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賭け
そこはテニスコート脇の小屋、テニスサークルの男子部室だった。
4年はもう参加しないので、慎達3年が運営主体となる。そこには慎の他、友人達が何人かたむろしていた。
そろそろサークルの活動時間となるので、他のメンバー達もちらほらと集まり始めている。窓から加藤奈江の姿を、慎の友人である佐田祐介は確認した。明るい茶色の髪にパーマを施し、お洒落な雰囲気の青年だ。小柄だが笑顔に愛嬌があり、なかなかに整った顔立ちをしている。隣に慎がいなければもっと注目を受けているに違いなかった。
「奈江ちゃんだ。ほんと可愛いよねぇ〜」
祐介がそう言ったのを皮切りに、皆で盛り上がり始めた。慎は興味なさそうに窓の外を眺めていたが、そこにつぐみが通った。
「あの女、なんていうの」
祐介が、え?どれ?と近づく。
「あのショートカットの」
「あー、鮎川ちゃんね!鮎川つぐみ。明るくていい子だよね。鮎川ちゃんがどうかしたの?」
祐介は内心ちょっと驚いていた。慎が自分から他人に興味を示すのが珍しかったからだ。
そんな慎が、
「俺があいつを口説いたら堕ちるかどうか、賭けないか」と言ったので、祐介はもっと驚いた。
「鮎川ちゃんを?何で!?」
「別に、暇つぶし。あの女むかつくし」
慎の顔にはあの冷たい表情があった。何があったんだろう?と思いつつ、じゃあ堕ちる方に千円。と言ったが、
「俺も」
「俺も」
・・と全員が堕ちる方に賭けたので、
「何だよ。賭けにならねーな」と慎はつまらなそうに言った。
「だって慎ちゃんが本気で口説いたら普通にみんな堕ちるでしょー」
一同は口を揃えて言った。
慎が着替えを済ませてコートに出ようとすると「一ノ瀬」と声をかけられた。
振り返ると、そこには同学年の杵淵亮太がいた。
慎に比べると小柄で顔は整っていると言えなくもないが、慎に比べると平凡だ。容姿に関しては特に特筆すべきところはない、どこにでもいそうな普通の青年だった。
杵淵はテニスを真面目にやっているサークルメンバーで、飲み会などにはほとんど参加しないので、慎達のグループとはあまり親しくしていなかった。祐介の言う話では杵淵には高校から付き合っている彼女がいるらしく、特に女性がからむ会合には参加しないらしい。
「・・何?」
「鮎川を堕とせるか賭けるとか、やめろよ」
コイツが話しかけてくるなんて珍しいから何かと思えば・・慎はいつもの冷たい表情で言った。
「お前には関係ないだろ」
杵淵は通り過ぎざま、続ける。
「今までお前が原因で何人辞めていったと思ってる。メンバーが減るのは、迷惑。俺にも関係ある」
慎は顔をしかめた。この俺に説教かよ。
「・・俺目当てで入部したやつらだろ。もともと俺のお陰でメンバーが増えてんだから、感謝して欲しいくらいだね」
杵淵は振り返って慎を睨みつけ
「鮎川はお前目当てじゃないだろ」と言ってコートに向かった。
(・・あいつも、むかつくな)
いい子ぶりやがって。
慎がコートに出ると、新入生の女達は待ってました!とばかりに視線を集中させた。
「一ノ瀬先輩・・」と我先に指導をお願いしようと集まりかけたその時だった。
「つぐみ!」
・・と慎が声をかけたことで、一瞬その場の全員の動きが止まった。
それはつぐみ本人も同じであったが、すぐに
「はい、私ですか?」と聞き違いかな?とも思いながら返事をした。
慎の狙いは、つぐみを優越感に浸らせること。自分のような人気のある男性に皆の前で特別扱いされるのは女心をくすぐる筈だ。いい子ぶっていても結局人間は皆、自分が一番だろう?
