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第一話 非日常の始まり
人々の歓声、陶酔した眼差し、全身を包む音と熱気。そんなものたちに囲まれていた日々は、もうとうの昔だった気がする。
朝のニュース番組で流れている人気歌手のコンサートを見て、蓮水伊月(はすみいつき)は懐かしさに目を細めた。歌手を辞めてからまだ三年も経っていない。それなのに、自分があの場所にいたことさえ信じられないくらいに、記憶が褪せてしまっている。
ぼんやりとテレビを眺めていると、母の伊織が窘めるように言った。
「伊月、はやく朝ごはん食べちゃいなさい。学校に遅れちゃうわよ」
「うお、やべっ。もうこんな時間かよ」
いい感じで半熟に焼けた目玉焼きを茶碗にのっけると、醤油をかけて米と一緒にかきこむ。頬いっぱいにご飯をつめて咀嚼し、味噌汁で流し込んだ。
慌ただしく食卓を立ち、洗面所に行って大急ぎで歯を磨き、ちょっと癖毛な猫毛を適当に整える。前髪を真ん中で雑に分けると、スクールバッグを肩から掛けて家を出た。
久しぶりの晴天。嫌な湿気はない。伊月は上機嫌で通学路を歩く。梅雨がやってきてからずっと雨続きでうんざりしていた。髪質が柔らかく癖毛なので、湿気は大敵だ。
それに雨降りの日は鈍く疼くような頭痛がする。雨は昔から嫌いだ。体も気分も滅入ってしまう。
「いよっ、伊月。今日は元気じゃん」
陽気な声に振り返ると、幼馴染の八神颯介(やがみそうすけ)が立っていた。
「久しぶりの晴れだからな」
「なんだよそれ」
「最近ずっと雨降で髪はもさもさするし、調子でねーしで、いやだったんだよな」
変な顔をする颯介に、ここ最近の不調を身振り手振りで説明する。颯介は呆れたような顔で笑った。
「オマエ、顔だけじゃなくて中身までネコみたいだな」
「はあ、誰がネコだよ。おまえだって雨降りは嫌いだろ?それとも運動すんの好きなくせに雨降り好きなわけ?」
「好きってワケじゃねぇけど、オマエみたいに嫌いでもねーよ。運動するなら体育館でもできるしな。まあ走るなら晴れの日に外で走った方が気持ちイイけどな。あと、雨の日に傘差すのが地味にめんどくせーかな」
「おれも傘差すのきらい。やっぱり天気は晴れが一番だって。雨降んのは、マラソン大会の日だけでいい」
他愛ない会話をしながら、颯介と並んで駅に向かう。
朝の電車はまるで戦場だ。学生やサラリーマンでごった返している。
伊月は颯介に引っ張ってもらってなんとか満員電車に乗り込むと、一息吐く間もなく、左右に揺れ動く車内で足を踏ん張った。
こちらは四苦八苦しながら、スーツの胸や制服の背におしくらまんじゅうされているというのに、颯介は揺れに合わせて難なく立っている。
サーフィンをさせたらきっと上手に波に乗るだろう。
運動神経抜群の颯介を羨ましく思いながらひたすら耐え、ようやく学校の最寄駅に着いた。
駅から高校までの道には、同じ学校や他校の生徒たちが溢れている。友達と他愛ない会話をしながら楽しそうな顔で歩く人、単語帳を片手にブツブツ言いながら小難しい顔で歩く人。
みんなさまざまな表情で学校に向かっている。
毎朝変わらない、特別なことはないけれど楽しい愛すべき普通の毎日。
満足しているはずなのに、どこか物足りなさを感じるのは贅沢なのだろうか。
伊月は窓際の自分の席に座ると、やや白目がちな猫目を細めて、久しぶりに広がった蒼穹を眺めた。脳裏にふと過去の栄光が煌めいた。
いや、栄光と呼ぶにはちょっとおこがましい経歴しかないのだが、確かにあの頃は輝いていたと思う。
ただ歌うことが好きで、誰かに歌を聴いて欲しくて歌っていた。一人でも多くの人の心を掴み、酔わせてみたい。
