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トパーズが分ける明暗(2)
ダイニングテーブルには、豪勢な食事が所狭しと並べられていた。中央には、ワインも置かれてある。
肉と魚、そして野菜がバランスよく調理された晩餐。彩りも香りも申し分ない。
いつもは、ディアナとジークが対面して席に着くのだが、今日は夫妻が隣同士に座り、ジークのちょうど向かい側にマキシムが腰掛けた。
普段は夫婦二人きりの食卓。ゆえに、ゲストの居る空間というのは、どことなく新鮮である。
「将軍からお聞きしてはいましたが……口に入れる前から感動したのは、生まれて初めてです」
テーブルの上を見渡したマキシムが嘆声を漏らす。彼女の料理に、よほど感銘を受けたらしい。
こんがり焼き立てパンにポタージュスープ、グリルチキンに白身魚のソテー、そして色とりどりの野菜スティック。
盛り付けに関しても、その随所に、彼女のこだわりやセンスが見受けられる。
上品、かつ、繊細な配置。
おそらく、マキシムでなくとも感動することは不可避だろう。
「お口に合うかどうか、わかりませんが」
口元に微笑を湛えるも、少々心配そうにディアナが言った。
料理は好きだ。昨夜から、せっせと仕込みを行ってしまうほど。
しかし、そこまで張り切ったからといって、マキシムの好みに叶うか否かは定かでない。
彼が、視覚的・嗅覚的に好感を示してくれたことにひとまず安心するも、味覚的に受容されるかどうかは、また別の話だ。
そわそわしながら、彼に食べるよう促す。
「いただきます」
手を合わせたマキシムは、スプーンを左手に持つと、まず初めにポタージュスープを口に運んだ。ゆっくりと口内に収め、こくりと喉を鳴らす。
その直後。
「美味しい……!」
大きな目をさらに大きくして、彼は最大級の感嘆符を打った。
食に対して無頓着な性質ゆえ、この現状に一番驚いているのは、他ならぬ彼自身のようだ。
「よかった……」
マキシムのこの反応に心底安堵した様子のディアナは、夫と顔を見合わせ笑みを交わすと、自身も食事を開始した。
食間も、男性二人のグラスにワインを注いだり、野菜スティックを補充したりと、ごくごく自然に体を動かす。
いつもなら、そろそろ夫が妻に代わって始動する頃だが、この日は珍しく腰を落ち着けていた。夫の友人のためにと意気込み、いつにも増してアクティブになっている妻の意思を尊重したのだ。
きめの細かい彼女のもてなしに、食も進めば会話も弾む。
「本当に美味しいです。それに、楽しいです、とても。……誰かの手料理を食べたのなんて、何年ぶりでしょうか」
「マキシムさんは、一人暮らしなのですか?」
「ええ。自炊もするといえばするのですが、職場にいる時間のほうが長いので、どうしても疎かに……あ」
ディアナとのやり取りで、マキシムの中のとある記憶が呼び起こされた。真正面のジークに向けて、おもむろに視線を投げかける。
それを受けたジークは、思わず食べる手を止めた。不思議そうな面持ちで、彼の口から次に発せられる二の句を待つ。
「私が手料理を食べたの、おそらく将軍が振る舞ってくださった、あのとき以来ですね」
「……それ、もう三年くらい前の話だぞ」
マキシムのにっこりベビーフェイスとは対照的に、ジークの顔面はたちまち顰めっ面へと変わってしまった。語気も下降気味だ。
友人同士、想起した出来事は、どうやら合致したようである。
「ジーク様が、マキシムさんに手料理を?」
「はい。わざわざ自宅まで来てくださって」
「そうなのですか。すごく楽しそうですね」
ジークがマキシムに手料理を振る舞った——この字面だけを、綺麗に純粋に受け止めたディアナの、至極素直な感想だ。
仲睦まじく食事をしている彼らを思い浮かべ、ほっこりする。
「……ディアナ。今お前が頭に浮かべている場景は、全部消したほうがいい。絶対間違っているから」
「え?」
「そうですね。百八十度違うでしょうね」
「えっ?」
だが、夫とその友人から返ってきた思いもよらぬ返事に、ディアナは狼狽えた。正反対の彼らの表情を、おたおたしながら交互に見つめる。
そうして、二人から聞かされた逸話に、ほんわかとしていた彼女の胸中は、瞬間冷却されてしまった。
今から三年ほど前。ジークが一時帰国した、ある夏の日のこと。
