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冷やし中華はじめました
『冷やし中華はじめました』
父さんに言われて今年も中華料理屋の入り口と店内に張り紙を数枚貼った。うちの店は七月から冷やし中華を始めるので、そろそろ夏休みがくることにわくわくしていた。でも、今年は悩みが一つあって少しだけ憂鬱だった。悩みというのは僕の進路についてだ。
夏休み前に進路希望調査があって将来の目標の欄には「研究者になるために大学進学」と書いた。理系で研究志望の場合、どこの大学が良いのか詳しくはわからないけど、たぶん名前のひびきで「東京理科大」あたりが良さそうな気がした。東京理科大にいくには、それなりの高校に行かなければいけないだろうから、家から近い偏差値六十くらいの県立高校を第一志望に書いた。
いちおう、父さんと母さんにも知らせておこうと思って、朝食中に話をしたら家族会議が始まってしまった。
父さんは中華料理屋を継いでほしいらしい。でも、僕は料理にはあまり興味がなくて継ぐつもりはない。
うちの中華料理屋は父さんと母さんとパートさんの三人でやっていて、常連さんがよく来てくれる。少し前には地方のテレビ局が取材に来て、ちょっと有名になったりもした。テレビ番組では『普通に美味しい街の中華料理屋』と言っていて、その通りだと思った。そんなうちの中華料理屋は悪いとは思っていない。でも、僕としては『DNAとかAIとかの研究者』という仕事の方が魅力的に感じていた。
進学するためには夏休みに塾で夏期講習を受けたいのだけど、父さんが許してくれなくて、でも、お母さんがうまいことなだめてくれたので、なんとか最後の二週間は夏期講習に行けることになった。それも条件付きで、宿題を七月中に終わらせるのと、夏期講習までの期間は中華料理屋を手伝わされることになった。手伝いは理不尽な気がしたけど、やると言わなければその場が収まりそうになくて、諦めたのだ。
そして、夏休みが始まった。
とりあえず、夏休みの宿題は一気にやって七月中に終わらせることができた。そして、八月からは中華料理屋の手伝いが始まった。
注文を聞いたり、レジを打ったり、配膳したり、簡単な仕込みも手伝った。
ミスをすると父さんにきつく怒られるけど、一日の終わりには笑顔で「ご苦労様」と言って、その日の日当をくれた。
手伝いは疲れるけど充実感はあって、お金も貰える。働くってこういうことなのかと身をもって知ることができた。
もらったお金は僕には有り余るくらいで、何かのために貯金をしておくことにしたけど、少しくらいは使おうと思って本屋さんに行ってみると「日経サイエンス」という科学雑誌があったので買ってみることにした。
今月号は『脳とAI』の特集で、難しくてよくわからないことも多かったけど、わくわくが止まらなくて、大人になって研究者になった自分を想像したりしていた。
中華料理屋の手伝いもすぐに慣れてきて、父さんから「一品やってみないか?」と言われた。意味がよくわからなかったので「え?」って聞き返したら「冷やし中華作ってみろ」って言われた。
目の前に一枚の紙が出されて、そこには冷やし中華の作り方がイラストも交えて一から書かれていた。たぶん昨日の夜中に父さんが書いていたものだろう。
僕は断る理由もなかったので、言われた通りに作ってみることにした。
冷やし中華の作り方といっても、麺は既製品を茹でて冷やすだけだし、タレや卵やハムやきゅうりなんかは親父が仕込んだものを書かれた分量を取って皿に盛り付けるだけ。
完成した冷やし中華を見て、自分では上手にできたと思ったけど、その後に父さんが作ったものと見比べてみると、やっぱり見劣りするものだった。
父さんは僕の盛り付けた冷やし中華の皿を引き寄せて一口すすると「うまい」と言ってくれた。
その一言が嬉しくて、翌日から冷やし中華をもっと上手に作れるようになりたくなって、毎日作ることにした。作った以上は食べなければいけないので、僕の食事は全て自分の作った冷やし中華になった。やることは毎回同じなのに味も見た目も少しずつ違くて、でも少しずつ美味しくなっているのが嬉しかった。
ある日、冷やし中華の出前の注文が入って「お前が作れ」と言われたので、注文の二皿を作って親父に見せた。すると「よし、これなら大丈夫だ。そのまま出前に持ってってくれ」と言って、ラップをかけた。
僕の作った冷やし中華がお客さんに食べてもらえる。
認めてもらえた嬉しさと本当に僕の作ったもので良いのかという不安が頭の中でぐるぐると回った。
