけで・・」  亜衣は疑いの眼差しを向けてきたが、やがて 「ごめんね、今年は上級生だから準備とか忙しいって言ってたのに、強引に来ちゃって」  亜衣は申し訳なさそうに言った後、話題を変えた。 「そういえば、すごいイケメンだね、あの人」 「ああ、一ノ瀬か」 「うん、そう、つぐみの彼氏」    その言葉を聞いて、杵淵の心臓は、ドクンっと 大きく脈打った。 「・・え?」 「あ、知らなかった?なんか2人も、ちょっと微妙そうな感じで・・。ちょうどそういうことになりそうな時期だったのかな?なんか気まずくて逃げてきちゃったよ」  亜衣の笑い声が、遠くに聞こえるような気がする。杵淵の意識は、それから何処かへ行ってしまったようだった。亜衣の話にかろうじて相槌をうつも、内容は全く頭に入っていなかった。  しばらくして杵淵は、こう亜衣に告げた。 「亜衣・・ごめん。実は片付けの途中で抜けてきたのが気になって。駅まで送るから、1人で帰れるか?」  それなら駅前でまってようか、という亜衣の申し出を、遅くなるかもしれないから、と断った。 「ごめんな・・亜衣・・」  杵淵は足早に駅を目指した。  慎はつぐみが、まとめたゴミを捨てに行くと言ったことに気づいていた。  後を追うと、大きなゴミ袋が全て無くなっていた。3つ4つ、あった気がする。 「あいつはすぐ無理するんだから・・」   慎はゴミ集積場の方に足を進めた。  しばらくして、慎はつぐみを見つけた。  つぐみは無表情で何かを見つめて動きを止めていた。彼女の視線の方に目をやると、そこに亜衣を伴って歩いて行く杵淵の後ろ姿があった。  慎は、つぐみに気持ちを伝えるつもりなど、なかった。  ただ、純粋に、その杵淵に向けた眼を、こっちに向けて欲しくてー・・  ただ、それだけだった。  慎は無意識につぐみの手に自らの手を伸ばしていた。  つぐみは、突然触れられた手の感触に、驚いた。 絡められたその指の持ち主・・それは慎だった。  つぐみは驚いて反射的にその手を払った。 「な、何するんですか」  慎が、一瞬傷ついたような顔をしたように、つぐみには見えた。  引くに引けなくなった慎は、思わず言った。 「杵淵には亜衣がいる。あいつはやめておけ」    その瞬間、つぐみの顔が赤く染まった。 「・・は?何わけわかんないこと、言ってんですか、先輩。てゆうか、面白がって自分にかまうの、やめてもらっていいですか」  つぐみは珍しく、本気で悪態をついた。その眼はいつものように、慎をまっすぐ捉えることが出来ていなかった。  慎は、そのつぐみの様子にいたたまれなくなった。そして言ってしまった。 「いいから、お前は俺にしておけ!」  つぐみはしばらく、言われた言葉の意味が理解できずに動きをとめた。そして、その意味を理解したとき、心に巣食う黒いものに飲み込まれ、慎に対して怒りを露わにした。 「・・は?なんですか、それ。やっぱり、私を堕とそうってゲーム、まだ続いてたってことですか? 私は、あなたの暇つぶしじゃありません。人の心ないがしろにして、あなた一体なにが楽しいんですか・・?」  そう言ったつぐみの言葉に、慎は自分の感情がまた昂るのを感じた。止められなかった。自分がこの1ヶ月近く、見せてきたつもりだった心は、何一つつぐみには届いていなかった。怒りなのか、悲しみなのか、例えようのない感情に支配され、慎は怒鳴った。 「お前のことが好きだって言ってんだよ!いい加減気づけよ!!」  つぐみの眼が、大きく見開かれるのを、慎は見た。驚きで、動けない。どのくらいそうしていたのかわからなかったが、つぐみはやがて、苦痛を感じているかの様に表情を曇らせた。 「やめてください・・。そんなこと言うの」    つぐみの眼は慎を捉えることは出来なかった。苦しくて、眼を逸らしたまま、遂につぐみは慎から逃げ出した。  走り去ろうとするつぐみの背中に、慎は必死で声をかけた。 「つぐみ!一緒に帰ろう!待ってるからな、ここで!」  つぐみは振り返らなかった。  頭の中がぐちゃぐちゃで、もうわからなかった。  一ノ瀬先輩が、私を好き?あの一ノ瀬先輩が?  つぐみの中で、慎のあの不可解な行動の数々が思い出された。この間のカフェでも、ピアスを買ってくれたときも、杵淵の名前を出すなと怒られたこともある。あの時もずっと、好きでいてくれた・・?  そうであれば、自分はどれほど、あの人を傷つけて来たのだろう?あの不可解だった慎の怒りの原因は、全部自分にあったのだ。女を絶ったのだって自分のためだった?それなのに、これからまた、あの人を傷つけることになる。自分の気持ちは、別のところにあるのだから。  つぐみは、苦しくなって、胸を押さえた。思わずうずくまってしまう。  しばらく、そうしていたときだった。後ろから聞き覚えのある声がしたー・・ 「鮎川?」  そこには杵淵が立っていた。    いつも、自分が困ったときに、人知れず助けてくれた。大好きな、杵淵先輩。つぐみはその姿に安堵を覚えた。 「どうした、鮎川」  つぐみが泣きそうな顔でこっちを見てきたので、杵淵は驚いて駆け寄った。 「どこか痛いのか」  つぐみは大丈夫です、と言って立ち上がった。 「どうかしたのか?何があった?」  つぐみは、苦い顔をしたまま答えなかった。 「・・一ノ瀬と、何かあった?」  そう、杵淵が言ったので、つぐみは驚いて思わず顔をあげた。それを見て杵淵は、自分の問いかけが正しいことを察した。 「付き合ってるのか、あいつと」  つぐみはまた驚いた。そして違うと答えた。  杵淵は、そのままつぐみを抱きしめた。そして、驚きで体をこわばらせるつぐみに言った。  「お前を、一ノ瀬に渡したくない」  つぐみは再び目を見開いた。そして咄嗟に、杵淵を突き飛ばした。  突き飛ばされた杵淵は、だがこう言った。 「俺と付き合おう。亜衣とは別れるから」  そう言って、差し出された手を、つぐみはぼんやりと見つめた。何か、あの合宿の夜から心に巣食う "とても黒い何か " に体を捉えられているかのような感覚があった。    絶対に、この手をとってはいけない。悪魔はきっと、そうと分からぬように、優しい顔をしているに違いない。そう誰かが言っている気がした。  頭の中で、待っている、と言った慎の顔が思い浮かんだ。それはつぐみの、最後の良心の現れだったのかもしれない。    しかし、つぐみはゆっくりと、その手に自らの手を伸ばしたー・・。
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