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奈江は、慎を見つけた。
慎は祐介と一緒に中央線の改札を通ろうとしていた。
「一ノ瀬先輩!」
慎と祐介が振り返る。
祐介はそれが奈江だと分かったとき、心底驚いた。あの内気な奈江の様子だと慎に声をかけるまでには20年くらいかかるのではないかと思っていたのだ。
用件は明白だった。祐介は気まずいものを感じ
「あー・・慎。俺、先に行ってるね?」
と断り早々に立ち去った。
少し進んでから振り返ると、奈江と慎が話しているのが見えた。
(さてさて、どうなるかね)
奈江は、走ってきたのと極度の緊張で、なかなか呼吸を整えられずにいた。一向に奈江から言葉が出てこないので、慎が先に口を開いた。
「たしか奈江・・だっけ?悪いけど、俺はちゃんと彼女を作るつもりはないんだ。だから言わない方がいいぞ」
慎は奈江に興味はない。もともと顔も好みのタイプではないし、こういう女はすぐめそめそ泣き出してめんどくさい。私は弱いから守って下さいと言わんばかりだ。そういうのが好きな男もいるが、慎には"護りたい願望"のようなものは一切なかった。
奈江はいきなりショックを受けた。慎が自分に興味がないことは、既になんとなく気付いていた。でも自分からは何も行動できない、そんな自分を変えたくて、勇気を振り絞ってここまで来たのだ。一言も発しないまま振られてしまうのは本意ではなかった。
「・・私、一ノ瀬先輩に会った時からずっと、忘れられなくて、その後もどんどん好きになっちゃって・・。こんなに何かを諦められないのは、初めてなんです。だからもっと先輩の事を知りたいです。先輩が遊びでも私は構いません」
奈江は震える声で、しかしはっきりと伝えた。
慎は意外だった。奈江がここまで食い下がるとは思っていなかったのだ。
「遊びで構わないって言うけど、あんた、そもそもどんな事するか分かってんの?俺がやってる遊びってのは、一緒に遊園地行くとか、そういうことじゃないけど」
慎は冷静に奈江を言い含めたつもりだったが、
「そ、それくらいは、分かってます。私にだって、経験くらいあります」
と奈江は憮然として言った。
慎はまた意外に思った。奈江のあの感じだと、男と付き合った事などなさそうに思えたが・・
奈江の言ったことは本当だった。高校のころ、友達に勧められて一度だけ男性と付き合った事があった。
校内でも人気のある男子だった。奈江は彼を特別好きというわけではなかったが、友達みんなに、普通付き合うでしょ、と言われて流されてOKを出した。
そのままズルズル付き合って、ある日彼の家に遊びに来てとしつこく言われ、ついて行った。そこで、言われるがまま経験した。
奈江は家に帰ってから後悔した。そんな事もはっきりと断れずに、他人任せで経験してしまった。本当なら真剣に好きな人としたかった。その後彼とは別れると、それからは告白されても、誰かと付き合うことはしなかった。
慎は奈江の意外な粘りに頭をかいたが、ふと、つぐみのことを思いだした。
「友達は・・先に帰ったの?」
「え?つぐみですか?はい、私は先輩のところに行きたいからって言って、別れました・・」
じゃああの女もこの子が俺のところに来てるって知ってるのかー・・。
その時、慎は自分のなかに暗い感情が芽生えるのを感じた。
「あんたは、あいつと仲いいの?」
奈江は質問の意図がわからずに戸惑ったが、こう答えた。
「友達になったばかりですが、つぐみは本当にいい子で、私は好きです」
慎は小さく笑った。とても冷たく、そして暗い微笑だった。
(この子が俺に抱かれたと知ったら、あの女、少しは動揺するだろうか)
慎はそっと奈江の頬に手を触れた。
奈江が顔をあげると、そこにはあの美しい笑顔があった。
美しいがー・・それはまるで悪魔のような微笑であった。
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