「ほら、何やってるんだ。料理はできたらすぐに食べてもらう。そうしないと味が落ちちまう」
父さんは岡持に冷やし中華を二皿入れて、お客さんの住所と名前が書かれた紙と一緒に突き出してきた。
「場所はわかるか?」
メモを一瞥すると、幼馴染の大村智子の家だった。大村は幼稚園からの仲で、小さい頃はよく遊びに行ったから家の場所はよく知っている。
僕はメモと岡持を持つと、出前用の自転車に乗って大村の家へ向かった。
大村の家は赤い屋根が目印の一軒家でここからほど近い。それでも夏の日差しは暑くて、五分だけ自転車を漕いだだけなのに、汗が噴き出してきた。
玄関前でハンカチを出して汗を拭ってからインターホンを押した。
「来々軒です。出前の配達に伺いました」
「はーい」
家の中からパタパタと玄関に近づいてくる足音がして、ドアが開いた。そして、出てきたのは大村智子だった。
「あっ、田中君じゃん。とりあえず中に入って」
言われるがまま玄関に入ると、エアコンが効いていて外の暑さとは別世界のようだ。
「じゃぁ、冷やし中華二人前で、千二百円です」
岡持から冷やし中華の皿を出し、玄関の小上がりに置いて会計用の財布をポケットから取り出す。
「はい、千二百円」
ちょうどの金額を受け取って、財布にしまった。
「田中君、ちょっと休んできなよ。外は暑かったでしょ?」
大村は冷やし中華の皿を持って、リビングへ向かった。
僕はまだ仕事もあるけど、今日は忙しくなさそうだし、どうしようかと迷っていると「ほら、リビングで麦茶いれるから、あがって」というので、せっかくだからお言葉に甘えることにした。
久しぶりに上がる大村の家は昔とあまり変わっていなくて、大村の家の匂いがした。
「そこ、座って」
そこというのは昔遊びに来た時によく座っていたダイニングテーブルの左端の席で、座ると目の前に氷のたくさん入った麦茶が置かれた。
「出前、お疲れ様」
「おう」
この席に座ると懐かしさが溢れてくる。でも、あたりを見回してみると昔と少しだけ違うところがあることに気づいた。壁に貼られていた幼稚園の時に描いた絵はスピーチコンテストで優秀賞を取った時の賞状に変わっていたり、家族写真は白衣を着た大村のお母さんがどこかの外国人と撮った写真に変わっていたり、本棚は以前にも増して難しそうな医学書がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「ひさしぶりだね、うちに遊びに来るの」
「別に遊びに来たわけじゃねぇし、出前だから」
「あははっ、そうだね。冷やし中華頼んだんだっけ」
冷やし中華は大村の前となぜか僕の前に置いてある。
「よかったら、一つ食べない? ママがまた仕事で急に呼び出されちゃって。受け持ちの患者さんが急変したみたいなの。せっかく冷やし中華頼んだのにすぐに出て行っちゃった。だから、一つ余ってるの」
大村のお母さんは医師で研究者だ。具合が悪い患者がいるとすぐに病院に向かう。昔、一緒に遊んでいる時にも急に出て行った時があったっけ。
「じゃあ、いただきまーす」
大村は皿にかかったラップを取り、冷やし中華を食べ始めた。
「あー、おいしー。やっぱり夏は冷やし中華だよねー。あれ? 食べないの? もしかして、お腹空いてない?」
冷やし中華に手をつけなかったのは、お腹が空いていないからじゃない。自分が作った冷やし中華を食べてどんなリアクションをするのか見たかったからだ。
「いや……。じゃあ、いただきます」
「どうぞ〜」
自分の作った冷やし中華をすする。いつもの味だ。最近は毎日食べていたから味がわからなくなっていたとけど、改めて味わってみると大村の言う通り美味しい。
「来々軒の冷やし中華はやっぱり特別だよね。ほんと、美味しい」
「美味しいって、本気で言ってる?」
「うん、だって、美味しいじゃん。なんでそんなこと聞くの?」
「それ、俺が作ったんだ」
「え〜、嘘〜? すごーい」
目を見開いて僕のことをじっと見つめる。そんなにすごいことなのだろうか。
「私が作ったのより全然美味しい。料理できるってすごいね」
「いや、父さんに教えてもらった通りに作っただけだから」
「ううん、それでもすごい。もしかして、田中君は中華料理屋さん継ぐの?」
「中華料理屋は継がないよ。研究者になりたいから」
「ママみたいな?」
「大村の母さんみたいに、医者も研究者も両方できるとは思わないけど、研究者になって発明とかしたいなって思うんだよね」
「研究者って結構大変そうだよ?」
