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「それにしても、三週間もどこに行ってたんですか?」
「最初は予定通り東北方面。で、帰る前にちょっと寄り道を」
「もしかして、森さんのところに?」
「正解。長居するつもりはなかったんだが、貴久子奥様が、おしらじの滝のことを教えてくれて」
「おしらじの滝? 初耳です。どこにあるんですか?」
「栃木の県北にある。滝壷がエメラルドグリーンで美しかった。だが、滝自体は大雨が降った後とか、水量の多い時にしか流れ落ちない。年に数回しか見られない、知る人ぞ知る、幻の滝といわれている」
吉岡のことだ、滝見たさに粘ったにちがいない。
「で、滝は見られたんですか?」
「いや、残念ながら。台風が接近していたから、見られるかと思ったんだが、進路が逸れてしまった。まぁ、また行ってみるさ。今度は春海も一緒に行こう」
「長期じゃなければいいですよ」
吉岡の膝から下りようとしたが、吉岡は春海の腕を摑むと膝の上に引き戻してしまった。何が楽しいのか頬が緩んでいる。
「…なにニヤニヤしているんですか」
「いや、春海がこんなに心配してくれていたとは思わなかったから、嬉しくてつい」
「最悪の場合、一生、会えないかもしれないって思ってたんですから」
今度こそ膝から下りると、吉岡も立ち上がった。
「さてと、一風呂浴びてくるか」
「その無精髭も剃ってきてください」
「ええ? せっかくだから伸ばそうと思っていたんだが。似合うと思わないか?」
「思いません。それよりも、吉岡さんの入浴中に夜食を用意します。何か食べたいものはありますか?」
「おにぎりと味噌汁」
「具のリクエストは?」
「シンプルに塩むすび。味噌汁は豆腐と若布。食後に春海」
「…僕はデザートじゃありません」
「もちろん。本当はメインディッシュ」
言いながら、春海を背後から抱いて項に唇を寄せてきた。
どうして吉岡はこういうことを恥ずかしげもなく言えるのだろうか。顔が赤らむのを打ち消すように、春海は殊更怒った口調で言った。
「だったら、頭の天辺から爪先まできれいにしてきてください。一体、何日風呂に入ってなかったんですか? 臭いますよ」
「はは、ここ数日は車中に寝泊りしていたからな」
ようやく日常が、いつもの二人の時間が、戻ってきた。
やがて、吉岡は風呂から上がってくると、手招いて春海を和室に誘った。
普段は使っていない、数奇屋造りの部屋だ。吉岡は丸窓の障子を開け、二人で見上げると、月が皓々とした光を放っていた。
「そういえば、一年前も僕の家で月を見ましたっけ」
「ああ。来年も、再来年も、何十年後も、ずっと二人で月を眺めよう」
吉岡に肩を抱かれ、春海は頭をもたせかけるように寄り添った。
外は、草葉にすだく虫の音。
そして、月が見たのは…これからも共に生きていこうと心に誓う、二人の旅路。
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