久々に会って話でもしようと、ジークはマキシムに連絡を試みた。しかし、いくら試みても繋がらず、不思議に思った(嫌な予感が働いた)彼は、屋敷からほど近いマキシムの自宅(官舎)を直接訪れることに。
すると、室内灯が点いていないにもかかわらず、玄関の鍵が開いていたため、覚悟を決めて勢いよく突入した。
そこに広がっていたカオスな光景に、ジークは自身の目を疑った。
彼の足下に転がっていたのは、なんとマキシム。
抱え上げ、必死で呼びかけるも、応答がない。脈があることにとりあえず胸を撫でおろし、一刻も早く病院へ運ぼうと、マキシムの体を揺り動かした。
次の瞬間。
——んん……。
ジークの耳に飛び込んできたのは、マキシムの寝息だった。
ここまでの経緯で、何が起こったのかを瞬時にまるっと察したジーク。冷蔵庫の中に眠っていた賞味期限ぎりぎりの食材でぱぱっと手際よく軽食を作ると、幸せそうに眠る友人をべちんっと叩き起こし、なかば強引に口の中へと放り込んだのである。
さながら母親のように。
ジークが鋭く問い詰めると、三日三晩、それはそれは見事に不食不眠の生活を送っていたと、マキシムは白状した。
「いやー、あのときは本当に助かりました」
「玄関のドア開けて、暗がりで倒れているお前を見つけたときは、なんのホラーかと思ったぞ」
「あとで医者にこっぴどく叱られましたよ」
「当たり前だ」
前方から飛んできた友人のふにゃけた笑顔と言葉に、ジークが呆れ顔でピシャリと返す。
後日、諸々の検査を受けたマキシムは、軽度の栄養失調と過度の睡眠不足だと診断された。ある意味、『研究者あるある』なのかもしれないが。
ちなみに、マキシムを叱り飛ばした医者とは、女傑イザベラ・オランドである。
「……というわけだ、ディアナ。想像していたのとは、まるきり違っていただろう?」
妻を慰めるように夫が漏らす。直前まで飄々としていたマキシムだが、彼もまた、ディアナに対し、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
確かに、思い描いていた和やかなムードを一掃されてしまったディアナだが、意外にも落ち込んだ様子は見られなかった。
それどころか、
「なんだか素敵ですね」
こんなことを口にした。
きょとんとした男性二人が顔を見合わせる。
「……あっ! いえっ、マキシムさんが倒れられたことを肯定するとか、そういうことではけっしてなくてですねっ!」
誤解を招いてはいけないと慌てて釈明するも、ディアナはすぐさま顔を綻ばせた。
「ただ、お二人の関係が、とても素敵だなと、思って、ですね……」
桃色の愛らしい唇から紡がれる言の葉。しおらしく、はにかむように語る様は、十八歳の少女そのものだった。
彼女には、友人と呼べる存在が、皆無に等しい。
知り合いはたくさんいるが、それは『彼女の』というより、むしろ『家の』相手。世間話をしているだけでも、変に身構え、変に緊張してしまう。
ゆえに、彼らのように心を許し、なんでも言い合える相手というのは、存在しないのだ。
「また、お二人のお話、いろいろ聞かせてくださいね」
聞いているだけでハラハラドキドキするという、今までに味わったことのない感覚。不謹慎かもしれないが、すごく興奮した。楽しかった。
この短時間、臨場感をもって彼らとともに過ごせたことが、たまらなく嬉しかった。
「今日は本当にありがとうございました」
心躍る時間は、あっという間に終わりを告げる。
「いえ、とんでもありません。こちらこそ、ありがとうございました」
現在、ディアナは庭先でマキシムと二人きり。ジークはというと、一旦外へ出て来たものの、突然電話が鳴り出したため、再び家の中へと入ってしまったのだ。
夫が戻ってくるまで、マキシムの帰宅は、一時おあずけに。
庭に咲いた金木犀の甘い芳香が、二人の鼻孔をくすぐる。空には、眩いばかりに星が輝いていた。今にも降り注いできそうだ。
「……主人があんなふうに話をするところ、初めて見ました」
ひんやりとした夜風に乗せるように、ぽつりとディアナが呟いた。
虚を衝かれ、目を丸くしたマキシムだったが、彼女の次の一言に、さらに驚愕した。
「マキシムさんは、軍の方……ですよね?」
「えっ!? あー、と……」
いくら備えていなかったとはいえ、こんな反応をしてしまっては認めているも同然だ。まったくもって彼らしくない。それほどまでに、動揺してしまった。
……でも、どうして?
