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閑話(2)
「ん……」
心地好い気怠さの中、ディアナは目を覚ました。
白みがかった淡い光が視界に広がる。枕に頭を沈めたまま、二、三回ほど瞬きをすると、それまでぼやけていた焦点が定まった。
両手を体の右側につき、側臥位から上半身を起こす。
しかし、ぼんやりとしていられたのもつかの間。
「……ジーク様?」
自身の隣に目をやるも、夫の姿が見当たらない。自分は、彼の腕の中で眠っていたはずなのに。
彼の姿を探し、ゆっくりと頭をもたげた。
その直後。
「!?」
ディアナは驚愕した。全身から、サーッと血の気が引いていく。
慌ててベッドから降りると、はねのけた布団も整えずに、寝室を飛び出した。
壁の掛け時計が指していた時刻は、なんとディアナがいつも起床している時刻から一時間もあとだったのだ。
ジークが出勤するまでにまだ余裕はあるが、それでも、家事のスタートを切るタイミングが普段より遅れてしまったことに、ディアナはひどく狼狽した。
自室に戻り、着替えを済ませる。櫛で髪を梳き、身支度もそこそこに、急いでダイニングへと駆け込んだ。
すると、そこには、
「おはよう、ディアナ」
テーブルの上に、悠然と朝食を並べる夫の姿があった。
白で統一された食器たち。平皿にはベーグルサンドが丁寧に盛られ、カップには野菜スープが注がれていた。
もしかしなくとも、彼が朝食の用意をしてくれた模様だ。これを見たディアナの心境は、察するに難くない。
「も、申し訳ありません、ジーク様……!」
悲鳴にも近い青ざめた声で、夫に詫びる。
家事はすべて自分がやると、頑なに……それはそれは頑なに決めていたゆえ、この状況にまごついてしまった。頭がうまく機能しない。
そんな妻のもとへ近づき、ふわりと微笑むと、柔和な声色でジークが言った。
「たまにはいいだろう? まだ休んでいてもよかったのに。……身体、つらくないか?」
そうして心配そうな表情を浮かべ、彼が気遣ったのは、妻の体調。そっと右手を伸ばし、乱れた彼女の前髪を整えてやった。
「え? あ……大丈夫、です」
夫の質問に首を縦に振る。ごくごく素直な返答だ。
だが、彼のこの質問の意図を理解するやいなや、彼女の脳内を、深夜の一連の出来事がグルグルと駆け巡った。なんともいい得ぬ恥ずかしさが込み上げてくる。
あのときは平気だったのに、改めて彼と向き合うと、どんな顔をすればいいのかさえわからない。少々痛みすら感じるほどに、彼女の頬は火照っていた。
「とりあえず座って待っていてくれ。すぐ飲み物を用意する」
脳内だけではなく、目をもグルグルと回していたディアナだったが、夫のこの発言に案の定反応した。
「あっ、わたしが……!」
直前の羞恥心はどこへやら。ある種の使命感に、ディアナの羞恥心は瞬時に吹き飛ばされたようだ。
勢いよく夫に申し出る。が、「今日くらいは私にやらせてくれ」と、すっぱり却下されてしまった。
なかば強制的に椅子へと座らされ、そわそわしながらも大人しく待つことに。……実に手持無沙汰である。
そんな中、ふとテーブルの上に視線を向けた。
彩り豊かに飾られた朝食。ベーグルサンドには、レタスやチーズ、それに生ハムが挟まれており、食べやすい大きさにカットまで施されていた。野菜スープには、目で確認できるだけで、七から八種の野菜がトロトロに煮込まれている。
ジークは本当に器用だ。大概のことはなんなくこなすことができる。生まれで判断するのはよくないとわかっているが、貴族にしては珍しいはず。
結婚して半年以上経つが、今なお夢を見ているようだと、ディアナは嘆息した。
手際よくお茶を淹れる彼のほうへと視線を移す。優雅な動きに思わず見惚れてしまった。
人柄も、知性も、器量も……何もかもが抜きん出ている。こんなにも素晴らしい彼が、自分なんかを妻として迎えてくれたなんて信じられない——そう思わずにはいられなかった。
