ジェードの枷

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ジェードの枷

 市街地から数十キロ離れた広大な土地。鬱蒼と生い茂る自然林に囲まれた中に、それはひっそりと建っていた。  昼間にもかかわらず、陽の光はほとんど当たらない。夏がすぐそこまで近づいているというのに、妙にひんやりとしていた。  国外はもとより国内においても、存在自体『幻』だと噂されている、軍事研究所だ。  濁った白いコンクリートの無機質な建造物。地下をベースにしているため、地上は一階部分しかない。軍の中でも、将軍クラスしか存在及び研究内容を知らない機密施設である。  ジークは、いつものように、目的地である最下層まで、エレベーターで一気に下降した。今日、彼がこの場所へ赴いたのは、ある親しい人物と会って話をするため。もちろん仕事だ。 「ドクター」 「フレイム将軍。お疲れ様です」  研究室に入るなりジークが声をかけたのは、一人の男性研究員。  マキシム・ダリス、三十九歳。ヒトである彼は、数多の英知と最先端の技術が集結する、ここの主任研究員だ。  藍色の癖毛に、楕円形の縁なし眼鏡。その奥にちらりと覗くのは、ペリドットのような瞳。年の割に見目若く、整った容姿をしている。……ヨレヨレの白衣を除いては。 「昨日も泊まりか? あまり無理をするな」 「はは。お恥ずかしい」  頭をがしがしと掻きながら、笑ってマキシムは言った。ここ一週間、ラボにずっと閉じこもっていたらしい。  ジークよりも十センチほど身長が低く、痩身のマキシム。  ジークが彼と最後に会ったのは、二週間ほど前だが、そのときと比べると、体の幅が少々小さく(薄く)なっているような気がした。  仕事に没頭すると、食べることも寝ることも疎かにしてしまう、まさに典型的な研究者だ。 「ですが、その甲斐ありました」  それまで緩めていた目元を引き締め、マキシムは口角を上げた。どこか自信に満ちあふれた表情だ。  周りにいた彼のチームの研究員たちも、皆一様に、強い自負心と彼に対する敬意の念を表情に浮かべていた。 「まさか……」  目を大きくしたジークに、肯定の意を示したマキシムは、無言で頷く。そして、壁に備え付けられている大型モニターの前までジークを案内すると、目元に鋭さを重ね、こう告げた。 「ついに成功しました」  モニターに映し出されているのは、緯線と経線で細かく分割された施設周辺の地図。その中心に、一定の速度で柔らかく点滅している赤い真円があった。  マキシム曰く、この赤い真円は、彼自身を表しているらしい。  グローバル・ポジショニング・システム。略してGPS。地上の人や物の位置を三次元測位できるという、画期的なシステムだ。  システム自体は、数年前にすでに確立されていたのだが、精度と性能のさらなる上昇をはかるため、マキシムが中心となり、日夜研究が続けられていた。 「実践で使用できる日も間近です。陛下には、先ほど所長が直接報告を」  現皇帝の勅命により、軍事用に開発がスタートしたこのプロジェクトは、長い年月をかけてようやく完成した。何度も失敗を繰り返し、何度も再試行を重ね、ついにこの日を迎えるに至った。  体を病んだ者。かけがえのない時間を失った者。多くの犠牲の上に、今回の成果は結実した。苦難に苛まれながらも彼らが諦めなかった理由——それは、研究者としての意地とプライド、そして何より、この国に対する厚い忠誠心だ。 「よくやってくれた。これは間違いなく世紀の偉業だ」 「もったいないお言葉、痛み入ります」  ジークの一言に、喜びと達成感がその場を包み込む。中には、俯き、肩を震わせる者もいた。  彼らの目に光ったもの、その重みを、若き少将は自身の胸に深く刻み込んだ。  帰還するジークを見送るため、彼とともに地上一階へと移動するマキシム。  その途中、上昇するエレベーター内で、不意にこんな質問を投げかけた。 「新婚生活はいかがですか?」 「お前まで聞くのか、マキシム……」  二人とも扉のほうを向いていたため、目を合わせることはなかったが、互いの表情は手に取るようにわかった。  ここからは、なんの変哲もない、ごくごくプライベートな友人同士の会話だ。 「将軍が結婚されたということだけで十分驚き……もとい、喜ばしいことなのに、お相手の女性があんなにも可愛らしい方だなんて……聞かないわけにはいかないでしょう?」 「……」  顔面から満開の花が飛び出しそうなほど至極楽しそうなマキシムと、腕組みをして瞼を閉じたまま微動だにしないジーク。なんとも対照的な構図である。 「……そんなに聞きたいのか?」 「ええ。是非」  ちらりと横目で確認した旧友の面構えは、想像していた通りクセのあるものだった。もしかしなくても存分に面白がっている。  正直、この手の質問には辟易していた。