一ノ瀬慎という男について

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 居酒屋の前にちょっとした人だかりが出来ている。法明大学テニスサークルの新歓コンパだ。  その中には加藤奈江の姿があった。散々悩んだが友人2人に付き添われてやってきたのだった。  開始前から奈江達は多くの男性に声をかけられた。みな奈江目当てなのは言うまでもない。しかし男慣れしていない奈江からしてみれば、知らない男性から話しかけられても何を話していいか分からず、友人2人が代わりに受け答えしているような状態だ。開始前からなんだか奈江は気後れしてしまう。男性との会話もままならないのに、あの人と話すことなんて出来るのだろうか?  その少し先に、やはり秋元里子と友人のつぐみがいた。  つぐみは元々テニスサークルに入ろうと思っていたが、それはテニスを楽しみたいだけで異性との出会いを求めているわけではない。だから新歓コンパにも参加するつもりは無かったのだが・・。    昨日、里子からいきなり 「一ノ瀬先輩とヤった」 と言われた。  大学に通いはじめてまだ2週間足らず、しかも前日まで満足に会話すらした形跡もなかったのに・・一体何がどうなったら、そんなところにまで発展するのだろう?里子の恋愛に対するパワーは知ってはいたが、それにしても早すぎる展開だ。  事の詳細を聞くと、一ノ瀬慎は噂通りの遊び人だと言う事が分かった。  里子はそれでも一ノ瀬に熱をあげている。とりあえず身体から始まる恋もあるし、と今回の一件を前向きに考えていたが、つぐみには嫌な予感しかしなかった。  一ノ瀬には何人もセフレがいるという。つまり里子と同じ状況の人間が何人もいるわけで、そこから特別な1人を作るようにはつぐみには思えなかった。あれだけのイケメンだ。誰かが去ったとて、また一ノ瀬に抱かれたがる女は後から現れる訳で、繋ぎ止める必要性などない。一ノ瀬が里子の望む様な形で気持ちを受け入れる可能性は、ゼロでは無いにしろかなり低い様に思われた。  また里子は一ノ瀬にちょっかいを出しているところを学内でも派手に目撃されている。一ノ瀬ファンの女に嫌がらせされないとも限らないし、とても1人でコンパに参加させる気にはなれなかった。 「それでは、これより法明大学テニスサークルの新入生歓迎会を行いまーす!皆よろしく!楽しんでこー!」  幹事の男性の挨拶でスタートしたが、やはり慎の周りには女性たちが群がっていた。  奈江はその状況をみて気圧され、あの中に入るのは自分には無理だと諦めていた。また奈江は奈江で男性らに取り囲まれており、慎ほどではないにしろ小さな輪を作っていた。  その輪の中に、里子とつぐみもいた。奈江達の近くに座っていたので、そのまま自然と話の輪の中に入ったのだ。 「奈江ちゃんかわいいねー。よく言われるでしょー」  奈江が男性と話すのが苦手な理由に、こういう事を言われるのが嫌だ、というのがある。何となくだが、周りの女の子達が嫌な気持ちになっているのではないかと気がかりで、ネガティブな事を考えてしまう。答えも、どう答えるのが正解なのか未だに分からない。違うと答えると謙遜してると思われるし、そうだと答えると自慢の様で、どちらにせよ嫌味に聞こえてしまいそうで。  奈江が答えにつまっていると、近くの女の子が言った。 「いやー、奈江ちゃん、ホントかわいいわ。自分ど真ん中っすね」 「あれ、お前は・・なんだ男か」 「女だわ!あれ?今ガチで間違われた?」  どっと笑いが起きて会話の流れが変わったので、奈江は救われた気持ちだった。  奈江を救ったのはショートカットで化粧気のない、ボーイッシュな女の子だ。つぐみだった。  つぐみは明るく、あの一言で男性陣も「いじっていい子」と認識したらしい。会話がユーモアに溢れており男女問わず壁がないので、終盤にはすっかり盛り上げ役となっていた。 「つぐみー、お前、奈江ちゃんと里子ちゃんの間に入ると、垢抜けな過ぎてやべーよ。田舎の百姓の子みたいだぞ」 「里子ちゃーん。つぐみに化粧教えてやってな。哀れだから」  方々からいじられてはツッコミで笑いをとっていた。奈江にはこんな風に馴染めるつぐみが羨ましく思えた。  (つぐみちゃんみたいだったら、一ノ瀬先輩にも気軽に話しかけられるのかな) 会もそろそろ終盤に差し掛かろうとしていたが、未だに話かけることはおろか、視界に入ることすら出来ていない。奈江は思わずため息をついた。何で自分はこんななんだろう・・。  その時、トイレにたっていたつぐみが戻ってきて、「奈江ちゃん、里子どこいったか知らない?」と聞いた。 「さっき女の子に話しかけられていっちゃったけど・・。友達かな?」  つぐみは悪い予感がした。ここには里子の知り合いは自分以外いないはずだ。    ありがとう、と奈江に声をかけると、つぐみは何処かへ行ってしまった。  奈江は、はぁ、ともう一度溜息をついて一ノ瀬慎のいる方を見やった、その時だった。  なんと慎が席を立ってこちらの方に歩いて来た。  奈江には気付いていない様だ。通り過ぎそうになったところで、奈江は思わず声をかけた。 「一ノ瀬先輩!」  