「待たせたな」
「あ、ありがとうございます」
夢見心地に浸るディアナのもとに、ジークがハーブティーを持ってやってきた。もちろん、使用されたハーブは、彼女が育てたものだ。
「食べられるだけ食べるといい。ゆっくりで構わないから」
いつものように妻と対面して腰を下ろすと、ジークは彼女に食するよう促した。
「すみません。……いただきます」
恐縮しながらも手を合わせる。そして、四分の一サイズにカットされたベーグルサンドを手に取ると、ぱくっと一口頬張った。
「! ……美味しいです」
思わず目を丸くしたディアナ。どうやら、想像をはるかに超える美味だったようだ。
中に挟んである食材は一目でわかったが、ベーグルの内側に塗られてあるソースの材料がいまいち把握できない。
口の中に広がったのは、濃厚な旨味と程よい酸味。今まで経験したことがないテイストだったが、とても味わい深いものだった。
「そうか。よかった。お前の料理には劣るがな」
「そ、そんなことありません! 本当に、美味しいです」
謙遜する夫に、蕾が綻ぶように頬を緩めて妻が告げる。
夫に朝食を振る舞ってもらえるだなんて、なんとも贅沢な朝だと、妻は幸せを噛み締めた。
これに対し、少し間を置いた後。夫は笑みをこぼすも、わずかに茶目っ気を含んだ表情と語調で、こんなことを宣った。
「では、今後もキッチンに立たせてもらうとするか」
「!」
ジークのこの言葉に衝撃を受けたディアナは、さきほどよりもさらに目を丸くした。
おたおたする彼女に、眉を下げてジークが微笑む。今の妻の心情は、手に取るようにわかるけれど、彼は冗談だとは言わなかった。
結婚する際に彼女が自ら申し出た。「家事はすべて自分がやる」と。それを尊重してやりたいという気持ちは、今でも変わらない。
とはいえ、この小さな体に負担をすべて背負わせてしまっていることは、やはり心苦しいのだ。
「……そ、それでは、一緒に……」
そんな夫の想いが伝わったのだろうか。遠慮気味に、提案するように、ぽつりとディアナが呟いた。
しかし、このあとすぐに、「たまにですよ。たまにですからね」と必死で訴えた妻に、「わかったわかった」と、まるで子供をあやすかのごとく夫は頷いた。
そこには、新たな夫婦の幸せが、鮮やかに芽吹いていた。
朝食を終え、迎えた出勤の時間。
ここからは、いつもどおりの朝だ。
夫がコートに袖を通すのを手伝ったディアナは、彼を見送るため、玄関まで向かう。床との間に少し段差があるせいで、彼との目線はさほど変わらない。けれど、それでもまだ、彼のほうを若干見上げる形となってしまう。三十センチの身長差は、やはり大きい。
「お気をつけて」
「ああ」
笑顔で夫を見送る。結婚した当初は、見ること叶わなかった光景だ。
普段なら、ここでジークは玄関のドアを開け、職場へと足を運ぶのだが……。
「ディアナ」
今日は違った。突如、真剣な面持ちで妻の名を呼ぶ。
そして、次の瞬間。
「? どうなさいま……——っ!」
ジークは、ディアナの手のひらをぎゅっと握り、自身のほうへその体を引き寄せると、思いきり抱き締めた。
「……いってくる」
自分の胸に妻を収め、その鼓膜を撫でるように、優しく耳元で囁く。
突然のことに虚を衝かれたディアナだったが、すぐさま、彼のその大きな背中に、自身の腕を精一杯回した。
「……はい。いってらっしゃいませ、ジーク様」
愛しさが、胸の奥から際限なく込み上げてくる。
あの日、あのとき、奪われてしまった手のひら。冷たく凍えたままとなっていたそれを、全身を……心を、温かく包んでくれる大きな存在と巡り会えた。
自分は彼と生きてゆく。もう離しはしない、絶対に。
たとえ何が、起きようとも。
願わくは、この奇蹟の花が、
どうか枯れることの、ないように。
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