5月

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5月

 洗面台の鏡のオレは坊主頭が伸びている。試合の出来ない冬は「マリモみたい」と妹に馬鹿にされるほどほったらかしだが、春から夏にかけてのこの時期には、本来ありえない。  ここ何年かで、うちの野球部も坊主頭でなくても可になったけれど、オレは帽子のひっかかり具合が気になるので、近所のおじちゃんがやっている『バーバータナカ』で刈ってもらっていた。中学生の頃は、大会前には頭が青く見えるくらいに短く、高校生になってからはもう少し長くミリ単位で注文をつけていた。 『バーバータナカ』は開いているだろうか。  投げられない分、バットを振る時間が増える。  素振りの合間に手にとったスマホの画面には、武田からのメッセージが1行だけ入っていた。思わず目を瞑ったが、瞼にはその1行がくっきりと浮かぶ。 ――中止だってよ  それはすぐにネットニュースで見つかった。少し前から開催は難しいだろうという流れになってはいた。だけど、緊急事態宣言の効果が出てこればもしかしたら……きっと……。その望みを捨てられずにいたのは、きっとオレだけじゃないだろう。  高野連は、代わりの独自大会を開催すると表明していた。最後に試合が出来る。ありがたいことだ。それでも――それでもさ。  バットを抱えて座り込んだオレに、通りすがりのおっちゃんの声が無慈悲に降ってきた。 「どうせ中止になんだから、家で勉強しなさいよ」  家に帰ると「おかえり」とキッチンから聞えてきた。ただいまと声をかけるが、オカンは背中を向けたまま、やや湿気多めの明るい声で言う。 「おやつテーブルにあるよぉ」  オレが繰り返し歌を聴いていたように、オカンはよく大会歌をくちずさんでいた。  弁当箱だせとか、水筒洗えとか、練習着はすぐに土を落とせとか、靴下がくさいとか。耳にタコが出来るくらい言われ続けてきたけど、最近は、練習着がないと物足りないわと雨が降りそうなことを言うようになった。  春のセンバツ大会が中止になった時も、うちの学校が出場するわけでもないのにオカンは泣いていた。  ごめん、と思う。  だけど、何も言えなかった。    仕事から帰ったオトンは、言葉少なに励ましてくれ、妹は「えー中止なのー?」とその時初めて関心をもったようだ。  その晩はよく眠れず、翌朝のトレーニングはサボった。
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