言ってしまってから、しまった、と思った。次に何を言えばいいのか全然考えてない。しかし呼ばれた慎はこちらに視線を向けてしまっている!  どうしよう、と焦ったとき、慎が口を開いた。 「・・ああ、あんたか」  ・・ー え?  覚えていて、くれたのだろうか。 「来てくれてたんだ。まぁ楽しんで」  それだけ言って、奈江の返答を待たずに慎は行ってしまった。  奈江は赤く染まった顔を隠すように手で覆った。  (覚えててくれた!) 嬉しくて、それまでの憂鬱な心を吹き飛ばすかの様だった。たったあれだけの事で、ただの一言で、こんなにも自分の気持ちを昂らせる事ができるなんて・・  奈江は慎の事を簡単には諦められないということを自覚したのだった。  つぐみはようやく里子を見つけた。  やはり里子は3人の女に取り囲まれていた。トイレへ続く方向の通路を角を折れたところで見通しの悪い場所だ。お世辞にも和やかな雰囲気とは言い難い。 「あんたさ、調子乗って一ノ瀬先輩に触ってんじゃねーよ!」  里子も負けじと言い返す。 「はぁ?てか、自分達が相手にされないからって私に八つ当たりしてんじゃねーよ、ブス」 3人の顔が目に見えて釣り上がった。 「お前だろ、ブスは!」 1人が手を振り上げたのが見えたので、つぐみは慌てて割って入った。 「ちょっとちょっと、男の事でケンカなんかやめなって!」 「はぁ?関係ないやつは黙ってなよ!」とつぐみが突き飛ばされたので、里子はますます激昂した。 「つぐみに何してんだよ!」  つぐみは、里子、大丈夫だからと必死になだめた。つぐみにはこういう、男を巡って女同士で揉める気持ちが理解できない。当の本人の気持ちを全く無視して、盗った盗られただの、結局は男側の気持ち次第なのに無意味だと思う。そもそも理解できていないので、彼女達に何と言えば気持ちをおさめることができるのかも分からない。彼女達は理屈で動いていないので、考えても無理な気がした。 「ま、まぁここは一度落ち着いて・・」 「あたしらはコイツが一ノ瀬先輩に近づかないって言えば何でもいいんだよ!」 「何でそんな事あんた達に言われなきゃなんないわけ!?」  ああ、無理だ、とつぐみが途方にくれたときだった。ちょうど慎が通りかかったのだ。 「一ノ瀬先輩!」  ここぞとばかりに里子が慎に飛びついた。 「この人達、私に一ノ瀬先輩に近づくなって言うんです!全然関係ないのに余計なお世話だと思いませんか!ねぇ先輩?」  3人は気まずそうに、そして悔しそうに視線を泳がせた。  3人の様子に勝ち誇った里子だが、しかし次の慎の言葉に凍りついたのは、里子の方だった。 「それ、俺に関係あるの?」  え?と里子は慎の方を見た。そしてそこには、氷の様に冷たい微笑みが浮かんでいた。 「ていうか、あんた誰だっけ」   里子が、凍りつく。  しかし慎は気にも留めぬ様子でその場を後にした。  3人は満足したのか「バーカ。いいきみ」と口々に言いながら去っていった。 「里子・・」  ポロポロと、里子の目から涙が溢れると、彼女はそのまま座り込んで泣き出してしまった。つぐみにはどう声をかけていいかわからず、黙って里子の頭を撫でた。しばらくすると、里子が「帰る」と立ち上がった。 つぐみは一緒に、と言ったが里子は「1人にして」と言って、振り返りもせずに歩いて行った。無理にでも一緒にいるべきかつぐみが迷っていると、そこにトイレから出てきた慎が通りかかった。  慎はつぐみを確認したが、冷たい表情を乱す事なく、つぐみの前を通り過ぎようとした。 「待って」  慎が振り向いた。  つぐみは怒りを露わに慎をまっすぐ見ていた。  気怠そうに、だが刺すような冷酷な視線をむけて慎は言った。 「俺はあんたの友達に、嫌がらせされるかもしれないと忠告したぞ。あと、身体だけの関係ならばと断った上での事だ。選択したのはあの女だぞ」  それは事実だったが、女っていうのは感情にまかせてぎゃあぎゃあ喚き立てる。話にならん、と慎は思う。相手が何を言ってきてもこちらに否はないのだから、取り合うつもりも無かったが。  しかし相手が口にしたセリフは慎の予想とは少し違った。 「その通りだと思います」  慎はもう一度、相手の方に視線を移した。 「先輩の様な不誠実な人を好きになっておいて、しかも事前に身体だけと断られているにも関わらずそれ以上の事を望むなんて、私の目から見てもバカな女だと思います。一般論で言えば」  つぐみは慎から一度も視線を外さず、まっすぐに見据えて言った。 「だからこれは私個人の話ですが、私は ・・ 一ノ瀬先輩、あなたを心底、軽蔑しています」  つぐみはそう言って、失礼します、と慎に会釈をし、去って行った。  慎は、つぐみが去った方をしばらく見ていた。  かなり威圧したにも関わらず、あの女はまったく臆せずに自分に意見した。珍しいことだった。あの正義感たっぷりのまっすぐな眼が、慎は気に入らなかった。  慎の顔にはあの冷たい表情が浮かんでいた。 「・・偽善者が偉そうに」 化けの皮を剥がしてやる。そう思った。
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