僅かに心にあったそんな歪な欲望のせいで、きっと罰が当たったんだ。当時のことを思い出すと、苦々しい記憶ばかりがまざまざと蘇ってしまう。
「どうした?ぼんやりして」
切れ長で黒目がちな瞳がじっと覗き込んでくる。くっきりした二重瞼の上にある少し重たげな瞼を持ち上げ、伊月は颯介の紫がかった黒の瞳を見つめ返した。
能天気で無神経そうに見えて、颯介は心の機微を見抜くことに長けている。ほんの僅かな憂いを見抜かれたかと思うと、なんだか悔しかった。
「別にぼんやりしてねーよ」
そっけなく返すと、あっさりと颯介は引き下がった。深く突っ込まれなかったことに少しだけほっとする。
歌手だった頃の話をするのは好きじゃない。新しいものが次々と生まれる世の中だ。注目される歌手なんていくらでもいる。ミリオンヒットを出したわけじゃない自分のことなど、覚えている人はもう殆どいないだろう。
そのことを寂しいとは思わない。むしろ、平穏な日々を過ごすには不要な過去なので、ありがたいと思う。歌手だった頃にもうなんの未練もない。
それなのに、相反する歌うことへの切望が心の奥に燻っている。普段は眠っているのにふとした拍子に目を覚ます小さな火は、時々どうしようもなく胸を焦がすのだ。鬱陶しくてしょうがない。
きっと、このどうしようもなく不愉快な季節がそうさせるのだ。今は青いが、明日には鉛色に淀んでもおかしくない空を、伊月は恨みがましい目で見上げた。
教室にチャイムが鳴り響いた。生徒たちが慌ただしく席に着く。さっきまで机に座って喋っていた颯介も、自分の席へと戻っていった。
一限目の英語が始まった途端、颯介の黒い頭がコクリと揺れ始めた。早くも船を漕ぎだした軽そうな頭を見ているうちに、伊月までつられて眠たくなってきた。漏れそうになる欠伸をかみ殺して、授業に集中する。
成績を落とさずに勉強時間を減らして遊び時間を増やす一番のコツは、授業中にしっかりと内容を定着させることだ。どうせ他にやることもない。話し相手もいないのだから、とことん勉学に励める。テスト前になるといつも泣きついてくる颯介のために、伊月はポイントを書き込みながら、丁寧に板書をした。
英語、数学、古典、生物と眠たい授業のオンパレードを切り抜け、楽しい昼休みがあっという間に終った。
五限目は地理の授業だった。満腹になって眠気が増したところにとどめの一撃だ。伊月は頬杖をついてげんなりした表情を浮かべる。
満腹感、柔らかな午後の日差し、地理教師の板垣のおっとりとした低い声。
もはや眠ってくれといっているようなものだ。頬杖をついたまま、伊月は瞼を閉じた。窓から差し込む陽光が、伊月の金髪に近い芥子色の髪をキラキラと輝かせていた。
数分間、伊月は完全に意識を失っていた。声が近くで聞こえてハッと目を覚ます。
顔を上げると、教科書を片手に板垣が机の間を巡回していた。いちばん後ろの席の伊月に向かってくる板垣は眠っている生徒を起こすわけでもなく、ただひたすら教科書を読みあげながら歩いていた。
伊月が視線をぐるりと巡らせると、クラスの半分以上は夢の世界に旅立っていた。ほとんどの座学で爆睡している颯介も、例外なくすやすやと眠っている。
こんな状況で平然と授業をしていられるなんて、気弱そうな顔に似合わず板垣はタフな精神をしているな。自分だった辟易として、とっくにボイコットしているだろう。教科書に視線を戻しながら、伊月は板垣に感心した。
「みなさんは四国という名前の島が、かつて日本にあったことは知っていますか?」
教卓に戻り、黒板を背にして立つ板垣が唐突に問いかけた。起きていた生徒は勿論のこと、寝ていた生徒も何人か起きて黒板に顔を向けた。
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