マキシム自身はもちろん、ジークだって、『軍』を臭わせるワードは一度たりとも口にしていないのに。
これが、いわゆる女性の勘というやつなのかと、マキシムは心の中で感服した。
さて、どうしたものか——そんなふうに思案に暮れていると、焦ったディアナが先に口を開いた。
「あっ、す、すみません! いいんです、話さなくて。……主人の立場上、彼が仕事で悩んでいることとか、苦しんでいることとか、わたしは聞くことさえできなくて……」
「……」
「だから、公私ともに気兼ねなくお話できるマキシムさんは、主人にとって、とても頼もしい存在だと思うんです。……これからも主人のこと、どうかよろしくお願いいたします」
「……——」
小さな彼女が、ますます小さく見える。
そんなに頭を下げなくてもいいと、そんなに畏まらなくてもいいと。
伝えたいのに、伝えられない。
夫のことを心から想い慕う健気なその姿に、一瞬言葉を失うほど、彼はひどく心を打たれてしまった。
流れる沈黙。いまだディアナが顔を上げる気配はない。
「将軍、は……」
静寂を縫うように、やっとのことでマキシムが声を発した。
それに呼応するように、ディアナが頭を持ち上げる。
「将軍は、間違いなく、もっと上に行かれる御方です。将来きっと、今よりもつらい立場に身を置かれることになる」
彼女の素直な気持ちに応えるのならば、下手に繕ったりせず、ありのままの気持ちを音にするべきだ。そう、マキシムは自分に言い聞かせた。
たゆまぬ眼差しを彼女に向ける。
「……ですが、隣に貴女がおられるのなら、彼は絶対大丈夫です。仕事の話など聞かなくても、貴女が傍にいるだけで、とても心強いはず。彼が貴女と結婚できたこと、友人として、本当に嬉しく思います」
「……マキシムさん……」
自身よりも夫のことをよく知るであろう彼のこの励ましは、今の彼女にとって、このうえなく意義のあるものだった。
熱くなった目頭から雫が零れそうになるのを、必死で我慢する。力強く頷くと、ディアナはもう一度頭を下げた。
その双眸は、頭上に広がる星空と、寸分違わぬ煌めきを放っている。
いっさいの曇りも、わずかな迷いも、そこには映っていなかった。
「すまない。待たせたな」
そこへ、たった今通話を終えたジークがやって来た。
家の中から持ってきた妻のストールを、さり気なく肩に掛けてやる。
「あっ、ありがとうございます。……どなたからだったんですか?」
「ん? ああ。棟梁からだった」
通話の相手は、先日お世話になったばかりの彼とのこと。
例の一件で、おしゃかとなってしまったプランターの代わりを、明日の午後配達してくれることが決まったらしい。
これを聞いた妻は、お茶の用意とともに頭の中のスケジュール帳へと刻み込んだ。
「では、またな」
「ええ。お邪魔いたしました」
心躍る時間は、あっという間に終わりを告げた。
「また、いつでもいらしてくださいね」
明日からも、いつもと同じように、忙しない日常が口を開いて待ち構えている。
見送る夫婦にお辞儀をすると、マキシムは家路を歩いた。藍色の髪が、次第に闇へと溶け込んでゆく。
彼の姿が見えなくなるまでずっと、ディアナはその小さな手を、高く大きく振り続けた。
◆ ◆ ◆
机上を朧げに照らすカンテラの炎。
まるで生を得ているかのようなそれは、狭い空間を窮屈そうに蠢いている。
「先方から、『此度も良い品だった』と、お褒めの言葉をいただきました」
「……そうか」
浮かび上がった邪悪な謀。黒い影が、不定な律動に合わせ、怪しく揺らめいた。
「世界は、我々がこの手で導く。そのための犠牲は、多少已むを得ん」
不穏な声に誘われたのだろうか。厚い雲が参集し、空を覆う。
星が、隠れた。
「正善なる、ゆかしき時代を再び……」
暗闇に渦巻く混沌の芽は、無情にも、不気味に息吹いていた。
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