第一話 非日常の始まり

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ファニープレイスは学校帰りの学生で賑わっていた。伊月と颯介は三時間遊び放題の一番お得なコースを選び、まずバスケットコートでワンオンワンに興じた。 勉強はからっきしだがスポーツは何をやらせても万能な颯介と運動があまり得意ではない伊月では、正当なルールの下では勝負にならない。伊月はハンデでトラベリング、ファウルなんでもありという特別ルールが適用された。 よく磨かれた床を踏み鳴らし、ボールを追いかけて右往左往する。大幅に有利な条件だったにも関わらず、伊月は負け越しだったけど、真剣勝負というよりはじゃれ合いに近いワンオンワンは楽しかった。 「動きはけっこう機敏なのに、やっぱ体力ねーよな。オマエ、そんなんでよく歌手できたな」 「うるせーな。おれは見た目と踊りの上手さ重視のアイドル歌手じゃなくって、歌が勝負の本格派歌手だったの」 「そーだな、オマエの歌、オレも好きだぜ。なんか、心動かされるってカンジがすんだよな。そうだ、今度はカラオケ行こーぜ」  冗談めかして言ったつもりだったが、颯介が思いのほか真剣なトーンで返してきたので面食らう。 とはいえ、歌を褒められたのは嬉しく、久しぶりに思いきり歌いたい気分だったので提案に乗ってバスケを切り上げた。 伊月と颯介は受付を済ませると、ドリンクバーでジュースをコップになみなみ注いで、カラオケルームにやってきた。普通のカラオケ店と比べて安っぽくて狭い部屋だが、マイクと音源が有れば何処だって歌える。 いや、マイクも音源もなくたって、声さえ出ればどこだって歌えるのだ。 「じゃあ、まずはオレがいきまーす」  ふざけた調子のわりに、真剣に歌い出した颯介の歌声を聞きながら、伊月はステージに立っていた頃をぼんやりと思い出す。 歌っている時はいつだって最高の気分だった。芸能界には汚い面が沢山あったけれど、そんなこと気にはならなかった。 観客の前に立ち、歌って人々を魅了する。それは甘美なほど魅力的な時間で、だが、時に恐ろしい瞬間に変わった。  嫌な記憶が蘇り、伊月は振り払うように頭をふった。  「ほい、次オマエな」 「あ、ああ」 歌い終わった颯介がマイクを差し出してきた。伊月はマイクを受け取り、座ったまま背筋を伸ばして大きく息を吸った。 デンモクで流行のPOPを入れる。 カラオケの時は基本、ノリがよくて楽しい曲を歌うことが多い。個人的には切ない系のバラードも好きだけど、颯介とのカラオケには向かない。それに楽しい曲ならばどれだけ感情を込めて平気だ。  伊月の弾んだ声が狭い部屋に響く。明るく楽しげな旋律に合わせて、颯介は軽く体を揺すっていた。  交代で何曲か歌うと、聞きたい曲を割り込みで予約して、伊月と颯介はジュースを飲みながら喉を休めた。 伊月が飲んでいるのは果汁百パーセントのオレンジジュース。颯介が飲んでいるのはレモンスカッシュだ。 ここのドリンクバーのメーカーのレモンスカッシュは美味しいけど炭酸がかなり強く、歌って痛めた喉を労わるのにはまったくむかない。 喉にいいものを飲めなんていう気はないが、喉を休めている最中に刺激の強い飲み物をチョイスしなくてもいいのに。 ゴクゴクと喉仏を上下させてジュースを飲む颯介を、伊月は少し呆れた目で見た。 「颯介、喉痛くなんねーの?それ炭酸きついだろ」 「あー、確かにけっこう炭酸キツイな。でも、そこがイイんだよ。スッキリするじゃん?」 「すっきりするだろうけど、喉休めたい時に飲むもんじゃねーよ」 「ふはっ、そんなん気にすんの、オマエぐらいじゃね?」  颯介が半ばあきれたように吹き出す。 「伊月さ、ホントに歌うの好きだよな。歌ってる時のオマエさ、最高に気持ちよさそうな顔してるぜ」 「うげっ、なんかその言い方エロいな。やめろよ」 「茶化すなって。何でやめちまったかしんねーけど、また歌えばいいじゃん。オレ、オマエの歌声好きだぜ。オマエならもう一回ステージに立つこともできんじゃね?」  颯介の深紫の瞳が珍しく真剣だったので、伊月は思わず目を逸らした。じくりと胸の奥が疼く。 言われるまでもなく、それは何度も考えたことだった。時々、誘惑に負けそうになる。 伊月は膝の上に置いた手を小さく握ると、伊月はいつもの不敵な笑顔を浮かべてみせた。 「まあ、おれ天才だからな。でも、もうステージには立たないって決めたんだ。歌えんならどこだっていい。どんな場所でもいいんだ」  自分に言い聞かせるような台詞を、聡い颯介はどう捉えただろう。ちらりと琥珀色の瞳を向けると、颯介の憂色を滲ませた横顔が目に入った。 「ま、オマエが決めたならそれでいいけどよ、後悔だけはすんなよ。やりたいこと、やりゃいいと思うぜ。さて、休憩しゅうりょー。デュエットしよーぜ、伊月」 「おー、いいぜ」  颯介からマイクを受け取ると、伊月は腰を上げた。  そろそろフリータイムが終了する。颯介と四曲のデュエットを歌い終えた伊月は、マイクをスタンドに戻した。 残っているジュースを飲んでしまおうと、再びソファに座ろうとしたとき、大きな物音がして部屋がぐらりと揺れた。 揺れは一度きりだったから、たぶん地震ではない。 ファニープレイスには厨房があり、焼きそばやパスタ、チャーハンやからあげなどの軽食を食べられる。まさか調理中にコンロが爆発でもしたのだろうか。 「とりあえず、部屋から出た方がいいよな」 荷物を掴んで扉を開けようとすると、颯介に二の腕を掴まれた。扉から離れさせるように壁際に引っ張られた伊月は、顰め面を颯介に向ける。なんのつもりだと問い詰めようとしたら、颯介の手のひらに口を塞がれた。じろりと横目で睨んだ颯介の横顔は、深刻な顔だった。深紫の瞳が扉を凝視している。 じっとしていると、カラオケボックスの外から悲鳴が聞こえた。それも一つじゃない、男女混じった複数の悲鳴だ。 バタバタという足音や破壊音が入り乱れて聞こえた。安いカラオケボックスだから、他の部屋のドラム音や歌声が聞こえてくるなんてことはよくある。だが、こんなふうに悲鳴が聞こえてきたのは初めてだ。  部屋の外で何が起きているのだろうか。今すぐ部屋から飛び出して確かめたい衝動に駆られたが、腕に食いこむ颯介の指の痛みが衝動を押しとどめた。出ていかない方がいい。 動物的な勘のよさを誇る颯介はそう考えているようだ。警戒心を滲ませる鋭い瞳に気圧されて、伊月は動けなかった。
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