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どれくらい暗澹とした気持ちで思い悩んでいたのだろうか。
屋外で車の停まる音が聞こえた。続いて車のドアの開閉する音。玄関の方に歩いてくる音。家の戸が開き、荷物がどさりと置かれる音。
吉岡が帰宅したのだ。春海が玄関に行くと、吉岡は、春海がいることは意外ではなかったのか、ただいま、と屈託のない笑みを浮かべた。
「もっと早く着く予定だったんだが、事故の渋滞に巻き込まれた」
居間の方に移動しながら、吉岡は話し続ける。
「練習してないから、今日はさすがに稽古は無理そうだ。せっかく来てくれたところ、すまないんだが、来週からでもいいかな?」
だが、答えはなく、吉岡はようやく春海の様子がいつもと違うことに気がついた。
「どうかしたのか?」
「…別に何も。ただ、吉岡さんに何かあったんじゃないか、心配だったんです」
「何かって?」
「例えば、旅先の山奥で熊に襲われたんじゃないかとか」
「まさか」
吉岡は、呑気そうに鼻で笑った。
「縁起でもない」
吉岡の物言いに、春海は腹が立ってきた。
「ずっと音信不通だったんですよ? 吉岡さんが熊に襲われて瀕死の状態で病院に搬送されたとしても、僕は家族じゃないから病室には入れない。吉岡さんの死に目にも会えないんですから」
話しているうちに、声がうわずってしまった。涙ぐみそうになるのを堪えて、春海は俯いた。
「おいで」
吉岡は春海の手を引いて、ソファーのところに連れていくと、腰掛けた膝の上に、春海を横向きに座らせた。そのまま春海の腰に両腕を回すと、耳元でゆっくりと囁いた。
「わたしはそう簡単には死なないよ」
そして、少しの間をおくと、思いがけないことを言い出してきた。
「いっそ渋谷区内に引っ越そうか?」
「はい?」
春海は顔を上げて吉岡の顔を見た。いつになく真剣な眼差しだった。
「あそこはパートナーシップ制度を採用しているから、法的な婚姻ではなくても、認知されるし、保険金の受け取りなども可能になるはずだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。一体何の…」
春海が面食らうのにも構わず、
「あとは世田谷とか、他にも同様の自治体が全国にいくつかあったな」
どうやら、身内ではないから病院で死に目にも会えない、と春海が言ったことを受けてのプロポーズというか提案らしい。
「ええと、結婚の話ではなくて」
言いかけて、胸の中で自問自答する。吉岡と結婚したいのか…どうなのか。
正直、そこまでは考えていなかった。
だが、吉岡との関係の不確かさが今回の不安を引き起こしたのは確かだ。
「吉岡さんの携帯に電話したんです」
「すまない。携帯電話を持っていくのを忘れたんだ」
「知ってます。だから」
春海は、吉岡の顔を見つめた。
「これからは外出時には必ず携帯電話を持っていってください。いいですか、必ずですよ? それから一日に一回はチェックをしてください。緊急の連絡先に、僕の名前と電話番号とアドレスを指定して登録してください」
「了解。約束する」
吉岡が右手の小指を差し出してきたので、ようやく春海も笑って指きりげんまんに応じた。
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