慎はあの、つぐみの正義感溢れる瞳を汚してやりたいと思っていた。
慎はつぐみに近づくと、いきなりつぐみの腕をつかみ引き寄せ
「教えてやるから、そこ、立て」とつぐみを自分の前に立たせた。
呆気にとられたつぐみだったが、慎が再びつぐみの腕をとろうとすると、
「・・先輩。私は経験者なので、未経験の子に教えてあげてもらえますか」
と冷静に言ったので、今度は慎の方が面食らってしまった。
しかもつぐみは「はーい教えてもらいたい人ー並んでー」と声をあげたので、慎のうしろには行列ができてしまいそこから動けなくなってしまったのだ。
慎がイライラを募らせながらも指導を行うその列に、奈江もいた。奈江は自分の順番が近づくにつれ、鼓動が早くなっていくのを感じていた。
「次、どうぞ」
「は、はい。お願いします」
慎は長い黒髪をポニーテールにまとめたその子が奈江だと言うことに気づいたが、特別話しかけることはしなかった。淡々と奈江を指定の位置に立たせてラケットを握らせ、後ろから手をとった。ラケットの振り方を指導するためだ。
ふと握った奈江の手が小さく震えていることに気がついた。
後ろから奈江の顔を覗くと、奈江は耳まで真っ赤になっている。男ウケを狙って清純派を演じる女は数多いが、奈江のそれはおおよそ演技とは思えない。
(本当に男どもが喜びそうな反応するな)
だが慎はこういう女はどちらかと言えば苦手だった。会話もこっちから用意しなきゃいけないし、色々と気を使うから面倒だ。
「ありがとうございました」
指導が終わると奈江はまだ顔を真っ赤にしながら、慎と目を合わすことも出来ずに深々とお辞儀をしたのだった。
つぐみは経験者なのでボールの回収やらその他の雑用を率先してやっていた。自分やりますよ、と先輩達に明るく声をかけては常に動いている。先輩を敬う運動部の精神が染み付いている様だった。
一通り新入生達の指導が終わったら最後に経験者だけで試合形式の練習があるはずだ。つぐみはそれを楽しみにしていた。
コート脇で一息ついていると、そこに慎が向かってくるのが見えたのでつぐみは思わず身構えた。
慎の顔には優しげな笑顔がある。先日の居酒屋のときとはまるで別人のようだ。だがどこか人形のようで、まるで感情がないかのようにつぐみには感じられた。
「えらいじゃん。ちゃんと雑用やって」
自分経験者なんで、このサークル未経験多いですよね、と返す。
「2、3年の女子もみんな先輩のファンなんですか?」
「そんなことないだろ」
「そうなんですか」
じゃあ本当のテニス仲間もできるかもしれないな。つぐみは嬉しそうに笑った。
慎が顔を覗き込んで「なに?やきもち?」と真顔で言ったのでつぐみは思いっきり嫌そうな顔をしてやった。
「なんだ、違うのか。残念」
と、慎が悪戯っぽい笑顔を向けた。少し上目遣いで向けられた視線には、慎特有の妖艶とも表現できる色気があった。
つぐみはどきりとすることは無かったが、慎のその笑顔の美しさを間近で見て、なにか絵画でも鑑賞しているかの様に見入ってしまった。
「先輩・・。本当に、よく出来た顔っすね・・。いや自分、女性アイドルとかは好きなんですけど男に見惚れたことはあんまりないんですが・・これは」
と顎に手をやりしげしげと慎の顔を眺めるので、慎はなんだよそれ、と思わず本当に笑ってしまった。ちょっと今まで見たことのない反応だ。
会話に区切りがついても慎がそこを去ろうとしないのでつぐみは不思議に思った。さきほどいきなりつぐみに声をかけた行動もいまだに不可解だ。とりあえず会話のネタを探そうとしたとき、遠くに奈江を見つけた。
「あ、奈江だ。かわいいですよね〜。自分ああいうアイドル系好きなんですよ」
「男かお前は」
「いやなんか見てると幸せな気分になりません?」
と横の慎を見ると、慎はあの優しい笑顔でこちらを見つめていた。その笑顔は自信に溢れ、あの不思議な色気が醸し出されていた。つぐみがその慎の雰囲気に何か不穏なものを感じた、その時。
「俺は、つぐみの方がいいけど」
そう言って、慎はそのまままっすぐつぐみを見つめた。
つぐみは驚いて慎と視線を合わせたまま固まった。2人はそのまましばらく、言葉もなく見つめあった。
恋の雰囲気、とでも言うべきか。慎が創り出したその空気を破ったのはつぐみの方だった。
「・・先輩。もしかして・・」
つぐみは慎と視線を合わせたまま言った。
「何日で私を堕とせるか、みたいなゲームやってます?」
「!!」
思わず目をそらしたのは慎の方だった。
「何言って・・」
慎は内心、動揺していた。心の内を見透かされたことが恥ずかしかったのだ。ポーカーフェイスを崩さぬようには努めていたが、その表情には明らかに感情が見え隠れしたのを、つぐみは見落とさなかった。 あの絵画の様に完璧な笑顔は美しいが空虚で、どこか人間味に欠けていた。今の慎の表情をみて、つぐみには初めてこの男にも血が通っていることを感じられた気がした。
「図星っすね」
普通なら怒るところな気がするが、つぐみは真相を言い当てた探偵のように得意になって言った。
「先輩。私みたいな女子力低い女、簡単に落ちると思ってるかもしれませんが、逆効果ですよ。先輩と私じゃレベルが違いすぎて有り得ないですもん。こんな事があるのは結婚詐欺くらいかと」
怒りの表情になったのは騙そうとした慎の方だった。
「お前はほんとに可愛くない」
「別にいいっすよ。かわいいと思われようと思ってませんしね〜」
と、つぐみが気圧されることなくおどけたので、慎はますます気分を害した。つぐみは「おお、こわ」と大袈裟に肩をすぼめると、その場を去って行った。
残された慎は悔しさで拳を強く握りしめた。いまだ怒りが収まらず、やり場のない感情を壁に叩きつけた。
「あの女っ・・。本当に気に入らねぇ・・!」
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