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何が起きているのだろうか。色んな場所から黒煙が昇り、建物が倒壊していた。戦争というほど大規模な破壊ではないが、確実に何か妙なことが起こっている。
自分の家は大丈夫だろうか。胸に過った不安を伊月は振り払う。今は目の前のことに集中した方がよさそうだ。伊月は几帳面に折り畳まれた紙を広げた。
五線譜の上で踊る音符、詩。何かの曲のようだ。伊月は楽譜を速読し、深く息を吸い込んだ。
澄んだ伊月の声が辺りに響き始める。歌手をやっていたおかげか、初見でもだいたいのメロディはつかめた。
歌詞にざっと目を通して、心を込めて伊月は歌う。
闇とか獣だとか恐ろしげな言葉が多い歌詞だったが、旋律にロックのような激しさや暴力性はなく、悲しげな中に温かみのある音が混じる美しい調べだった。
「いま怒りを鎮めて 優しさに触れたなら その拳をおろして 静かな夢に沈む」
普通のテンションで歌うにはちょっと気恥ずかしい歌詞だったが、伊月は頭を空にして、この曲の作詞家になったつもりで言葉を紡いだ。こんな状況で歌って意味などあるのだろうという疑問は頭の片隅に追いやり、歌手だった頃のように、無意識の内に歌の世界に自分を沈みこませる。
思考を止めて歌うことだけに集中しながら、伊月は襲ってくる化け物の様子を見ていた。
勢いがあった化け物の動きが緩慢になっていた。
囲まれて苦戦していた男は、その隙に次々と化け物を始末していく。両手の銃が火を拭き、血飛沫が舞い散った。
辺りが静まり返る頃には、鉄錆の臭いが充満していた。血煙を吸いこんで小さく咳き込み、伊月は歌うのをやめた。軽い眩暈を感じる。
ふらりと揺れた伊月の華奢な身体を颯介が支える。
「もういいぞ。よくやった」
男が銃を腰のホルダーに戻し、伊月に声を掛けた。伊月は颯介に支えられながら地面に座り込む。喉がイガイガして苦しい。霧散した血が喉に貼り付いたらしく、口の中に鉄の味が広がって酷く不快だった。
「大丈夫か?風上に移動するぞ」
伊月はこくりと頷くと、男の後について移動した。
差し出されたペットボトルの蜂蜜レモンを受け取って喉を潤すと、伊月は男を見上げて尋ねた。
「あの、これどういう事態ですか?何が起きてんの?」
「説明は困難だ。この件については俺が勝手にべらべらと喋ってもいいことじゃないからな。一つ言えるのは、今、東京は危険な状況に陥っている。ぼやぼやしていると死ぬぞ。俺の名前は辰宮玲(たつみやれい)だ。今から車で基地に向かう。お前らも俺と一緒に来てもらおう。話はそれからだ」
「いや、急にそんなこと言われても困るんですけど」
「つべこべ言うな。これは決定事項だ。ここに置いていかれて、またさっきみてぇな化け物に襲われたくねぇだろう。隣の奴も一緒でいい、さっさとこい」
高圧的な態度は少し不愉快だが、確かに玲の言う通りだ。伊月は大人しく彼の言葉に従った。
化け物の屍が折り重なるこの場所から、早く立ち去りたいという気持ちもあった。大きな背中を追いながら、伊月は玲を上から下まで観察する。
シングルボタンの黒い軍服に灰色の立ち襟のショート丈のマント、すらっとしたシルエットのスラックスにブーツ。明らかに普通の格好ではない。
銃刀法違反なんてお構いなしで本物の銃をぶっ放していた危険人物に、ついていっても大丈夫なのだろうかと思わなくもないが、颯介と二人きりでこんな危険地帯に放り出されるよりはマシだろう。
彼は何者だろうか。自衛隊という雰囲気ではないし、軍人なんて日本には存在しない。
聞きたいことは山ほどあったが、質問しても嫌な顔をされるだけだろうと思ったので、伊月は黙っていた。
促されるまま伊月は颯介と玲の車の後部座席に乗り込んだ。軍隊っぽいジープを想像していたが、軍用車両でなく意外にも乗用車だった。
車種はメルセデスベンツ、あまり車に興味がない伊月でも名前を知っている高級車だった。
黒いベンツが街を走り抜けていく。伊月は窓の外に目を遣った。高速で流れていく景色は見慣れた街であるはずが、知らない余所の土地に見えた。
相変わらず薄暗い空、壊れたビル、ひび割れた道路。
倒壊した建物の下敷きになった人や、自分達を襲った化け物に襲われたらしい人が、ゴミのようにそこらに転がっていた。窓越しに悲鳴が聞こえてきそうな景色に、伊月は思わず瞳を伏せた。
「ホントに、どうなってんだろーな」
伊月の肩越しに窓の外を見ていた颯介の声はいつもと変わらないトーンだったが、表情は薄暗かった。心なしか顔色がよくない。伊月は不安げに颯介を見詰めた。
「そういや颯介、おれのこと庇って肩やられてたよな。大丈夫か?」
「ん?ああ、大したことねーって、それより伊月は平気か?」
「おれは怪我なんかしてねーから。おれ、足手纏いになっちゃったな。悪い」
「んなことねーって。オマエもオレを助けてくれたじゃん。オマエが叫んだ時、化け物の動き止まったし、歌った時もヤツらの動きが鈍くなってたよな。あれ、どーなってんだ?」
「たんに大声にびっくりしただけだろ。狼みてーなやつだったから耳がよさそうだったし」
「そうか?びっくりしただけってカンジじゃなかったけどな」
「いや、おれにだってわかんねーよ」
分からないことが多すぎて、考えるのが嫌になってきた。もともと悩むのは性に合わない。考えたってわからないと、伊月は考えるのを放棄した。
外を見ていても滅入るだけなので、顔を正面に向けてフロントガラスを見ていた。
車内にラジオが響く。どうせなら明るい曲を流している音楽番組がいいな。密かにそう願った伊月の期待は、あっさりと裏切られた。
「緊急速報です」
明らかに不吉な感じしかしない言葉に、鼓動が跳ねた。聞きたくもないのに、キャスターの固い声が嫌でも頭に飛び込んでくる。
だいたい、緊急速報なんて嫌なニュースしかないのだ。たとえば、高速道路で大事故が起きたとか、大地震が起きたとか、そういった類の災害のニュースだ。
そうでなければ、内閣総理大臣が辞任した、衆議院が解散したという政治的なニュースぐらいしか思いつかない。
できれば後者であって欲しいが、今の状況からいって前者の類の速報であることは間違いなかった。
「東京二十三区の各地で、謎の生物が暴れているのが目撃されています。死傷者は多数。現在、警察や自衛隊が鎮圧に向かっています。また、軍服を着た謎の武装集団が生物の駆除に当たっているようです。外出中の方はすぐに建物内に避難して下さい。尚、目撃証言によりますと生物は人のような狼や、鰐と人間が混ざったような姿で……」
焦りの滲んだ声で告げられるニュースに、伊月は小さく溜息を吐く。
今日はエイプリルフールでドッキリでした。
なんてオチが用意されていたらどんなにほっとするだろうか。
しかし、残念なことに今は六月で、ぜんぶ非現実的な事実だ。さっきまで対面していた状況は紛れもない現実だと、ちゃんと受け入れられている。だからこそ、自然と溜息がでた。
「マジで、おれん家、大丈夫かな……」
「あー、それ心配だよな。でも、電話繋がんねーし、どうしようもねーじゃん」
ごもっとも。至って冷静な颯介の言葉に、伊月はまた息を吐きだした。
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