立場上致し方ないと理解していても、少しそっとしておいてほしいと、心の中で何度溜息をついたことか。  しかも、相手はほかの誰でもないこの男だ。適当にさらっと受け流すことなどできるはずないし、対部下のように含みを持たせる表現など使用しても無意味である。  観念したジークは、一呼吸置くと、素直に口を開くことにした。 「とてもいい子だ。不満などない……が、何に対しても寡欲でな。もう少しいろいろ主張してくれてもいいと思うんだが」 「贅沢な悩みですね」 「……そう言われるとわかっていたからな。あまり言いたくなかった」  首を傾け、嘆声を漏らす。  ジークが口外することを渋っていたもう一つの理由。それは、自身のコメントに対する、かくの如きマキシムの反応が予測できていたからだ。  普段あまりネガティブな感情を剥き出しにしないジークだが、どうやらこの男の前では抑えきれなかったようである。  さすがは年長者。だてに年は重ねていないということか。  緩く押し上げられるような上昇感に身を委ねる。最深部からの脱出というだけあって、ある程度時間を要するはずなのだが、そんなこんなで、地上までの体感時間はやけに短かった。  エレベーターが止まり、ポーンという弾けた音とともに、ゆっくりと扉が開く。二人は正面を向いたまま、並んで一歩を踏み出した。 「まだお若いですしね。いろいろと不安なことも多いのでしょうが……」  それと平行して、マキシムがジークに語りかける。先ほどまでの剽軽(ひょうきん)な態度から一転。彼は、年相応の落ち着いた雰囲気をにおわせていた。  いくら家柄が良いといえど、竜人の——しかも貴族のもとへ嫁ぐということの憂苦や重圧など自明だ。いまだ面識はないけれど、ヒトである彼には、いたいけな侯爵夫人の気持ちが容易に想像できた。  だがしかし。 「大丈夫ですよ。将軍の気持ちは、必ず奥方様に伝わります」  足を止め、自分よりも幾分身長の高い彼の金眼を正視して、マキシムはこう告げた。幼い彼女に絡みつく負の要素を払い除けるような清々しい顔つき。眼鏡の奥の瞳には、いっぺんの曇りもない。ジーク・フレイムという人物を知り尽くしているからこその言葉だった。 「ずいぶんはっきりと言い切ってくれるんだな」  言われた当の本人は、一瞬だけ目を丸くするも、すぐさま口元を緩めてこう返した。滲ませた微笑の裏で見え隠れするのは、けっして揺らぐことのない決意。 「それはもう。お聞きしていましたからね、彼女のこと。……ディアナ様にお会いできる日を、心待ちにしていますよ」  これに対し、マキシムはどこか自信すら漂わせている。一部語調を強め、何かを暗示すると、目を伏せたその表情を和ませた。  エレベーターホールから、入り口付近のロビーへと場所を移す。  そのまま建物の外まで出ようとしたマキシムを、「ここでいい」とジークが制した。そこでちょっとした問答が発生したが、ジークの主張をマキシムが受け入れるという形でどうにか落ち着いたようだ。 「お忙しい中わざわざご足労くださり、本当にありがとうございました」 「いや。顔を出すくらいしか、私にはできないからな」  頭を低く下げたマキシムに対し、ジークは首を縦には振らなかった。それどころか、情けないとばかりに眉を下げて笑う。 「とんでもありません! 将軍のその献身的な姿勢に、皆励まされました」  けれど、これにはマキシムも首を縦に振るわけにはいかない。  光の当たらない場所で人知れず奮闘している自分たちのことを、これほどまで気にかけてくれたのはジークだけだった。彼が軍の上層部に直接掛け合い、給与などの待遇を含め、便宜を図ってくれていたことも知っている。  だが、マキシムにはもう一つ、ある特別な想いがあった。 「それに今、自分がこうして働いていられるのは、あなたのおかげですから」  彼が今の地位までのぼりつめた経緯。それは、けっして楽な道のりではなかった。  かつてヒトと竜人の間に大きな隔たりがあった時代。彼には、政治犯として投獄されていたという過去がある。もちろん、彼が罰せられなければならないような事実など存在しなかった。  知能指数百八十以上。この並外れた頭脳ゆえ、歪曲された正義により、彼の貴重な数年は潰されてしまった。そんな彼を、理不尽な薄暗い闇の中から救い出し、この重要任務に推薦したのがジークなのだ。この国が新体制となって、まだ間もない頃だった。 「心から感謝しています。本当に」  ペリドットの目を細めて微笑むと、マキシムはそっと右手を差し出した。ジークもそれに応え、黒革の手袋を外した右手を伸ばす。  これからの時代を牽引していくであろう若い二人が交わした握手。立場と種族の壁を越えた彼らが、互いの友情と信頼を再認識した瞬間だった。
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