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悲鳴が聞こえただけでもゾッとするのに、更に恐ろしいことが起きた。
伊月と颯介が隠れている部屋の方に、足音が近付いてきたのだ。
それも普通の足音じゃない。恐竜が歩いているような地響きを伴う重低音の足音に、ずるずると何かを引き摺るような音が付き添っている。
いったい何の足音なのだろうか。伊月は息を飲んだ。
颯介が気配と息を消す。伊月も颯介に倣って息を殺した。そうしなくてはいけないような気がしたからだ。
扉の擦り硝子の窓に影が浮かび上がった。突きだした大きな口、尖った耳。少し猫背だが、頭の位置から考えて二メートル近くありそうだ。
ホラーマスクを被った人、もしくは仮装した人と考えるのが妥当だろうが、果たして、ハロウィンでもなければコスプレのオフ会があるわけでもない平日に、そんな格好で普通の娯楽施設をうろついている人がいるものだろうか。
池袋あたりではコスプレイヤーを見かけることも多いが、この辺にそういう人はいない。伊月は顔を顰めた。
もし、扉があいたら。想像すると背筋がゾッとした。
幸いにも、不気味な影は部屋の前を通り過ぎていった。伊月は生きた心地がせず、すぐには安心できなかった。
颯介もまだ息を詰めたまま動かない。部屋の外からは阿鼻叫喚が聞こえてくる。どうしていいかわからずに、伊月はじっとしていた。
どのくらの時間が経っただろうか。数分しか経っていないような気もするし、何時間も経ったような気もする。部屋の外が静かになった。
鞄からスマホを出して確認すると、十分も経っていなかった。もう隠れていなくても大丈夫だろうか。伊月はなんとなく伺うように颯介を見る。
目があうと、颯介の深紫の瞳が柔らかく細められた。
「もう、気配はねえな。でもまあ、外がどうなってんのかわかんねーし、あんまし騒がない方がよさそうだぜ」
「そうだな。なあ、颯介。さっき、この部屋の前を通ってったのってなんだろな?」
「さあな。でも、なんかヤバそうな感じだぜ。急に静かになったのも不気味じゃん」
「でも、このまま閉じ篭ってるわけにもいかねーだろ。外に出てみるか」
「賛成。じゃ、勇気を出してでてみますか」
呼吸を整えると、伊月は部屋のドアを開ける。その瞬間、ふわりと血の臭いが漂ってきた。半分開いた扉から見えたのは、悪夢のような光景だった。
廊下や壁に飛び散った血、そこら中に転がる死体。伊月の白皙の顔が青褪める。
「嘘だろ、何があったんだよ」
ジェイソンのような殺人鬼、もしくは人食い虎でも現れたのだろうか。廊下には、体を食いちぎられて息絶えた人々が転がっていた。
伊月は思わず自分の頬を抓った。手加減しなかったので酷く痛んだ。少し赤くなった頬を擦りながら、伊月は吊った猫目を丸く見開いた。
隣に立っていた颯介が、普段の陽気さが嘘のように冷静な声を出す。
「頬抓っても痛いだけだぜ。これは夢なんかじゃねーよ。オレ達、ちゃんと起きてるぜ。なんか、妙なことが起こってるみてーだな」
颯介は制服のズボンの尻ポケットからスマホを取り出した。スマホから呼び出し音が聞こえた。だが、いつまでたっても応答がない。颯介が眉を顰めてスマホを耳から離す。
「颯介、どこにかけてたんだ?」
「ケーサツ。でも繋がんねーみてーだな。これ、ヤバイんじゃね?」
「繋がらない、ってことは、電話が集中して対応しきれてないってことだよな。それってつまり、この辺で事件が頻発してるってことか」
「かもな。とりあえず、外の様子でも見てみるか」
「おう」
あれだけの騒ぎの後の静寂がかえって気味悪く、伊月は早く外に出たかった。足早に廊下を歩いて、入り口に向かう。あと少しで外だという時に、入り口近くの壁が外側から破壊された。
崩れたコンクリートから見えた外は、まだ六時にもなっていないというのに異常に暗い。
気分が重くなるような黒雲が垂れこむ鉛色の空と、瓦礫の山の背景は、世界の終わりを思わせた。不気味な景色を背に、妙な生き物が立っている。
二メートルはある筋肉質な体躯、耳まで裂けた大きな口。剥き出しの背中は太い体毛に覆われている。
狼男のように見えるが、尻からトカゲのような尾が生えている。二足歩行の獣か、獣染みた人間か判別の付かない容姿だが、化け物には相違ない。
さしずめ終末を告げにきた使者といったところだろうか。
いったい何が起こっているのだろうか。唖然とした顔で固まる伊月を、犬に似た虹彩だけの褐色の目が見下ろす。
三日月のように目を細めて、化け物が鋼のような爪を振りかざした。
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