「まぁね。でも、ロマンがあるじゃん。新しいものを発見するってすごいと思わない?」
テーブルの上に無造作に置かれた『日経サイエンス』のバックナンバーをパラパラめくりながら言った。
「ママが同じようなこと言っていた。でも、私はママみたいになりたくない」
「どうして?」
「ママは医師と研究で忙しいから家のことはぜんぜんやってくれない。だから、私がサポートしてあげないといけなくて、周りは結構大変なのよね」
「大村もいろいろ大変なんだな」
そう言うと、大村は小さく頷いた。
「でも、ママは好きなことをやっているからキラキラしていていつも楽しそう。だから、ママを助けてあげようって思う。あっ、ごちそうさま。冷やし中華、美味しかったよ」
大村の前に置かれた冷やし中華はいつのまにか綺麗に完食されていた。僕も残った麺を箸ですくい上げ、全て頬張った。
「あのね、ママが言ってたんだけど、料理って研究と同じなんだって」
「どういうこと?」
よく意味がわからず、僕は聞き返した。
「料理の味付けって、ほんの少し用量が違うだけで全然変わってきちゃう。調味料や素材の選び方とか火の通し方とか。最高のバランスを見つけ出すのってすごく苦労することなんだって。これって、たくさんある薬の構造の中から効果のある薬を見つけ出すことくらい難しいことだと思うって言ってた」
「へぇ、料理人と研究者が同じか」
そう言われると、料理人も悪くないように思えてきた。
「そういえば、大村は進路希望調査でなんて書いた?」
「とりあえず、高校は進学校に進んで、どこの大学に行くかは、その時に考えようと思ってる。研究者とか医者はママをみて大変そうなのがわかってるから、違う仕事につくと思うけど。まだ、中学生だしゆっくり考えようと思う」
まだ中学生なんて台詞は少し大人びて聞こえたけど、大村の言う通り僕たちはまだ中学生だ。もっとじっくりと進路について考えても良いのだと思った。
「ねぇ、ちょっとスマブラやらない?」
「いいよ、久しぶりにやろうぜ」
大村がゲームをセットし、コントローラーが渡された。僕はマリオ、大村はカービィを選ぶ。子供の頃から選ぶキャラクターが変わっていないことに少し笑ってしまった。
「幼稚園とか小学生の頃、一緒に遊んだよね」
「あぁ。遊んだな」
「幼稚園の頃になりたかったものって覚えてる?」
「ゲーム作る人とか、YOUTUBERとかだったと思う」
「そういえば、ゲーム実況者になりたいって言ってたよね」
「言ってた。一回やってみたけど、自分の声を聴くのが恥ずかしくてやめた。そういえば、大村の夢はなんだったっけ?」
「私ね、小さい頃はお嫁さんになりたかったの。ままごとが大好きで、田中君にも付き合ってもらったことがあると思うけど。幸せな家庭を持ちたいって思っているのは今でもあまり変わらないんだ。いまどき主婦っていうのは無理だと思うけど、仕事を五時に終わらせて、家に帰ってきて晩ご飯を作って、旦那さんにおかえりって言って。子供ができたら一生懸命子育てして、おやつとかも手作りして、休みの日は家族で出かけるの。ノーベル賞とかすごい賞なんて欲しく無いし、貧乏でもお金持ちでもどっちでもいい。家族と笑顔で毎日を過ごせれば、それでいいの」
大村の家は幼稚園の頃に離婚していて、母子家庭だ。離婚した理由はお母さんの忙しさが原因らしい。大村が幸せな家庭を求めるのは、無いものを手に入れたいからなのだろう。
その後、スマブラは六回を戦ってちょうど三勝三敗。次の一戦で決めようと思った時にスマホがなった。父さんからメッセージだった。『そろそろ帰ってこい』と一言表示されている。
「もう戻らなきゃ」
ついついゲームに夢中になってしまっていた。
「あっ、ごめん。長居させちゃって」
大村はゲームのコントローラーを置いて、テーブルの皿を片付ける。
「冷やし中華ごちそうさま。本当に美味しかったよ」
「じゃぁ、また注文してくれ」
「わかった」
笑顔の大村から二枚の皿を受け取り、玄関の岡持に入れて靴を履く。
「まいどありがとうございました」
形式的に挨拶をすると、大村はちょっとだけ笑った。
「またスマブラやろうね」
「今度は決着つけような」
そう言って玄関を出ると、真っ青な空と大きな入道雲があって、セミがうるさく鳴いていた。父さんに怒られないようにしようと、少しだけ早く自転車を漕いで帰った。
冷やし中華はじめました。
そして、冷やし中華係は、もう少し続けてみようと思う。
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