君のために

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君のために

 その日、つぐみは杵淵に抱かれた。初めてだった。  手を取り合った2人は、そのまま大学を後にした。そして、食事を取ったりしながら、空白を埋めるように、高校時代のことから語り合った。  杵淵が高校のときから自分を好いてくれていたなんて知らなかった。2人はひとときの穏やかな時間を過ごしたあと、離れがたくなって、ホテルへ行った。  2人とも実家暮らしなので終電では帰ったものの、最後まで離れがたかった。  つぐみは例えようのない幸福感に包まれていたが、杵淵と別れて家に戻ると、次に襲ってきたのは激しい罪悪感だった。  亜衣の顔が浮かんでは、消して、また浮かんでは消して・・その繰り返しだった。  杵淵の口から自分の名前が出たとき、亜衣は一体どんな気持ちになるのだろう。  つぐみは今まで、男を巡って争う女性達の姿を理解し難いと思って見てきた。世界に男はたくさんいるのに、友達と争ってまで1人の男に固執する意味がよくわからなかったし、自分はああはなるまい、そう思っていた。しかし、実際はどうだ。杵淵の告白に自らの欲望を抑えきれず、亜衣を裏切った。せめて、杵淵と関係を持つのは、杵淵と亜衣がきちんと別れてからにすべきだった。  彼女が今日した行為は、自身の持つ道理に反するものだった。彼女は少年漫画のヒーロー達のように、潔く強い、そういう人物を自身のなるべき目標と考えていたが、この日の行動はそれらを汚すものだった。その事が、彼女の精神を余計に不安定にした。今日、自分に明るく声をかけてくれた、亜衣の顔がまた思い出されて、つぐみは罪悪感に押し潰されそうだった。  つぐみの心を重くしているものは、もう一つあった。慎だ。  慎は、あのまま自分のことを待っていてくれたのだろうか。こんなに駄目な自分を。慎のあの優しい眼差しが、まるで自分を責めているように感じて、つぐみはまた、あの息苦しさを感じた。 (一ノ瀬先輩に、ちゃんと話をしなきゃ・・)  つぐみの心は重かった。週明け、ちゃんと大学に行けるのかわからないくらい、体全体が重苦しかった。すべてから逃げ出してしまいたい。全てを忘れて、杵淵のことだけ考えられたなら、どんなに幸せなことだっただろう。こんなに後ろ向きな気持ちになるのは、彼女の人生では初めてのことだった。  週明け、重い足を引きずるようにして大学に出て来たつぐみは、慎を呼び出した。そこはまだ活動前の、テニスサークルの部室だった。  慎は、落ち着いた様子で言った。 「・・で、俺はいよいよ、振られるわけだ」  あの日、つぐみは遂に現れなかった。わかっていた。あのときの、去り際のつぐみの表情をみて。  つぐみが驚いた様子でこちらを見たので、慎は笑って言った。 「俺だって馬鹿じゃない。それくらいわかるだろ」  つぐみは、相変わらず、慎から眼を逸らしながら言った。その眼からは、慎が惹かれたあの強さは失われていた。 「・・好きなひとが、いるんです。だから、先輩とは付き合えません・・」 「杵淵と、付き合うの?」  慎は聞いた。するとつぐみの表情が強張った。 つぐみは、言いづらかったが、でも嘘をつくのも違う気がして、躊躇しながらも小さく答えた。 「・・はい・・」  その一言に、慎はショックを受けた。つぐみの片想いならば、まだ諦めるつもりはなかったからだ。  慎は思わず、つぐみに背を向けた。そして、静かに、短く言った。 「・・わかった。もう行って」  つぐみは、その慎の姿を見て、胸が潰されるような思いだった。  こんな一ノ瀬先輩の姿は見たくない。いつものように、怒って欲しかった。お前なんか本気で好きなわけないと、罵って欲しかった。嘘であったら、どんなに楽だったか。プライドが高くて不器用なこの人の心を、どんなに自分が傷つけたのか、それを思うと、苦しくて、仕方がなかった。  気がつくと、つぐみは泣いていた。そして、絞り出すような震える声で、小さく言った。 「・・一ノ瀬先輩、ありがとうございました。本気で私を好きになってくれたこと、本当に嬉しかったです」    そして、つぐみは部室を後にした。    残された慎は、そこで少し泣いた。  自分が今まで捨てた女性達が泣く姿を、いつも慎は冷たい目で見てきたが、彼女達の気持ちが、今初めて分かったような気がした。  慎は、テニスサークルを辞めた。  つぐみに振られたことを仲間達には報告したが、つぐみと杵淵が付き合うという話は祐介以外には口外しなかった。2人が悪者にされるのを防ぐためだった。  そして、淡々と、日々を送っていた。  そんな慎を苦々しげに見つめていたのは祐介だ。 「あーあ。痛痛しくて、見ていられないよ。今まで無茶苦茶だったくせに、何その大人な対応って感じ。いっその事、暴れ回ってくれた方が、よっぽど気が楽なんだけどね・・」  そう嘆いた。  祐介は、あの日の自分の行動を悔やんでいた。あの時先に帰らず、自分がうまく立ち回っていれば、こんな結果にはならなかったかも知れない。そう思った。いずれにせよ、こんな親友の姿を見るのは初めてで、さすがに胸が痛んだが、祐介にできるのは、とりあえず慎と一緒にいること、それだけだった。  しかし、それから1ヶ月近くたった頃。慎が偶然、亜衣と出会ったことによって、また事態は急変してしまうのだ。  その日、慎と祐介は暇を持て余し、大学を出て駅前のカフェに入ってダラダラしていた。そこへ、店員の1人に声をかけられた。  優しい雰囲気の、癒し系の女性・・慎はその女に見覚えがあった。・・亜衣だった。  慎は驚いた。何故この女が、大学の近くでバイトしているのだろうか。 「わぁ、お久しぶりです。覚えててくれたんですね。目立つからすぐにわかりましたよ。その後、つぐみとはどうですか?」  慎は最初、杵淵の相手がつぐみなんだということを、この女が知らないのだと思った。 「どうして、ここでバイトを?」  そう言うと、亜衣は無垢な笑顔で言った。 「ちょうどバイト探してて、ここなら亮ちゃんと大学終わりにおちあえたりするかなって。最近、亮ちゃん、忙しそうで、あまり会えてないんです」  ー・・それを聞いた慎は、カタン、と小さな音を立てて静かに立ち上がると、そのまま店を出て行ってしまった。一瞬、呆気にとられた祐介が、まだポカンとしている亜衣に、慌てて伝票を押し付けた。 「ごめん、お会計!あはは、アイツ見た目はいいけど、変な奴だから気にしないで」  祐介は慌てながらも会計を済ませると、急いで慎の向かった方向ー・・ 大学に向けて走り始めた。      
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