7人が本棚に入れています
本棚に追加
「伊月!」
鋭い爪に裂かれる直前、颯介に体を引っ張られた。自分がさっきまで背にしていた壁が爪に抉られ、悪戯描きのような三本線ができていた。
ぼんやりしていたら殺される。伊月は我にかえり、冷静に今の状況について考えた。とはいえ、考えられることは少ない。
はっきりしているのは目の前の化け物が倒れていた人達を襲ったこと、そして今度は自分と颯介が餌食になりかけているということだけだ。
「悪い颯介、助かった。とりあえず逃げるぞ」
「だな」
伊月は颯介と顔を見合わせて頷くと、同時に化け物と反対方向の入り口に向かって走りだした。建物の中を逃げ回っていても体力が尽きて捕まるだけだ。隠れたとしても、隠れ場所が少ないのでいずれ見つかるだろう。
化け物が追いかけてきた。重低音の足音が空気を揺らす。化け物の走る速度はかなり速く、すぐに追いつかれてしまそうだ。伊月は隣を走る颯介をチラリと見た。
颯介の百メートル走の最速記録は陸上部のレギュラーよりも早い。もっと早く走れるはずだが、あまり足が速くない自分にあわせてくれているのだろう。このままでは、颯介まで化け物に殺されてしまう。
「おい颯介、外に出たらバラバラに逃げるぞ」
「なんでだよ?」
「このままじゃ二人ともやられんだろ。どっちか一人でも助かった方がいい。なあ颯介、こんな時だからお互い恨みっこなしでいこうぜ。おまえ、もっと足はえーだろ。遠慮なんてしてねーで先行けよ」
「……わかった。ワリーけど、先行くぜ」
颯介が走る速度を上げて遠ざかっていく。これでいい。伊月はほっと胸を撫で下ろした。
幼なじみで無二の親友を自分のせいで死なせなくてすむ。徐々に距離が縮まっている化け物に多少の恐怖はあったが、颯介が一人で逃げてくれたことへの安心感が勝っていた。
なんとか建物の入り口まで走ってきたが、化け物がすぐ後ろに迫っていた。伊月は扉を蹴って外に飛び出す。
伊月のカッターシャツの襟に向かって、毛むくじゃらの太い腕が伸ばされた。
「おらぁっ!」
「颯介っ!?」
先に走っていったはずの颯介が、扉から出てきた腕を細い鉄パイプで殴り付けた。呻き声を上げて、化け物が腕を引っ込める。
「なんでまだいるんだよ、バカ!逃げろって言っただろ」
「置いてけるワケねーじゃん。オレら、腐れ縁の悪友だろ。オレ一人で助かっても、寝ざめワリィっつーの」
生きるか死ぬか。そんな時でさえ、傍に居てくれる友達がいる。その事実は伊月の涙腺を緩ませた。
だが、今は泣いている時じゃない。二人で助かる方法を考えなくては。
伊月は素早く辺りを見回した。武器になりそうなものを探すが、残念ながら役立ちそうなものはない。
素手よりはマシだと、伊月は無数に飛び散った硝子の破片を拾い上げた。手のひらの中に破片を隠すと、腕を押さえて呻く化け物の前に躍り出る。
「こっちだ、かかってこい」
化け物のぎらついた褐色の瞳が伊月を捕えた。地底から響くような咆哮を上げ、化け物が伊月に飛びかかる。化け物がギリギリまで接近したのを見計らい、伊月は隠し持っていた硝子の破片を化け物の顔に投げつけた。
「ギィァァッ」
硝子片が目に入り、化け物が醜い悲鳴を上げて蹲る。化け物が視界を失った隙に颯介が背後に回り込み、鉄パイプで化け物の項を殴り付けた。さっきよりも大きい悲鳴が辺りに轟いた。
「やったか?」
伊月は膝をついた化け物を覗き込む。ジロリと、鋭い眼差しが伊月を捕えた。太い尾が空を切り、伊月めがけて飛んできた。やばいと思った瞬間、体に衝撃を感じた。反射的に伊月は瞳を閉じる。
痛くない。恐る恐る伊月は瞳を開いた。琥珀色の瞳に、肩を押さえて顔を歪める颯介が映し出された。どうやら颯介に庇われたらしい。
さっき感じた衝撃は、化け物の尾ではなく、颯介がぶちあたった衝撃だったようだ。
「颯介!」
「ぐっ、ぅ……、逃げろ、伊月」
「おまえ、おれを庇って―…」
「ぼさっとすんな、さっさ逃げろって」
安心させるようとしているのか笑顔を浮かべる颯介に、伊月はぎゅっとしがみついた。化け物の鋭い爪が颯介に向けられる。
伊月は颯介を庇うように体を捻るが、反対に颯介に守るように抱き込まれる。鋼のような爪先がふり下ろされた。このままじゃ颯介が殺されてしまう。
「やめろぉぉぉっ!」
腹の底から叫んだ伊月の声に気圧されたように、化け物が動きを止めた。
頭を抱え、苦しむように化け物が蹲る。超音波攻撃ができるようになったのだろうか。それとも単に、大声に怯んだだけなのか。
とにかく、今のうちに逃げなくては。伊月は颯介と寄り添うように立ち上がると、化け物に背を向けた。
175センチの高身長に反して、伊月はかなり細身だ。一方、伊月よりも三センチ背が高い颯介は細マッチョな体型をしている。支えて走るのはかなり困難だった。
化け物はよろめきながら立ち上がると、四足歩行で走りだした。ものすごい勢いで駆け寄ってくる化け物に、伊月は今度こそ本当に死を覚悟した。
「ギヤアァァァッッ!!」
背後で断末魔が聞こえた。伊月はピタリと足を止める。
振り返ると、自分達を追っていた化け物が血を流して地面に倒れていた。眉間に穴が開き、赤紫の血が地面に流れている。
背の高い茶髪の男が、屍を見下ろしていた。彼の両手には銃が握られている。
「さっきの声は、お前か?」
男が伊月を見た。前髪を右で分けた上品なショートヘアに高貴そうな端正な顔。伊月は思わず目を奪われる。
スラリと足の長いスタイルも相俟って、まるでモデルか俳優のようだ。
いや、それにしては顔が些か凶悪だ。
温かみのあるヘーゼル色の双眸は絶対零度で、人を寄せ付けない無表情。銃を持っているせいで殺人鬼に見える。
「えっと、あんた誰?おれたちのこと、助けてくれたんですよね?」
ありがとうございますと伊月が続けようとしたのを、男の言葉が遮る。
「そんなことはどうでもいい。それより、お前まさか―…」
男は何か言おうとしてピタリと言葉を止めた。伊月と颯介の背後に鋭い視線が向けられる。伊月と颯介が振り返ると、数体の化け物が迫ってくるのが見えた。男は舌打ちをすると、懐から取り出した紙を伊月に押し付けた。
「歌え。旋律がわからなければ適当な歌い方で構わない。ただし、しっかり歌詞の意味を理解して感情を込めて歌え。死にたくなければ、死ぬ気で歌うことだな」
そう吐き捨てると、男は銃を構えて化け物に向かっていった。
最初のコメントを投稿しよう!